五、感情

 『万葉集』を読み進める千歳の悩みは、恋の歌を苦手と思う感覚があることだった。

 例えば、但馬たじま皇女。天武天皇の娘で、同じく天武の皇子である高市たかいち皇子に嫁いでいながら、異母兄弟の穂積ほづみ皇子と関係を持つ。それが人々の噂に上り、穂積の訪れが難しくなると、


人言ひとごとしげ言痛こちたみ己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る』

──人々の噂がうるさいので、人生で一度も渡ったことのない朝の川を渡って


穂積に会いに行くのだ。

 皇族の姫が、不義の相手に会うために川を渡る。情熱にあふれたこの歌に対する千歳の感想は、一言、正気を疑うとのものだった。

 恋愛とは、好ましからざる感情と行為だ。家を継いでいくためには、誰でも好きな人と結婚することはできない。恋愛は理性を失わせ、愛欲に溺れさせる。儒学と仏教、両方の観点から見ても、否定されるものだ。

 しかし、本居宣長は、感情の揺らぎを「もののあはれ」として、それこそが人間性の本質であると説いた。悲しむべきことを悲しむ人は、他者の悲しみや苦しみに共感し、同情することができる。感情を動かす恋愛こそを尊び、肯定したのだ。

 宣長は儒教や仏教を厳しく批判した。分不相応な望みを抱かないことが礼であり、欲を捨て去ることが仏道である。これら、感情の抑制を尊いとする考え方「漢意からごころ」によって、人間性の本質は失わされるのだから、生まれたままの「真心まごころ」に従い、ものごとを素直に感受する生き方をしなければならないのだと説く。

 しかし、日本に生まれたならば、この「漢意」を経ずには育ち得ない。兵馬の元で漢籍を学んでいた千歳にとって、「真心」に従って感情を抑制せずに受け止めよとの教えは、すぐには納得できなかった。

 とりわけて、恋に関しては。貪食は戒められるが、食べなくては死んでしまう。惰眠は諌められるが、寝なくては生きていけない。しかし、愛欲はそれに従わなくては自身の生が終わるなどということはない。富や名声を望む心と同じように、抑えられるべき欲であるはずだ。

 子どもは「家」に生まれる。成人したら、男子は嫁をもらい、女子は「家」に嫁いで子を成し、子に「家」を継がせる。これが、世を泰平に保つための循環なのだ。

 その流れの中に、千歳は生まれなかった。

(私は……恋の末に生まれた存在だから)

 千歳は私生児であり、「家」に望まれて生まれたわけではない。その父も、一時の恋心など忘れ去り、千歳の存在を認めないのだ。


「馬越くん、恋はしても良いものなの?」

 花冷えの夕方。千歳は、八木邸の風呂を使ったあと、土間に座る馬越に尋ねた。馬越は、火鉢にかけられた鉄瓶の口から出る蒸気を、羽織紐の房飾りに当て、ほつれを手入れしている。馬越は少し考えてから、手元に視線を落としたまま答える。

