六、仮説
隊を挙げての花見の宴が、嶋原で開かれることになった。
夕方、千歳は敬助に袴を着付けて、門前で待っていた総司と藤堂と共に、輪違屋まで向かう。敬助と共に外を歩くのは、年末の蚤の市以来、二ヶ月振りだ。
細い月が、山の端に掛かり、空は夕焼けに染まる。
藤堂が敬助に文を手渡した。
「これ、明里からです。今日、先生が来るって言ったら、渡してくれって」
「ど、どうして、今……」
「先生、事前に渡したら、お返事で済ませてしまうでしょう? 今、読んで、お座敷でお返事してあげてください」
敬助の顔が赤らんだのは、十も年下の藤堂から女との付き合い方を見抜かれていたバツの悪さが大きいだろう。藤堂は、敬助の隣を歩く千歳の腕を引いて、前方を行く総司の側まで走った。千歳が振り返って見ると、敬助は、二、三言の文句を言いながら、文を開いていた。
座敷に上がると、多くの隊士は既に席に着いていた。上座に向かう敬助たちと別れて、千歳は一番下座の席で座った。敬助が近藤の隣に腰を下ろす。歳三はまだ来ていない。総司は藤堂と共に座る。その隣には永倉がいて、既にどこかで飲んで来ているのか、島田と一緒に赤い顔をして笑っていた。井上は下座寄りの窓際で安藤と話している。長山は誰かが入室するたびに顔を向けるので、馬越を待っているのだろうと千歳は思った。
斎藤と武田が連れ立って入って来た後ろに馬越がいた。馬越は入ってすぐに、千歳を見つけると、その隣に座った。
「長山さんが待ってるよ」
「どうせ、君は先に帰りよるんやろ? 長山くんは、お酒も強いし良えんよ」
馬越は羽織の紐を結び直しながら答えた。
「今日も飲まんの?」
「飲まない。飲んだら、怖い」
「副長?」
「うん」
千歳は、酒は飲まないことを条件に歳三から同座を許された。駄賃を包んだ懐紙を渡されて、店の者に送ってもらい、早く帰れとも言われている。
「愛されよるなぁ」
口の端だけを持ち上げて見下ろしてくる馬越を千歳は無言で睨み返す。もう決して学習しない奴とは言わせないと、困った顔を見せないように気を張る。馬越が笑った。
「にらめっこしよるつもりなん?」
「うるさい、なんとでも言え。君が意地悪を言う限り、僕は睨むって決めたんだ」
「あかんなぁ」
「何がさ」
「そないに、あんたに気ぃ向けとるて示されたら、嬉しいやないの。一番良えんは、何も聞こえん振りすることや」
千歳はパッと顔を背けると、そのまま、目の前の膳を見つめた。馬越が、また笑う。
「ほんま、君のその素直さ、見習いたいわ」
千歳は目を閉じて、地蔵のように押し黙る。
「人間て、不思議じゃ。生まれたときは、みんな素直なはずやのに、いつの間にか、嘘を覚えて、損得を勘定しだす。少しずつ世に染まるんじゃ。染まったら、戻れんのじゃなぁ」
馬越がしみじみと語った。その声は、千歳に向かっているが、語りかけたい相手は自分自身なのだろう。
「酒井くんは、僕のこと嫌いか? ……まあ、好きやないやろな、意地悪やもん。でも、許してや。君が……うらやましいんじゃ」
少し弱気な声が、千歳の耳に響いた。何故、この少年は時々、泣きそうなくらい寂しい様子を見せるのだろうか。
馬越は続けた。
「副長に大切にされよるのが、うらやましい。好きな人がいよるのが、うらやましい。純真で素直で、姑息なことせん為人が、うらやましいんじゃ。君は、僕の欲しいもんをみんな持ちよるんじゃ」
思ってみたこともない。自分が誰かから、うらやましがられる存在だなんて、そんなはずがない。千歳はうつむいたまま、震える声で言った。
「……僕なんか、何も」
「──何もない思いよるんが、一番腹立つんじゃ」
その低い声に千歳が、身を縮ませて、顔を上げた。しかし、馬越はいつもどおりの柔和な笑みと、えくぼを浮かべて、千歳を見つめている。
「う、馬越くん……?」
「あかんなぁ、無視しよるんやなかったのか?」
おもしろくてたまらないとの上ずった声音に、千歳の右手が思わず振り被った。馬越は素早くその手首を掴む。
「手ぇは上げられん!」
なおも怒って叩こうとする千歳の左手首も掴んで、押し留める。千歳が手を振り解こうともがく。
「馬鹿! ほんとに、君……君って奴は! 大っ嫌い、馬鹿!」
「君は、悪口を『馬鹿』か『嫌い』しか言えんの?」
「──だ、大根!」
「僕、役者やないし……あと、大根って意味知りよる?
