十五、執着

 甘い白檀の香りは、まどろみの千歳に佐藤家の仏壇の線香を思い出させた。毎日、一本は上げられなかった。大先生の月命日に一本、それ以外の日は、一寸ほどに折り分けて、上げていた。火を移すさい、指先を火傷することも多かった。

 敬助が線香を一箱置いていってからは、毎朝、志都と兵馬に線香を一本上げていた。しかし、副長部屋に移ってからは、歳三に対して気が引けて、線香を上げていない。

(嫌がるだろうから……)

 意識が明瞭になると、同時に白檀の香りはより強く感じられた。羽織を肩から外す。言い表せない不快感に千歳は悶えた。寝てしまった千歳に、歳三はわざわざ羽織をかけてくれたのだ。それを心底嫌がる自分は、どうしようもなくわがままなのだ。

 歳三にとって、志都は昔に付き合いのあった多くの娘のひとりにすぎないだろう。千歳は、歳三に今でも志都のことを思っていてほしいわけではない。色事全般に対する拒絶が現れたにすぎない。そうでなければ──


『好きやったら、嫌いになる』

『君は土方さんの女に嫉妬してるの?』


「違う!」

 千歳は立ち上がり、羽織を衣桁に掛けた。土方家の三つ巴紋が目に映る。この家紋は、決して千歳のものではない。

 縁側へ出る。日は傾き始めていた。

(嫉妬じゃない。あの人は、私のことを愛さないから、私だって……)

 しかし、馬越が聞いたら、意地悪く微笑みながらこう言うだろう。


『愛されないから、愛さない。じゃあ、愛してくれるんなら……?』


 それでも、千歳は歳三を愛さないだろうか。わからない。けれども、羽織をかけられることすら嫌がりながら、愛してほしいなど身勝手が過ぎる。

 敬助がいたら、すぐに泣き付きに行っただろうが、今は嵐山にいる。千歳は雅に会いに行くため、厨に降りて、前川邸の母屋を出た。

 母屋の庭の板壁と離れの間の道の先に、八木邸へ続く裏門がある。その裏門の側で、ふたりの隊士が立っていた。

 千歳は目を見張る。馬越が、以前、彼の羽織の色が良いと褒めた隊士に抱き締められ、その唇は重なっていた。思わず後退ると、ふたりが気付いて顔を上げる。隊士の方は、顔を赤くして、門から出て行ったが、馬越は片耳をいじりながら、

「見られてしもたなぁ」

と他人事のような声を出した。

「む、無理にされたの?」

 千歳が駆け寄るが、馬越は「僕からした」と首を振る。

「え、あ……そう」

「何?」

「君が、うん、好きなら、良い。僕には……」

「好きでもないんやけんどね」

「え……」

 間合いを詰める馬越から、千歳は同じだけ後ろへ下がった。馬越の目が鋭く光る。

「なんで逃げるんじゃ?」

「だって、寄って来るから……」

「当てたろうか。僕のこと、汚らしいって思ってるやろ?」

「そんなこと……」

 千歳の背中が板壁に当たる。馬越は腕を組んで面前に立ち、千歳を見下ろす。千歳の肩が上がり、目が潤んだ。

「う、馬越くん……怒ってる?」

 馬越が優しく笑って、千歳の頭を撫でる。千歳は身体を緊張させたまま、目をしばたかせて馬越の言葉を待った。

「怒ってへん。良えんよ、僕も同じ気持ち」

「……え?」

「ああ、欲に負けたなぁって。自分が汚らわしいて、嫌になる」

 馬越は千歳の髪から、耳、頬を撫でて、顎先に手を持っていく。

「色欲がな、清らにいてたい心を踏みにじっていくんじゃ。自分で自分を汚いた気ぃがすんのじゃ。ま、君に言うてもわからんね」

 馬越の鋭い眼光の下で涙が揺れているように見えた。千歳が馬越の手を優しく退けて、聞く。

「……自分が嫌になるとき、どうしたら良い?」

「君も、嫌になるの?」

「なってる……。わがままで嫌になる。だけど、素直に直せない」

 下を向いて言う。馬越が柔らかな声で、「わがままって?」と尋ねる。千歳は唇を噛み締めて答えない。

「……まあ、何かを求める心があるなら、一度それを満たしてみるのも悪くないとは思う」

「それは、欲だ。欲は持ちたくない……。君と同じだ」

「君の欲って……? ──聞かせてよ、ねぇ」

 気付くと、馬越は千歳を囲い込むように板壁へと片手を着いていた。馬越の声から逃れるように、千歳がしゃがみ込んでも、馬越の声は耳許に近付き、千歳の心を揺さぶる。

「求めとる人が手に入らんで寂しいんなら、本当にその人を求めとるんか考え直すんよ」

「──!」

「案外、執着に過ぎなくて、その人自身を必要としてはないんかもしれんよ。君を愛してくれる人は、もしかすると──」

 千歳の肩が震え、涙を流した。それ以上、聞きたくない。歳三に認められないこと、愛されないことを受け入れられない自分が、歳三に執着しているだなんて、あってはならない。