「君は、してはならんと思うけん、聞くの?」

「うん。恋の結末が……」

 その続きを千歳は言葉に表すことができなかった。馬越は手を動かしながら、顔を上げる。

「僕は、深入りせんで楽しむ分には、良えと思う、恋。僕も道場におったときは、町方の娘あったけん」

 今はどうかと聞けば、振られたと答える。国元に許嫁がいたので、初めから本気ではなかったために、別れは辛くなかったという。

 哀れむような顔をする千歳に馬越は言う。

「恋の結末。大抵は悲惨じゃな。添い遂げるには、心中するしかないんやもん」

「……そう。愛情は向ける相手を選ばないといけないと思う。愛は家を守るためにあるべきだと思うから、そうでない恋……恋慕は、ダメな気がする」

 馬越が鉄瓶の口から羽織紐を離して、手で房を撫で付け整える。少し意地悪な笑みを浮かべながら、

「君も、遊びのつもりで付き合うてみれば良え」

と言った。案の定、千歳は嫌悪の顔を示す。

「……遊びで付き合ってもいいなんて人、そんなにいないと思うけど」

「何のために、花街があると思いよるの。その場なり、一夜なり、恋を楽しむためにあるんやろ?」

 芸妓や女郎の最大の売り物は、芸でも身体でもない。擬似的な恋愛関係だった。


 部屋に戻ると、敬助が灯りを点けて本を読んでいた。歳三は出掛けて、泊まりだと言う。敬助たちが湯治に行って以来、歳三の悪所通いは千歳が越して来る前の頻度に戻っていた。

 千歳は膳をふたつ運んだ。普段は歳三と敬助が食べ終えてから広間で食事をするが、歳三がいないときは、敬助が共に食べてくれる。

 おぼつかない動きながらも、左手で箸を使う敬助に合わせて、千歳はゆっくりと食べ進めた。賄い方の六兵衛が、桜が咲いてきたために、隊士たちが宴会に出て行ってしまい、夕飯が余って困ると嘆いていたことを話した。

「もう三月ですからね。そろそろ三分咲きになりそうです」

「そうか、楽しみだね」

「先生は、お外行かれないんですか?」

「昼間は、たまにその辺りまで散歩に出ているよ」

 敬助は小魚の焼き物を箸へ取ることに苦労しながら答えた。取れたと思ったら、口に運ぶ前に膝へ落とした。千歳が立ち上がろうとするのを制する。

「──すまない、すまない。大丈夫だ。固いものは難しいね」

 箸を置き、魚を拾い上げて、口にした。

「人前で食べれるようになるには、もう少しかかりそうだ」

 敬助が照れたように笑った。千歳がふと尋ねる。

「先生は嶋原とか、お馴染みさんいないんですか?」

 歳三の元へは頻繁に届く艶文も、敬助の元へ来ているところを見たことがない。

「馴染みはいるけど、年明けてからは、もう文も出してないからね。忘れられているかもしれない」

「行って差し上げればよろしいのに」

「それも、上手く食べられるようになったらかな。カッコつかないだろ? こんなに、ポロポロとこぼしていては」

「なんてお名前ですか?」

明里あけさとという天神さ」

 右手に持つ茶碗に視線を落としながら答えた敬助は、千歳に向けるときとはまた別な優しさを持った顔を見せていた。

「先生の恋人なんですか?」

「恋人ではないね、お馴染みさんだけど」

「会うときだけ、恋人なんですか?」

「あぁ……そういう考え方もできるかもね」

「そのときは、その……どういう気持ちなんですか? 恋している気持ち」

「ふふ、そうだねぇ。自分の中から人を愛しく思う気持ちが湧いて来ることに、幸せを感じるよ」

 敬助が困ったように、同時に、喜ばしい表情を浮かべた。千歳が恋愛に興味を持ったならば、娘姿に戻る良い契機になる。けれども、予想に反して、千歳の顔は険しく、そのときは幸せでもと言ったきり、考え込んでしまった。

「結ばれるだけが、幸せではないからね。付き合う中で、いろんな感情を知れたら、添い遂げられなくても、幸せなんだよ」

「宣長先生は、好きな人がいるまま結婚して……だけど、忘れきれずに離縁して、その人と再婚しましたよね。宣長先生はその中でいろんな感情を知れたかもしれないですけど、それでは、最初の奥方さまが……かわいそうだと思います。宣長先生の欲に付き合わされたわけですから」

 本居宣長は、京都へ遊学に来ていた二十五歳のころ、友人の妹である十四歳の深草民ふかくさたみに恋をした。しかし、民は他家に嫁いだ。故郷に戻った宣長も、周りの勧めを断りきれずに、既に民が夫を亡くして家に戻っていることを知りながら、妻を迎えた。その妻とは、三ヶ月で離婚している。そして、その二年後、晴れて民を娶ったのだ。