いよいよ千歳が顔を真っ赤にして怒り出したとき、歳三が入室して来て、その状況に目を留めた。馬越が慌てて千歳をなだめる。
「──はい! ごめん、ごめん。僕が悪かったけん、落ち着いてや! な? 酒井くん!」
「はあ⁉ なんなんだ、君は! 身勝手──」
「副長が見よる……!」
馬越のささやきに、千歳が勢いよく入り口を振り返る。反動で結い上げた赤毛の房が馬越の頬を叩いたが、それに文句は言っていられない。ふたりを見下ろした歳三は一言、静かにしたまえとだけ言って、上座に進んだ。馬越は歳三の目が確かに自分を見ていたと感じた。
近藤の口上で、宴が始まる。無礼講だと言われると、隊士たちは初めに座った上座下座を離れて、それぞれで飲み始めた。馬越は佐々木に引っ張られ、座敷の中辺りに行った。
芸妓衆が揚がる。永倉が揚げた天神の禿たちが千歳に気付き、呼びかけた。千歳が手を振ると、ふたりで顔を見合わせて笑っていた。歳三の隣には花君太夫が座る。側には半年前の宴の際、別室に通された千歳の相手をした振袖新造が控えていた。
ひとりで下座に残る千歳を気遣った井上が、膳ごと持って千歳の隣に座った。千歳が銚子を手に取ると、井上はそれを止めた。
「いいよ、君にお酌なんかさせたら、土方くんに悪いからね」
そう言って、井上が手酌しようとすると、天神の禿がふたり共に来て、注ぐと言った。井上はいつもに増して柔らかな笑顔で、杯を差し出した。それから、四人で双六をして遊んだ。
佐々木に引っ張られた馬越は、その後、原田に捕まり、矢継ぎ早に飲まされていた。肩を抱かれて尋ねられる。
「おまはん、仙之介坊やに意地悪しよるんじゃて?」
「そないなこと、誰が言いよるんです?」
馬越は平然と、しかし、しおらしく答える。
「総司が、じゃ。お仙坊、いつもおまはんを叩きのめしたい、言いよるんじゃと」
「……僕が手加減せんけん、負けん気の働きよるだけじゃと思います」
「ほうね?」
原田がニヤリと笑って、「土方さーん!」と大きな声で呼んだ。永倉、島田と共に話していた歳三が顔を上げると、原田は片手で馬越の肩を叩きながら、もう片方の手で、歳三を手招いた。
「ちょ、原田さん!」
「亀屋で泣かせたことも、副長は知ってらぁ。意地悪な子には説教さ」
馬越は一気に冷や汗を流した。歳三が隊士や芸妓の間を抜けて、馬越の前に腰を下ろした。
「なんだね? 呼び付けて」
「原田さんがご用らしいので、僕は──」
立ち上がろうとする馬越を原田は離さない。
「土方さん、さっき認めました。お仙坊いじめ」
「おう、そうか。では、馬越くん。少しお話しようか」
「ほんじゃ、俺は失礼します」
原田は馬越の肩を軽く叩いて、永倉たちの元へ去った。
「取りたまえ、君は飲めたな?」
目を合わせないまま、馬越は苦笑いをして歳三から杯を受け取る。歳三には、以前、千歳を泣かせた現場を見られているため、誤魔化しは効かないだろう。
「まあ、飲みたまえ。君にはいろいろ聞きたいことがある」
歳三に酒を注がれ、馬越は杯に口を付けた。歳三を見遣ると怒ってはいない。むしろ、機嫌は良く見える。
「まずは、これから聞かせてもらおうかな。長山くんとのこと」
「な、長山くん……なんでしょう?」
馬越が小首を傾げ、眉を寄せた困り顔で歳三を見上げる。いきなり、そこを突かれるとは思わなかった。
「口付けしてるの見たって話を聞いているが?」
「……ちっ」
「聞こえたぞ」
「失礼しましたぁ」
思わず漏れた舌打ちを咎められた馬越は、わざとらしく態度を崩す。知られているのなら、しおらしく見せる意味もない。歳三が腕を組んで、さらに問う。
「岸本くん」
「良えお兄さんですけんど?」
「
「ええ」
「そうかね? じゃあ、佐々木くんとは?」
「ああ、あの人んことは褒めてほしいくらいです」
馬越は座り直して、佐々木が千歳に言い寄っているところを助けたら、自分に矛先が向かっただけだと訴えた。
「酒井くん──あいつ、嫌なのに嫌って言いませんけん、僕が入らんかったら、どないなっとりましたか、わからんですよ?」
「そう。その件に関しては、ご苦労だったね」
