七、変相

 歳三の耳から、広間の喧騒が離れた。馬越は以前、自分の見立ては当たると言っていた。その言葉のとおり、どの断片を継ぎ合わせたかはわからないが、千歳の出自を言い当てた。

 十六のときに愛した娘の子が千歳となれば、その父親は、馬越の中で確定しているだろう。歳三の喉が動き、目に緊張が走った。

 応と言えないのは、千歳の父は自分ではないと思っているから。しかし、否と言えないのは、それを改めて認めることがためらわれるような、幼い嫉妬心の存在を認識したから。

「……副長、すみません。忘れます」

 馬越は杯を一杯に満たし、一口に飲み干した。罰杯のつもりだった。もう一杯、注ごうとした手を歳三が止め、銚子を馬越から離させる。

「こんなものに頼らずとも、君のことは信じているよ」

 馬越が首を振って、下を向く。

「僕、ほんに……ほんに、嫌になります。どこまでも、考えなしで……すぐ、口にする……」

 馬越の目が潤んだのは、自己嫌悪のためだけではない。歳三の心の揺らぎに、哀しみが含まれていることを、図らずも察知してしまったためだ。

 歳三は咎めない。素直さ故の、率直さだと理解している。

「説教はしたくないと言ったけどね、老婆心と思って耐えてくれたまえ」

 歳三が穏やかな声で語り出した。

「町方の娘さんと付き合うのはいけない。恋は花街の妓とだけにしたまえ。これは、絶対だ。あと、好きな子をからかうのも、子どもっぽいんだから、これも終わりにしたまえ」

 馬越がうつむいたまま、神妙にうなずいた。

「それからね、 種蒔き・・・も。そんなことをしている間に、本当に敬愛すべき人を見失ってしまうよ」

 馬越の口許が、何かを言いた気に動いた。歳三が促す。

「言いたまえ」

「……敬愛する人は必要でしょうか?」

「必要だ。やはり、ひとりでは生きていけない。それは、弱さではなく、新たな強さを生み出すためにだ。この人と共に成し遂げたいとの思いが、人を生かし……恐れを克服させる」

 馬越は驚きを持って、歳三の言葉を聞いていた。歳三のことは、人の良い近藤や、面倒見の良い敬助とは一線を画し、人とは少し距離を取り、あまり対人関係に熱を見せない人間だと思っていた。

 千歳への態度がそうだ。気にかけてはいても、千歳自身がそれに気付くほどには、踏み込まない。そして、言葉の端々に感じる矜持の高さから、他人を介在させずともひとりで立ち行くことを望む為人であると想定していた。

 けれども、歳三は全く反対のことを語った。その人生は、敬愛する人がいることを前提としている。

「君も、そんな人を見つけなさい」

 歳三が銚子を指し寄せると、馬越は静かに杯を差し出した。朱塗りの杯に、一口ばかりの酒が注がれる。馬越が口許に寄せた手を止めた。歳三を見つめ、

「……副長は、どなたですか?」

と尋ねた声は、わずかに震えていた。

「近藤局長さ」

 ためらいもなく言い切った歳三は、初めて微笑みを見せていた。穏やかなその表情は、これまで接したいつの時よりも気迫があり、馬越は真剣を向けられたように感じて、胸が迫る思いだった。

 目を閉じて、杯を傾けた。目頭には、薄く涙が溜まった。

 目を開けると、いつもどおりの澄ました顔をした歳三が、広間の奥に目を遣っていた。黒服の隊士と華やかな着物の芸妓による幾重もの人垣の向こうにいたのは、敬助だった。天神の芸妓が敬助の右手を取り、半泣きになりながら傷痕をさすっていた。あれが、明里だろうと馬越にはわかった。敬助が左手を明里の肩に回し、何か言葉を尽くしていた。