 宣長はその後、『万葉集』や『源氏物語』に著される日本人の恋愛の研究を深めた。

 宣長の「真心」を大切にせよとの主張は、わからなくもない。けれども、千歳には初めの妻が気にかかってしまうのだ。

「添い遂げるつもりがないのなら、初めから縁談を受けてはいけなかったと思います」

 珍しくも、千歳が意見を述べた。宣長のことを言いながら、その向こうで歳三と志都のことを想起しているだろうことに、敬助は気付いた。箸を置いて、向き合う。

「僕も男女のことを語るなんてできないけれど、そうだねぇ。僕の場合だけれど、お玉ケ池の先生の娘さんとは、きっとこの人と添い遂げようと思っていたよ、本心から。それを違えてしまったことは申し訳ないけれど、あのときの気持ちに偽りはなかった。──けれども、思ったとおりにはならないものだからね。宣長先生も、初めから離縁するつもりで縁談を受けたなんてことはないと思うよ。……向き合った末に、それでも上手くいかなかっただけだ」

 敬助は、その文末を強調した。上手くいかなかった敬助の恋愛は、感情と経験としてのみ、敬助の中に残っているのだろう。

 けれども、歳三と志都の場合、千歳という現実を生み出したかもしれないのだ。「結果として上手くいかなかった」結果が、自分なのだと、千歳は思わずにいられない。


 人はきっと恋をする。同時に、恋愛はままならない。そこで、抑制された恋愛がどこへ向かうかといえば、馬越の言う通り花街の妓か、もしくは、恋愛とは一線を画す衆道か、どちらかだろう。

 稀に総司のように、恋愛に興味を持たず剣に打ち込む者もいるが、馬越から見ると、総司は恋を知らないだけで、恋をしたら途端につまらなくなりそうだと感じる。汚れと無縁なために清さを保ってこられた者は、その者自身の徳のなすものではなく、環境に恵まれたに過ぎない。

 馬越が好きなのは、岸本のように道徳心高く、堅実たろうと努めて生きてきた人間が見せる心の揺らぎなのだ。

 夜桜を見て歩く馬越と岸本の距離は、薄布一枚を隔てたように、触れ合うことはない。しかし、前を見て歩く岸本の、その意識のほとんどが自分に向かっている気配を、馬越は右の半身で強く感じていた。もっと、自分のことを感じさせたい。自分のことだけを考えてほしい。

 岸本は決して手を伸ばしてこない。一番、安心して遊べる相手なのだ。

 佐々木とは結ばれはしなかったものの、肌を合わせて寝た。あの日は、酔いと嫉妬で、欲を抑えられなかった。それから、佐々木は厩舎の裏に馬越を引き連れては、頬を撫で、耳に口付けをする。馬越は決まって困ったような微笑みを浮かべて見つめ返すのみで、それ以上は応じなかった。

 長山は、一番若い分、積極的に馬越へ声をかけ、政談を聞かせる。新撰組が京都守護職を離れた会津侯容保のお抱えに留まることを許されたこと。禁裏御守衛総督きんりごしゅえいそうとくに任じられた一橋慶喜が、横浜鎖港に向けて奮闘しているらしいこと。退屈に思いながらも、馬越は大人しく聞く。一通り語ると、長山は馬越の手を黙って握り、しばらくそのまま過ごすのだった。

 これらの関係を、馬越は悪いとは思わない。加えて、千歳には明かさなかったが、道場にいたころに付き合いのあった娘とは、今でも時折、逢引する仲である。

馬越は学問を得意としないので、「もののあはれ」などの言説には興味がないが、自分自身の多感さには自覚がある。だからこそ、ひとりに心を捧げないようにしているのだ。

(恋に溺れた奴は理をなくすけん、本気になってもうたらいかん)

 いつか、自分に関係を強いた道場の先輩のように、自分も恋愛と愛欲によって理性を失いそうで怖い。

(今も、半ば失いよるようなもんじゃな……)

 普通の人なら、今の自分のように恋愛を切り分けることなどしないだろうから。

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