歳三は馬越の熱弁に圧されることなく、杯に酒を足した。
「じゃあ、もうひとり、東山の町娘は──」
馬越が飲んでいた酒にむせった。逢引の相手だ。
「地獄耳! 閻魔さまですか?」
「嘘を言ったら、舌を抜くよ」
歳三が片手で銚子を揺らして、ニヤリと笑った。副長部屋にもたらされる諸情報の多さを甘くみてはいけない。口元を拭って、馬越が答える。
「あれは……幼馴染みたいなもんです」
「ふうん。それで、本命は?」
微笑みを浮かべるだけで、馬越は答えない。ここまで調べが付いているのなら、本命などいないことくらい、歳三も承知のことだろう。
「じゃあ、酒井とは?」
核心だ。歳三の表情は、さっきと変わらないが、言葉に込められた気迫が違う。
「酒井くんは僕のこと好きじゃないみたいですね。仲良くしたいですけんど……僕がからかいますけん、うっとうしがられとります」
それは本当だ。歳三が呆れた声を挙げる。
「全く……君は好きな子をいじめたい奴か?」
「ええ」
「開き直るんじゃない」
悪びれない答えぶりに、歳三が苦笑いで叱る。馬越は少し考えてから、
「あの子は僕のこと好きになりませんけん、好きです……なんて言うたら、もっと呆れられますか?」
と言った。その顔は涼やかなものだった。好かれない安心があるということかと尋ねれば、そうだと返される。
「僕、褒められるの好きやありません。見た目とか。……まあ、僕なんか、褒められるところ、顔くらいしかないんですけんど。酒井くんは褒めませんけん、安心して話せます」
「君はわからないね。褒められたり、好かれたりを嫌だと言うくせに、
馬越がうつむいてフッと笑った。円やかなまぶたに沿って、長いまつ毛が頬に影を落とす。歳三は、それを見つめて、馬越の答えを待った。話の流れは馬越に移っている。
馬越は広間の向かいで飲む長山に目を遣って、衆道は嫌いだと答えた。
「念者にばかり旨味があって、若衆は吸い取られよるだけですけん。甘い言葉、どないささやきよっても、結局、求めてきよるもんは同じです。ほいですけん、僕、自分に忘れるなよ言い聞かせるつもりで、種を蒔くんです」
「なるほど。無理もない」
歳三が首を振った。酒を注ぐ。
「君は他人の心の機微に聡いから、相手を読めてしまう分、人と相対して、つまらないと思うのかもね」
馬越は目を逸らしたまま答えない。取り繕うような微笑みが消えたその頬の赤らみは、重ねた杯のためだけではない。
「だけれどね、馬越くん。今の年頃が、一番純真に相手を思えるころなんだよ」
「……失礼なこと聞いてもよろしいですか?」
歳三は、無礼講だからと言って、姿勢を崩して、了解を示した。馬越が杯を膝の上に置き、歳三を見つめる。
「副長は僕のころに、誰かを純真に愛したんですか?」
ゆっくりと息を吸った歳三は、目を閉じて、少し迷ってから、そうだと答えた。
「十六歳か。あのときの娘が一番、美しい思い出として残っている」
普段、談笑に応じてくれる歳三からは想像できない憂いを帯びた表情に、馬越は少なからぬ動揺を覚え、歳三に杯を渡してみた。歳三は受け取り、一杯だけと言って、酒を注がせる。
「一度、本気で人を愛してみると良いさ」
歳三の顔が今までになく優しいものだったために、馬越は落ち着かなかった。思わず、早口になる。
「その娘さん、幸せ者ですね。副長にそないに言うてもらえるんなら、死んでも良えて子、たくさんいてますよ、きっと」
「そう思われていたかは知らないけれどね、もう死んでしまったよ」
「え……」
「今は、過去のことさ」
歳三の目が杯の底を透かして、遠くを見つめた。
馬越の鼓動が急に速まった。広間に千歳の姿を探すと、花君太夫付きの振袖新造の元で硬くなりながらも話をしていた。ある仮説にたどり着く。
千歳が歳三を訪ねて来た理由。歳三が千歳を側に置き、格別に気を向ける理由。今の歳三と、既に亡くなった娘を愛していたころの歳三と、千歳、それぞれの年齢。──辻褄が合った。
馬越が唾を飲み込んで、歳三に尋ねる。
「──酒井くんの
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