八、風説

 最近の馬越は、何やら様子が違うらしいとの噂を副長部屋に届けたのは、巡察終わりの報告に副長部屋へ上がった斎藤だった。各副長助勤には、巡察時の出来事と共に、隊内で直近に見聞きしたことを話すように言ってある。諍いを察知して仲裁するために始めたことだが、隊士から見た隊の風説はおもしろく、歳三と敬助共に、密かな楽しみにしていた。

 永倉などは折り目高なので、誰それの雑巾掛けはいつも抜かりなくて良いとか、あいつは味噌汁を毎回大目に入れるように要求しているとか、非常に細かい報告が入る。総司からは、島田に甥っ子が生まれたと聞かされて、副長の連名で祝いの品を渡したりもした。安藤は、どうも他人の行いに興味が薄いのか、落とし紙のような備品の不備不足を調べて、告げてくることが多い。

 斎藤はというと、勘を鍛えるためと言っては、噂話をよく聞き集め、「荒れそう」な話題を嗅ぎ取ってくる。それは、なかなかの的中度を誇っていた。そんな斎藤の現在の注目は馬越で、十日ほど前の晩、北野の路地裏で長山が馬越に口付けするのを見たという報告以降、二回に一回は馬越に関する話題を報告していた。

「山南さんが初めて講義した日……あのときは喧嘩してたみたいですけど、あの日以来、酒井くんと毎日本を読んでいるじゃないですか。急に真面目になって、酒井くん以外には笑いかけなくなったんで、専ら、本気の恋だろうって噂です」

「それはないよ」

 歳三が被せ気味に返した。千歳は馬越との読書を終えると、副長部屋で夕飯の支度をしながら、先刻の学習の間に浮かんだ疑問を敬助に投げかけ続けている。拾い聞くに、馬越は本当に勉強をするつもりらしい。

「あの子は、勉強に目覚めただけだ。それから、必要以上に気遣って笑う必要はないと、私から言っている」

「ふうん」

 斎藤が腕を組んで、敬助の方を見る。少しばかり、おもしろそうな顔をしているのを見逃さなかった。

「いいんですか? 俺、この件は荒れると思うんですけど」

「なぜだい?」

 敬助が神妙な顔を取り繕って問い直した。歳三が一瞬見せた焦りが千歳に向けられたものであることは明らかだ。良い兆しだと思っていた。

 斎藤が低く明瞭な声で話し始めた。今までも、馬越は千歳に好意を示していたが、本気ではなかった。そして、皆に愛想が良かった。そのために、馬越に懸想する周りの隊士たちも、馬越が誰の物にもならないように程よい距離感で牽制しあっていた。それが、千歳以外に笑顔すら見せないとなれば、これまでの平衡が崩れてしまう。

「いいんじゃねぇのか? あのまま、無駄ににこにこさせてるより、よっぽど」

 面倒臭そうに答える歳三に、斎藤は呆れたような顔を見せる。

「土方さん……男の嫉妬は、即、実力行使に結び付きますからね。ほんと、甘く見ない方が良いですよ」

 若干、気に障った歳三が頭の後ろで手を組み、

「何が楽しいのかね。狭い中で、野郎を追っかけ合って」

と言うと、斎藤は楽しいことが他にないのだと返す。

「連中、そうそう遊びにも行けませんから。とりあえず、給料上げてください」

「却下だ」

 嘆願の甲斐あって、新撰組の雇い主は、引き続き会津侯容保と定まり、新撰組にとっては、思想の面でも組織運営の面でも、最善の結果に治った。とはいえ、今後、容保が軍事総裁を務める征長軍が発進したならば、会津藩の財政が厳しくなることは必至であり、併せて新撰組への給与金も、減ることはあっても、増えることは決してないだろう。