 歳三が馬越に向き直る。

「今度、山南副長には、国学や漢学の教授方を務めてもらおうかと思っているんだが、どうだろうか」

「良えと思います。先生、教えるのが上手だと聞いとりますけん」

「では、君も出なさい」

「え、僕?」

 馬越が間の抜けた声を上げた。女を口説くために使う和歌や物語の他は、勉強をする習慣がない。

「僕、ほんま、そういうことは……」

「君は勉強をするべきだ。剣は立つし、人を見る目もある。あとは、世の中にある物事を知ることだ。知って、自信にしたまえ。君は、決して顔が良いだけの男ではない」

 歳三が、くすぐったくなるようなことを言い残して、立ち上がった。馬越の胸が騒めく。褒められたのではない。歳三が自分をひとりの男として評価してくれたことが、この上ない喜びに感じられた。


 桜桃共に盛りの上巳。前川邸の北の広間にて、敬助による初講義が開かれた。千歳は一番前の席に座りたい気持ちを抑えて、末席で始まりを待った。武田、尾形などの学士たちはもちろん、藤堂や総司、長山たち若い隊士も次々と部屋に入って来る。馬越もいて、千歳の隣に座る。

「君が来るとは思わなかった。興味ないと思っていたのに」

「土方先生と約束したけん。ちゃんと勉強すること」

 そう言った馬越は不機嫌なようにも見え、引き締まった表情は凛々しかった。常に浮かべられていたはずの微笑みは見られない。

 会えば必ずからかってきていた馬越が、あの宴席以来、一切の意地悪を言わなくなったことに、千歳は気付いていた。

「馬越くん……何かあった? 大丈夫?」

「大丈夫て、何が?」

「いや、その……難しい顔してるし……い、意地悪、言わなくなったし……」

 馬越が千歳を見つめる。ふんと鼻で笑って、すぐに前を向き直った。

「いじめてほしい言いよるんなら、いくらでも意地悪言うてやるけんど、これも先生との約束じゃ」

「約束?」

「言うとくけんど、君ね──」

 馬越の語気が強まって、鋭い目が千歳を捉える。千歳が目をしばたかせて、身構えた。

 約束とはいえ、すぐには人は変われないものだ。このまま、何も知らないふりをして、

「副長先生は、ほんに君のこと、愛しよるわ。うらやましいのぅ」

とでも言ってしまえば、顔を赤くした千歳から満足できるくらいの反応を得て、この落ち着かないような苛立ちをやり過ごすことはできるだろう。

 しかし、それは忘れると言った歳三の悲しみに触れることだ。そんなことは、できない。それに、どうして、わざわざこの少年に対して、君は愛されているだなんて教えてやらなくてはいけないんだと、これまた別の意地悪心が湧いてきて、馬越はため息をつき、前を向いた。

「馬越くん……ホントに平気? 熱でもあるんじゃない?」

 千歳が心配そうに声を和らげて、馬越の手を取った。馬越はその手を強く握り返す。

「ちょっ、痛、痛いって……!」

「あんなぁ、僕は君に意地悪せんって決めたんじゃ。ほなけん、君も僕に意地悪されよるようなことは、せられん!」

 千歳の手を投げるように離す。意地悪されるようなことはするななど、理不尽な言い分であるとは馬越もわかっている。案の定、千歳は手をさすりながら抗議してくる。

「僕が何したっていうのさ! 心配して──」

「わかったけん、前、向きたまえ。話しかけるでない」

「隣に座って来たの、そっちじゃないか!」

 怒った千歳が立ち上がり、馬越から離れて座り直す。総司と藤堂が抑えきれない笑みを浮かべて、後ろを振り向いていた。他の隊士もおもしろがっている。長山だけは、心配そうに馬越を見ていたが、馬越は機嫌の悪さを隠しもせずに、敬助が座るために開けられた上座の席を見つめた。

 心を入れ替えようと決意しても、嫉妬は消え去らないことを、馬越は嫌というほど自覚させられるのだ。


 敬助の講義が始まった。国学の成り立ち、『古事記』の成り立ち、そして『古事記』を学ぶ意義など、初回に相応しい総括的な内容だった。それ故に、国学を学んでこなかった馬越にはやはり退屈で、講義時間のほとんどは、重たいまぶたを開け続ける修行になっていた。

