九、遺書

 三月に入って半月の間は体調を保っていた敬助が、久しぶりに熱を出した。千歳は、歳三の仕事の合間を見ては副長部屋に入って、敬助に水を飲ませたり、汗を拭ったりした。

 申の刻になり、馬越との勉強場所である食事の広間に出た。馬越はいつも先に来て、前日の復習をしながら待っている。千歳は、敬助に薬を運んでいたこともあり、少し遅れて広間へ行ったが、馬越はいなかった。土間で米を炊く六兵衛に馬越の所在を訪ねても、まだ来ていないと言う。

 千歳は土間を上がり、座敷の壁に背をもたせかけ、懐から帳面を取り出して広げた。昨日、敬助に質問した内容が書き留められている。もう一度、疑問を整理し直しながら、馬越を待つことにした。


 昨日は、『古事記伝』第一巻の終わり、「人欲じんよく」についての記述に疑問が残った。

 宣長は説く。儒学者によって定められた道徳に背く心を「人欲」などと言って憎むことは、理解できない。なぜなら、「人欲」が生まれるのは、それなりの理由があってのこと、自然の摂理で生まれてきているのだから、と。

 この主張に、馬越が疑問を呈した。

自然じねんに生まれるモンなら、良えん? 死穢しえかて、天然の為せるモンやけど、汚らわしいモンやんなぁ』

 馬越が想定しているのは、やはり、愛欲についてだ。自分の節度ない愛欲の理由が何であるなら、それに従うことが許されるというのだろうか。この疑念に対して、千歳が上手く答えられなかったのは、こちらも、万葉集の恋愛歌が受け入れられない思いがあるためだ。

 しかし、帳面には敬助の言葉が書かれている。欲と同じく、道徳心も生れながらに持ち合わせている。そのため、欲を放縦させない道徳心があるのだから、欲を抑え付ける必要はないと。

『自分自身の持ちよる道徳心なん、信じられたもんやない』

 そう言っていた馬越はこの説明で納得してくれるだろうか。千歳が顔をしかめてうめく。

「どうした? 腹がしぶるなら、早めに厠へ行った方が良いぞ」

 土間を抜けて広間の北の部屋へ向かう斎藤が千歳をからかった。千歳が頬を膨らませて抗議を示すも、斎藤は呑気な笑い声を立てて通り過ぎて行った。

 千歳は帳面を閉じて、馬越を探しに八木邸へ向かった。


 八木邸の座敷は北の縁側から表玄関の式台まで、障子と襖が開け放たれて、部屋には隊士たちそれぞれの行李や脱ぎ置かれた羽織、布団の山から転げ落ちた枕などが、散らかっていた。

 その奥の間、玄関に面した座敷には縁側に背を向けて座る馬越がいた。呼びかけるも返事はない。千歳は草履を脱いで、縁側を上がり、部屋に入る。

「どうしたの? ねぇ、馬越くん? 寝てるの……?」

 千歳が正面に回り込んで様子を伺うと、馬越は手に広げた書状へ目を落としたまま、呆然と涙を流していた。

「う、馬越くん……? ねぇ」

 部屋には他に誰もいない。土間の納屋では雅と下女が蚕の世話をし、表の庭では総司と遊ぶ勇之助の声がする。千歳はためらいながら、馬越の手から書状を取り、目を通した。

 岸本による遺書だった。

 そこには、長山から果たし合いを申し込まれて受けたこと、長山に勝ったときは馬越と念約を交わしたいこと、勝手なことをした詫びと、これまでの礼などが書き記されていた。

「昨日の晩──」

 馬越が空になった手元を見つめながら、話し始めた。

 昨晩、遅くまで土間に灯を点して『古事記伝』の第一巻を読み返していた馬越は、皆が寝静まったころに表玄関前の間に戻り、床に着いた。すぐに眠気が来て寝付いたが、人の気配に意識が覚醒し出す。誰かが枕元にいる。馬越は息を潜めて、寝たふりをし続けた。暗闇の中、しばらく馬越を見つめたその影は、ゆっくりと上体を倒して、馬越に口付けをした。

「きっと、岸本さんじゃ……。ほんま、僕は……ほんまに、どうしようもない──!」

 唇に指を添わせて、泣き続ける。全ての原因は自分だ。退屈しのぎに、悪気もなく他人の心をもてあそんだ。歳三からは、二度も忠告を受けていた。あの宴席以来、心を入れ替えて努めていたつもりだが、それでも、変わりたいと思ってすぐに変われるほど、簡単なものではなかった。