 斎藤が、二、三の報告を済ませ、話を終えようとしたとき、歳三が尋ねた。

「そうだ。この前から言っている、隊規を文で定める話、どうだい?」

 ここ二日、副長助勤に聞いている質問だ。今まで明文化してこなかったいくつかの隊内規則を、改めて定めるかを議論している。

 斎藤は渋い顔をして深くうなってから、

「でも、賛成多数なんですよね?」

と敬助を見た。敬助がうなずいて、賛成派の名を挙げていく。

「武田さん。発起人だからね。あとは、総司くん、永倉くん、平助くん……と言うか、賛成を示していないのは、君と、相変わらずの安藤さんくらいだよ」

「そうですか」

「賛成しないのは、どうしてだい?」

「だって、規則は同時に罰則も作らなくちゃいけない。罰則となったら、あーあ……俺、また働かされるんですよねぇ、土方さぁん」

 歳三は、文机に片肘を着いて、斎藤を見た。姿勢悪く胡座をかいた斎藤の顔付きは、情けない声音に反して、いつもどおり、端整なものだった。

 総司に次ぐこの剣客には、入隊からの一年間、何件か特別の仕事を命じてきており、いずれも、文句のない働きぶりだった。けれども、仕事のあとには必ず、坐禅を組んで、一夜を明かすことを知っている。

 喧嘩の末に人を斬り殺したこの男は、以来、自らの剣が正しさのために振るわれているかを大層気にかける。しかし、同じく正義のためにしか剣を振らないと公言する永倉が、暗殺には手を貸さないのに対して、斎藤は隊命とあらば断りはしない。それでも、心の内は、今見せた通りだろう。

 歳三が言い聞かせるように、言った。

「君の手は煩わせない。違反者には、自分で始末してもらうつもりだ」

「そうは言ったって、介錯はいるでしょう?」

 切腹のさい、苦痛を和らげるために、後ろから首を打ち落とす役割のことだ。これもやはり、腕の立つものが望まれる。

「それも、隊士になるくらいの腕の奴なら、誰でも問題ないさ」

 歳三の答えに、斎藤は腕を組んで、若葉の茂り出した庭の梅の木を見ながら言った。

「まあ、内容自体は悪いものじゃないですからね。臆するな、金を借りるな、問題が起きても外に訴えるな。また間者に入られちゃ敵いませんから、隊を抜けるなも仕方ないと思いますけど」

「引っかかっていることはなんだね?」

 敬助が尋ねる。

「……荒れるだろうなぁと思うだけです、御法度の制定で」

 そう言って、斎藤は部屋を出た。正午の鐘が鳴る。昼食を告げに副長部屋へ向かう千歳と行き会い、すれ違いざまに呼び止めた。

「馬越くんね、気をつけさせた方が良いよ」

「はあ、何をですか?」

「うっかり、果たし状を書かせるようなことにはならないように。うちの連中は、力で解決したがるから」

「何か恨み買うことでもしてるんですか? あの人は」

 千歳には話の流れが見えない。斎藤が背を向ける。

「とにかく、君から言ってやってくれ」

 千歳は首をひねって、その背中を見送った。

 八つ時。八木邸の縁側で本を読む千歳に、非番だと言う馬越が、桜餅を持って来た。薄紅色のおはぎに桜の葉が巻かれたその菓子は、以前、総司から聞かされた上方の桜餅の話を思い出させた。

 しばらく、東西桜餅談議に花が咲いた。そして、同じ言葉でも指し示す内容は違うという方言談議に移り、だからこそ、古の言葉のこころがいかなるものかを知る重要性があるとの結論に至ったふたりは、終盤に差し掛かった『古事記伝』一巻の続きを共に読み始めた。そのため、千歳の頭からは、斎藤による馬越への忠告事がすっかり抜け落ちてしまった。


 歳三の説教は馬越に響いたらしい。歳三が稽古に顔を出したときには、必ず馬越の方から指導を願って来る。その顔付きは、日々凛々しくなっていくと感じていた。

 昨日の夕食の席で、千歳が宣長の説く「道」とは何かとの問答をひたすら敬助に対して行っていたように、千歳も馬越との勉強を楽しんでいるようだ。

 そして、桜も盛りのある夕暮れ、道場で稽古を付け終えた馬越から、

「僕、敬愛する人は副長でも良えでしょうか」

と言われた。澄んだ目が、西日を受けて光っていた。

 歳三は、副長として誰か特定の隊士を贔屓にすることはしないが、やはり、年長者として、このように言ってくれる若者の存在は嬉しいものだ。

 歳三の目には、馬越の変化は好ましいものに映っていた。

 それだけに、桜も散り終えて、青葉が芽吹くころ、馬越を巡る刃傷沙汰が起きた衝撃は、隠しきれないものだった。

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