四、妬み

 馬越が座敷へ戻ると、千歳が禿ふたりに袖を引かれ、名残を惜しまれながら、帰営しようとしていた。馬越は声をかけずに奥へ入り、席へ着いた。振袖の少女から杯を受け取り、飲む。

 宴は進み、藤堂は酔って妓の膝で寝ていた。床の間の前では、身の丈六尺はある島田に、五尺二寸の葛山が腕相撲を挑んでは負けていた。側で永倉と原田が囃し立てる。

 佐々木と長山が、一人で飲む馬越を呼び寄せた。馬越は微笑んで、側に座った。既に眠くなっていた。

 それからは、うつらうつらとしながら、長山と佐々木の政談にうなずいていた。

 目を閉じて、先程の千歳とのやり取りを思い出す。健気な子だ。逃げるなと言えば、顔を赤くして、涙を流しながらも、喰らい付こうとしてくる。その表情には、そそるものがある。もっと、いじめてやりたくなるのだ。

 馬越は、それが千歳に対する嫉妬からきていることを自覚していた。あの子は、皆に気をかけられ、守られている。

 師匠として尊敬する敬助は、父親のように優しい。雅は息子がひとり増えたように甲斐甲斐しく世話を焼くし、藤堂や原田も、縁側で本を読む姿を見るたびに、何か話しかけていく。歳三は、あの子が泣かされていると見たら、稽古でも滅多に見せないほどの気迫で制し、今日も早く帰るように言い付けている。

 全くもってうらやましく、同時に憎らしい。あんなにも愛してくれる敬助がいて、なお、歳三に愛されたいとわがままを言う。十分に気をかけられていながら、さらに望むのだ。そして、敬助も歳三も、あの子の好意を良いことに、その花を摘み取ろうなどとは、決してしないのだ。

「馬越くん、馬越くん?」

 長山の声と共に肩を叩かれ、目が覚める。目をこすると、座敷には藤堂の頭を膝に乗せて帰るに帰れない鹿恋かこいの妓と、長山と馬越、そして、馬越にもたれかかられている佐々木しかいなかった。

「……みんなは?」

「それぞれ、行ったよ」

 馬越は固くなった身体を伸ばした。佐々木がその背中を優しく叩く。

「疲れているんじゃないか?」

「……ほうかもしれんです。いつもは、こないなことないんですけんど」

「長山くん、君は部屋へ行って良いよ。僕、馬越くん連れて屯所に戻るから」

「せやけど……」

「僕も大坂から戻ったばっかりだからさ、帰ろうと思ってたんだ。馬越くん、立てる?」

 馬越は黙ってうなずいて、立ち上がった。今日は長山に誘われた。自分と過ごしたかったのだろうが、今はもう面倒になっていた。

 疲れているのだろう。嫌な思い出が呼び起こされた。


 一年程前。京都に出て来て、二ヶ月たった、桜の盛りの日だった。道場の先輩に妓楼に誘われた。その男は、同じく阿波の出身で馬越を気にかけてくれ、剣術も柔術も腕が立った。憧れていた。しかし、その日、慣れない酒を次々と飲まされ、朝になって目が覚めると、馬越はその男と同床していた。憧れは一夜で失望と嫌悪に変わった。


 それなのに、今になって、長山や岸本その他の隊士たちに種蒔き・・・をするのは、千歳の言うとおり、人を馬鹿にして見下しているからに違いない。

 どんなに真面目な男でも、政治を熱く論じても、欲を前にしては抗えない。その様子を見て、毎度同じく軽蔑の念を抱くとき、憧れた先輩を嫌悪してしまった自分は間違っていなかったと安心するのだ。

 次第に、安心感のみならず、好意だけを受け取って、こちらからは何も差し出したくないという傲慢も生じていた。

 そして、千歳のように純真で汚れを知らない少年を前にすると、いたぶった後に、自らの方へ引き入れたくなる。

(欲は嫌じゃ。……嫉妬はもっと嫌じゃな)

 佐々木に支えられて、亀屋の提灯と遅い月とに照らされる畦道を歩く。畦の両脇に植えられた桑の木は葉を茂らせ、冷えた夜風が吹き抜ける。桑の間には一本だけ桜の木が立っていた。馬越が足を止めて、幾輪か咲き始めた枝先の桜を見上げた。