 桜の盛りが過ぎたころ、道場でひとり稽古をしていたとき、静かに入って来た長山に後ろから抱きしめられた。久々に感じた人の熱がもたらす高揚と安心に、欲は理性で消せないことを思い知った。

 歳三からの忠告を守ろうとする心と、欲に動かされて熱を求める身体とが、相反する意志を持って自分を動かそうとしても、結局は動けない。

 千歳に対して、嫌と言ってみろなど、言えた義理もない。そもそも、あれは、周りに流される自分自身を外から見ているようで、腹立たしかったのだ。馬越は、無抵抗に長山の唇を受け入れていた。だからこそ、馬越は日常の中で長山を避けた。

 種蒔き・・・はしなくなっても、隣部屋の岸本とは話す機会が多かった。馬越が難しい顔をしながら『古事記伝』を読んでいたら、岸本なりの解説を交えて、一緒に考えてくれた。岸本のことは、純粋に良い先輩と思って付き合えた。

 それが、長山を苦しめていた。愛撫は受け入れられるのに、接触そのものは回避される。千歳に恋をしたと噂は立つが、馬越も千歳もお互いを少しずつ苦手と思いながら接していることを、長山は感じ取っていた。それくらい、馬越のことをよく見ていた。

馬越が一番素直な態度で接している相手が岸本であり、岸本の視線は自分と同じく、熱を持って馬越を求めていることも気付いた。これを討ち倒さねばならない。長山は果たし状を認めた。


「馬越くん、馬越くん、落ち着いて」

 千歳が手拭いを差し出し、馬越に渡す。岸本の遺書に、果たし合いの場所や日時は書いていない。

「何か知らない? わからない? これは……マズいよ……」

 千歳にも焦りが見えた。馬越は手拭いに顔を埋め、首を振り、

「僕が死んだら良えんじゃ。こんな……こんな奴……」

と嘆くばかりだった。千歳はその背中を撫でた。

 千歳が、ハッと思い付き、隣部屋の行李を無造作に開け出した。

 一番手前のものには、丸に一両引きの家紋が染め抜かれた羽織が丸めて入れられており、原田のだとわかる。すぐに閉じて、隣の行李を開けるが、これも細々とした雑貨の下に藤堂蔦のあしらわれた漆の木箱があったので、これも岸本ではない。

 押入れを開けて、手前の行李を引くと、軽い。開けてみれば、整然と並べられた着物の上には文箱があり、中には書状が一通のみ、表書きには「謹んで御願申上候」とあった。

 岸本の公式の遺書と見た千歳は、それを開いた。勝手を詫びる長い文言のあとに、長山からの果たし状の写しがあった。場所は壬生から西へ少し行った畑中にある月光稲荷、時間は今日の申の刻と記されている。

「馬越くん!」

 千歳が叫び、馬越に駆け寄る。申の刻の鐘が鳴ってから、四半時は過ぎていないだろう。まだ間に合うかもしれないと、千歳は馬越の腕を引き立てるが、馬越は腕を振り払い、突っ伏して泣いた。

「僕も死ぬ……死なねば、許されん……!」

 千歳は焦った。今、ひとりで置いて行けば、馬越は本当に腹を召すかもしれない。けれども、長山たちも放ってはおけない。馬越につられて、涙が出てきた。

 千歳は土間に走り降り、雅を呼んだ。半泣きの様子に、雅は驚いて駆け寄る。

「ど、どないしはったん?」

「ちょっと、行かなくちゃいけなくて。馬越くん、馬越くんが……辛そうなので、側にいてくださいませんか? 目を離しては、いけません」

 そう言い残して、遺書を手にした千歳は土間を抜け、縁側に脱いだ草履を拾い、前川邸へ走った。

 敬助は熱を出している。歳三は、近藤と共に外へ出かけた。誰に助けを求めたら良いか。


『うっかり、果たし状を書かせるようなことにはならないように』


 馬越へ忠告するよう言ってきた斎藤は、先程、部屋に戻っていた。

 岸本の遺書を見せ、粗方の事情を説明すると、斎藤は素早く襷掛けをして、大刀を差し、前川邸を出た。夕日は既に嵐山に陰って、ほの明るい青麦畑の中をふたりは走った。

 千歳は大刀を差さない分、身軽だ。斎藤の前を走って行く。

 支度をしながら、斎藤が聞かせてくれた。果たし合いには、色々と作法があり、始めるまでに時間がかかる。また、道場での試合と違い、命が懸かっていれば、安易に間合いを詰めはしない。抜きあったまま、ひたすら相手の気に隙が生じるのを待つのだ。

「俺も、睨み合うまま半刻近く過ごしたよ」

 一年半前の秋のことだという。

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