二、名前

 会津侯容保の京都守護職解任を受け、近藤と敬助は療養を切り上げて屯所へ戻った。敬助は約束どおり干し柿を千歳に手渡し、それから長らく、歳三と三人、近藤の部屋に籠って話し込んでいた。

 近藤は新撰組を容保の元に留めるよう嘆願を出したが、結局、新撰組は新任の京都守護職──松平春嶽の預かりとなった。

 桜が咲き、年号は文久から元治に改められた。元に治る。干支の一番目に当たる甲子のこの年、混乱した世を治めていくとの意思が見えるという。


 近藤の体調は一応の回復を見せたようだが、敬助は相変わらず、数日置きに微熱を出していた。

 歳三は副長の仕事を分けた。敬助は会計監査と報告書類の作成、歳三はそれらを持って会津藩邸や奉行所へ行く。隊士からの報告や日常の巡察班員の編成を考えるのも歳三が引き受けた。

 翌日の給料日を控え、歳三が会津より拝領してきた金子を副長部屋に運び入れた。勘定方の酒井兵庫と河合耆三郎が、敬助と共に、名簿と給与金を付き合わせ、ひとり分ずつ懐紙に包んでいく。歳三は帳簿を開いて、支払金の確認をしていた。

 お昼時になり、千歳が副長部屋へと報せに来る。

「──先生、お昼は……うわぁ!」

 部屋の中心で濃紺の風呂敷の上に広げられる小判に、千歳は思わず声を上げた。歳三が障子を早く閉めるように言った。本箱や長持が置かれた八畳間には、既に四人の大人が座っている。千歳は、部屋の奥へ立ち入れず、戸の前に立ったまま、敬助に尋ねた。

「そろそろ、お昼のお時間ですけれど……」

「まだ、しばらくはかかりそうだね」

「ああ、終わったら広間に行くから、持って来なくて良い」

 歳三が帳簿に目を落としたまま答え、「他には?」と用を尋ねる。早く出て行けとのことだ。千歳は、以上ですと一礼して、敬助にも、また礼をした。敬助は申し訳なさそうな顔をしてうなずいた。やはり、金の計算に子どもを立ち合わせてはおけない。

 千歳が障子に手をかけたとき、歳三は、酒井くんと呼びかけた。

 千歳が振り向いて返事をする。同時に、酒井兵庫も返事をして歳三に向き直った。千歳は一瞬で顔を赤くする。歳三はチラリと千歳を見ただけで、酒井兵庫に、

「京屋に支払い分の──」

と指示を続けた。

 千歳は静かに部屋を出て、厨を抜け、厩舎へ向かった。反射的に返事をした自分が悔しい。歳三が千歳を「酒井くん」などと、呼ぶわけがないのだ。

 千歳は薄く砂埃を被った棚からヘチマを手に取り、磐城丸の毛をくしけずる。磐城丸は軽く足踏みをして喜んだ。

 そもそも、歳三には名を呼ばれた記憶がない。呼びかけは「おい」で、会話中では「お前」だ。他には「あいつ」「こいつ」と呼ぶのを聞いたことがある。雅の前では「あの子」呼びになっているそうだ。いずれにせよ、千歳を「酒井仙之介」であるとわかっていない可能性すらあると思う。

 そういえば、と思いを巡らせる。敬助のいみなは、藤原知信ふじわらのとものぶだと教えられた。智と信と、共に敬助に相応しい名だと千歳は思った。近藤の名は、いつか敬助の書類作成を手伝ったとき、書き込んだ。昌宜まさよしというらしい。

 諱を本当の名とするのなら、自分の本当の名──千歳を名乗ったのは、京都に来て次の日の一度きりだ。歳三は、とっくに忘れているだろう。

(あの人の諱、知らないな……)

 千歳は三つ巴紋を思い浮かべながら、磐城丸の顔を撫でた。

「うん? 何してるんだ?」

 呼びかけられて振り向くと、隊士が一人、厩舎の窓からのぞいていた。佐々木蔵之丞ささきくらのすけだった。大坂への伝令らしい。千歳は鞍を乗せるのを手伝った。

「酒井くんは、よく厩舎に来ているね。馬は好き?」

「はい」

「乗れるかい?」

 首を振る千歳に、佐々木は笑いかけた。

「乗れると気持ちが良いよ。今度、教えてあげる」

 磐城丸の口を取り、厩舎から出て行く佐々木を、千歳は手を振って見送った。広間に戻り、昼食を食べていると、巡察から戻った総司が隣に座ってきて、祇園の桜がだいぶ咲いてきたことを教えてくれた。


 翌日。敬助は朝から千両箱の前に座って、給金を受け取りに来る隊士へ労いの言葉をかけながら、ひとりずつ金子を手渡した。

 金を手にした隊士たちが向かうところは、相場が決まっている。夕方、八木邸の縁側で本を読む千歳に藤堂が「花の宴」と言って、嶋原へ誘った。原田と永倉も支度を済ませ、庭に立っていた。