 講義後、長山や千歳は敬助の元に質問へ立ち、武田と尾形は敬助の講義の進め方について評議をしていた。勉強は苦手と言っていた総司ですら、「山南先生の講義は、やっぱりわかりやすい」と言うのだから、出席者の中で馬越が一番付いていけていないことは明らかだった。

 本を読まなければ始まらないと、馬越は質問に対応する敬助へと寄った。『古事記伝』を貸してくれるように頼むと、敬助は、

「それなら、酒井くんが一式持っているから。──酒井くん、貸して差し上げてくれるかい?」

と千歳を見た。馬越は、千歳が少しは渋る様子を見せるかと思ったが、千歳は素直にもうなずいた。八木邸二階の納戸に置いてあると言うので、共に裏門へ向かった。

 馬越の数歩先で、軽い赤毛の房が揺れる。千歳は何も話さずに、坊城通を横切って八木邸の庭へ入った。

 馬越は縁側に腰掛け、うららかな日差しの庭を眺めながら脚を揺らす。千歳が二階から『古事記伝』の一巻を持って来た。

「おおきに。全部で何巻なん?」

「四十四」

 にべもなく答える千歳に、馬越は口の中でぶつぶつと驚嘆の声を上げた。表紙を開き、「古記典等總論いにしへぶみどものすべてのさだ」と題された一頁目を読み進める。


前御代さきつみよ古事ふることしるせるふみは、いづれの御代のころよりありそめけむ。書記の履中天皇ノ御巻に──』


 馬越の目が止まった。

「あかん、二行目で躓きよる。誰じゃ……フクナカ」

 馬越は記述にある「履中天皇」を指して、そう呟いた。隣に座る千歳が、のぞき込んで、「リチュウ」と読み上げる。

「リチュウ……いつの?」

「十七代目にあらせられる仁徳にんとく天皇の第一皇子、反正はんぜい天皇、允恭いんぎょう天皇のお兄さま」

「……なんでわかるんじゃ?」

「書いてあるもん、この先に」

「ほうやなくて、何も見よらんと……覚えよるの?」

「うん」

 馬越が千歳を理解できないと言わんばかりの顔で見た。

「もしかして、歴代言えよるん?」

「いや、覚えたのは六国史の御代までかな。光孝天皇。あー、でも、その次は宇多天皇……醍醐、朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条、三条──」

「わかった、わかった。わかったよ……」

 何故か楽しそうに指折り数え挙げていく千歳を遮って、馬越はため息をついた。千歳が八木邸の縁側にいるときは、必ず本を読んでいた。その積み重ねが、歴然と現れていることは、よく理解できた。

「君、国学始めたのは、こっち来てからやんなぁ?」

「うん、半年前」

「君を先生と呼んで良え?」

「は、えっ! な、何で⁉ 藤堂さんとか、長山さんとかの方が、よっぽど……!」

 千歳が慌てて首を横に振る。その反応を見ても、馬越はもう笑わない。

「君は、何も知らんところから、どの順番で内容を理解していったか、覚えよるやろ? その順番で教えてかぁよ」

 真剣で、そして、優しい馬越の目が千歳を真っ直ぐに見た。千歳は迷いながらも、うなずいた。馬越の胸中には、千歳への嫉妬を抑えて、尊敬の念が湧いてきている。

「僕が悪かった。悪かったけん、許してや」

 馬越の謝罪に千歳が言葉を失う。澄んだ琥珀色の目に、疑念の色が浮かぶ。

「……君、やっぱりお医者さん行った方が良い。ちょっと、気持ち悪いよ」

 とても触れられないとの引きつった千歳の顔に、馬越は悪意なく笑ってしまった。

 ふたりは、夕食前の半刻の間、共に『古事記伝』を読み進めていこうと約束した。

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