「馬越くん、ちょっとしゃがんで休むか。……夜桜だ」

 佐々木は馬越を木の下に座らせて、自身も手を後ろに着いて、東山の端に浮かぶ欠けた朧月と、遠くの花街の灯りを眺めた。馬越は、佐々木の視線を追う。

「きれいですね」

「そうだね。京都の桜も良いもんだ」

「僕……京都、好きです」

「そうか。俺も気に入っているかな」

 足元の青麦が風に揺れた。馬越は身震いして佐々木に身体を寄せる。

「ねぇ、佐々木さん……酒井くんのこと、好いとるんですか?」

 佐々木は笑いながら、馬越の冷えた肩へ手を回して、温ためるように強く撫でた。

「君も狙ってたんだっけ? ごめんね、かわいくてさ」

「……僕、別に酒井くんのこと狙いよるわけやありません」

「そうなの?」

「ほんなら、なんでこないなこと言いよる思います?」

 馬越の切れ長の美しい目が、佐々木を見上げる。呼吸のたびに、長いまつ毛の先が上下する。いつもは隙のない笑みを浮かべる頬が、今は酔いのために熱を持ち、下唇は前歯に軽く噛まれている。

 佐々木は息を止めて、噛まれた唇に親指を当て、離させた。馬越の唇が、ゆっくりと指先を包む。

 視線が絡まったとき、馬越は佐々木の腕の中にいた。


 千歳は、朝の膳に桜の花を添えて、副長部屋へ運んだ。敬助が喜んだ。今月の初めに湯治へ行った他は屯所を出ていない敬助に、最大の春らしさを伝えようとした千歳の演出だ。歳三もこれを気に入ったようで、食事後、懐紙に挟み、押し花にしていた。

 八木邸を訪れると、雅が養蚕の器具を出して支度をしていた。

「せやけどなぁ、お蚕さんの卵、高ならはって困るわぁ、ほんに」

 日々高騰する物価だが、米と蚕卵は顕著だった。蚕卵が値上がりすると、すなわち絹糸が高くなる。いつか、古着屋の主人が言っていたように、安い海外製の綿布が流入するのも理解できる。それが国産の綿布の需要を減らし、河内などが困窮し出していることも。

「嫌ですね、開国なんて。貿易は国を豊かにするなんて言いますけど、異国の品のために生活が苦しくなっては、経済とは言えません」

「ほんにねぇ、早よう攘夷が叶うたら良えんやけど」

 最近の千歳は、国学の著書と周りの隊士たちに影響を受けて、少しずつ政治に興味を持つようになっていた。

 道場にいたころ、特に兵馬が病床に伏してからは、常に空腹に耐えていた。冬でも、物置部屋で浴衣一枚を掻巻代わりにして寝た。貧しさが身に染みている千歳にとって、国の政治が民の暮らしぶりを左右すると言われたら、国政というものが手の届かない存在であっても、気にかけずにはいられない。

 一方、裕福な郷士の家に生まれ育った馬越にとって、政治とは上から与えられるものであり、武士はただそれを執行する行政官にすぎないと思っている。今日も変わらずに巡察を終えて帰った。

 続きの南の間に岸本が座って耳かきを削っていた。顔を上げる。

「昨日は帰らなかったね」

「ええ、嶋原に行きました」

「藤堂くんからは、先に佐々木さんと帰ったって聞いたよ」

 岸本は穏やかな口調だが、馬越を咎めている。外泊の旨は伝えてあるのだから、途中で帰ると言って、その実、帰らなかったとしても、問題はない。そうでありながら、馬越はしおらしく、眉を寄せ目をしばたかせて、岸本の側に座った。

「……昨日、飲んでたら気分が悪うなって、先に下がったんです。ほなけんど、やっぱり歩くのが辛うて、結局、泊まりました。心配かけて、ごめんなさい」

「今は平気かい?」

「ええ」

「良かった」

 岸本は再び手元に視線を落として、小刀を動かした。カリッ、カリッと軽妙な音が断続的に響く。表庭からは、総司と隊士たちの稽古の声が聞こえた。

「……岸本さん」

「うん?」

「桜、見に行く約束」

「……うん」

 馬越の少し甘えた声に、岸本の声は戸惑いを隠しきれない揺らぎを見せた。それが、やはり、馬越に安心をもたらすのだった。

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