 千歳は、日中を八木邸で過ごすことが多いため、八木邸の住人である原田や、同門でもある藤堂とは親しい。宴席に誘われたことは、とても嬉しかった。しかし、千歳が遊びに行くことを歳三は許すだろうか。千歳は、遠慮を示した。

「勝手に遊びに行っちゃ、怒られるのか?」

 原田が腕を組みながら尋ねた。

「怒られはしないでしょうけど、行くとなると、勝手には行けないですし……」

「バレねぇと思うけど」

「うーん」

 さすがに、夕食の時間にいなければ、わかるだろう。そうなれば、何と怒られるかはわからない。

 千歳の困り顔を見て、永倉が手を叩いた。

「俺が一緒に行ってやるよ、土方さんに頼みに」

 永倉は面倒見が良かった。永倉に連れられ、千歳は副長部屋へ入った。

「気にかけてくれてありがたいけれど、この子にはあまりそういうところへ行かせたくないからね」

 歳三が書き物の手を止めて、永倉へ言った。永倉が、なだめるように返す。

「ご馳走くらい、たまには良いじゃないですか。俺が責任持って、見てますんで」

「そうは言っても、まだ十四だぞ?」

「酒は飲ませません」

「……お前は行きたいのか? 遊郭」

 永倉の背に隠れる千歳へ尋ねた。敬助から聞いた話では、九月に角屋へ行ったとき、青い顔をして帰ろうとしていた娘だ。意固地になるわりに、どうも、他人に引っ張られやすいことも、歳三は知っている。

 千歳は目をしばたかせて、

「や、やっぱり……いい、です。はい……」

と両手を胸の前で小さく振った。

「やっぱりいいってことは、行きたいんじゃないですか?」

 永倉の一言に千歳は困った顔を見せながら、うつむいた。歳三はため息をつく。

「……では、戌の刻には帰すようにしてくれ」

 千歳がパッと顔を明るくして歳三を見ると、歳三は小さく首を振りながら、懐へと目を向けた。気遣いをしたつもりだったのだが。懐から財布を取り出し、いくらかを永倉に差し出す。

「土方さん、いいですよ」

「そうはいかないさ。こいつのお目付け料も兼ねてだ」


 門前では、原田が馬越を捕まえていた。肩を抱かれて若干、嫌そうな顔をしている馬越と、その側には、長山、葛山、島田と、大坂から帰って来た佐々木がいた。

 原田と藤堂とで、遊びに行こうとしている隊士を呼び止めていったらしい。九人になった一団は、坊城通を下った。

 永倉と原田、島田が先頭を歩きながら、木刀に用いる木の種類は何が良いかを語り合っている。その後ろを、藤堂が葛山と長山に挟まれて歩いて行くが、長山が頻繁に後ろを振り返って、千歳と佐々木との間を歩く馬越を見ていた。千歳は、長山が前川邸の裏門で馬越と唇を重ねていた隊士だったことに気付く。

「馬越くん、長山さんと行くつもりだったの?」

「うん。誘われとったけんど、原田さんに捕まった。佐々木さんは? 僕より先に捕まっとりましたけんど」

「僕は馬で帰ってきたところを見つかって、さっさと着替えて来いと言われたのさ」

「ああー、あの人、ほんま、そうなんですよね」

 馬越の嘆くような言い方に、千歳がクスッと笑った。馬越が、「何?」と聞くが、千歳は慌てて首を振る。

「酒井くんは、戌の刻までなんやろ? 副長、ほんに君のこと守りよるわ。思われとるなぁ、良かったやないの」

 千歳が眉を寄せる。笑わった報復に馬越の意地悪が始まったと身構えた。

「……別に、子どもが勝手しないか目を付けているだけじゃない」

「ふうん」

 馬越がやけに長く相槌を打った。そんなやり取りに気付かない佐々木が千歳に尋ねる。

「酒井くんは泊まらないの?」

「ええ、帰って来いと言われているので」

「君はほとんど屯所に籠りきりだけど、それでさ、女と寝たことはあるの?」

「え、えっと……」

 興味深くてたまらないとの表情に、千歳は困惑する。その反応を、否と捉えた佐々木が、さらに質問を重ねる。

「ちゅうしたことは?」

「……えへへ」

「ねぇ、副長と衆道の契り結んだって噂、やっぱり嘘なの?」

 千歳による笑って誤魔化す作戦は通用しなかった。助けを求めるように、千歳はこの噂を流した主を見上げる。馬越は、これまたおもしろがって、えくぼを見せていた。

「あかんなぁ、酒井くん。こないなときばかり、助け舟求めよるなん」

「だって……」

「あれ、困らせてる? ウブだねー」

 ふたりからの攻勢に耐えかねた千歳は、先頭を行く原田たちの元へ逃げた。

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