「君、誰が好きなの?」

 馬越の手が千歳の肩を掴んだとき──

「何をしているんだ、君たち!」

 歳三の声が響いた。裏門には、稽古着の歳三が険しい顔をして立ている。千歳は弾かれたように立ち上がり、厨の方へ逃げ出すが、馬越がその腕を捉えた。

「ちょ、ちょ、この状況で逃げよるはあかん! ほんま! 僕が何かしたみたいやろ!」

 千歳は振り切ろうとして抵抗を止めない。

「僕、何もしてないもん!」

「ほな、そうやて、副長に説明してや」

「離せったら! 知らない!」

「知らんやないじゃろ!」

「離せ、馬鹿!」

 千歳が馬越の足を踏もうとするので、馬越が千歳に足払いをかけて抑え込み、「副長!」と叫んで、歳三に制止を求める。歳三は幼いころ、次兄の説教から逃げようとした自分を思い出し、姿勢を和らげた。

「説教ではないから、まずは離してやりたまえ、馬越くん。かわいそうだろ」

「……逃げよんなよ、ほんま」

 馬越が低い声で念を押す。千歳は上体を地面に倒して無抵抗を示し、馬越を見据える。馬越は少し待って手を離し、千歳を睨んでいた。

 千歳が立ち上がり、背中に着いた土を払う。不貞腐れた顔で涙を拭い、馬越を睨み返すと、ようやく馬越も警戒を解いた。その瞬間、千歳は駆け出した。

「お前!」

「まぁ、馬越くん。とりあえず、話を聞かせてもらおう」

 追いかけようとする馬越の襟首を捉えて、歳三が言う。馬越が情けない声を出して、言い訳をした。

「え、えー。違うんですよ、副長ぉ」

「何が違うのか、説明したまえ」

「ほなけん、ほんま……なんも……」

「何もしなくて泣くことがあるか」

「あるから、びっくりするんやないですか!」

 馬越が歳三の手を振り払って、抗議の姿勢を取る。眼光の鋭い整った顔立ちが気迫を持つ。

「──ええ、そこで泣き出す? ですよ。ほいで、あいつ、自分がなん思うとるか、全然しゃべらんやないですか。ほいで、逃げよるんですけん、ほんなん、自分のことしゃべらんくせに、お前はわかっとらんて泣かれたて、知りませんわ!」

「わかった、わかった」

 馬越の思わぬ気勢を歳三が抑える。その言い分は擁護したくなるものだった。

「たしかに、君の言うとおりだ。だが、あの子はまだ幼いから、辞弁が上手くできないのも無理はない。こちらも、隊内で何やら諍いがあっては困るからと、問うたまでだ」

 馬越の気迫が収まる。同時に、手を後ろに組み、小首を傾げて歳三を見上げた。

「酒井くんの好きな人、ご存知ですか?」

「……は?」

「山南先生のこと、好きやて言いよりますけんど、あれは懐きよるだけで、恋い慕いよるんはまた別にいとると思うんですよ」

「そういうことを、私に言われても。誰が誰を好きだなんて、他人が踏み入ることじゃない。私は隊務に支障をきたさなければ、誰と誰がくっついたってかまわないよ」

 歳三が腕を組んで、他所を見る。その返答に嘘はない。千歳が誰を好きだろうと、歳三には関わりのない話だ。馬越が、わずかに間合いを詰め、小さな声で言った。

「……たぶん、そういうとこやと思うんですけんど」

「なんだね、理不尽に説教受けそうになった仕返しかい?」

「……仕返ししても良えですか?」

「ふふん、怖いね。君はなかなか根性が悪いと聞いているから」

 たしかに、この少年は自分の美貌をよくわかっている。濃いまつ毛に縁取られた美しい目に見上げられたら、これを突き放せはしない。千歳は馬越を女好きと評したが、種蒔き・・・をして遊ぶあたり、男女を問わず、人の心が自分のために揺れる様子を見るのが好きなのかもしれない。少なからず、その心持ちは歳三にも理解できてしまう。

「良いだろう。聞いてやるよ」

 歳三の言葉に、馬越が微笑んだ。そして言う。

「……酒井くんの思い人、副長ですよね?」

「えっと……あの子は俺のこと、相当嫌いだと思うが?」

 歳三の困惑を、馬越は意にも介さない。

「相手への憧れが裏切られたとき、それほど好きでもない人やったら、興味がのうなりますよね? なんだ、つまらんって」

 馬越は白い指を立てて、続けた。

「でも、好きな人やった場合、嫌いになりません? どうして、憧れと違うんじゃ。おかしいって」

「なるほど?」

「今の酒井くん、ほれやと思うんです。副長が羽織につけてきた移り香、どないしたら消せるか聞いてきましたし。欲なんか持ちとうないのにって言うてました」

「……欲ってのは?」

「愛してほしいんやないですか? ほなけん、君の思い人への愛は、愛を返してくれへんその人への執着なんやないのって言うたら、泣かれました」

 歳三がため息をついて、額に手を当てた。千歳にいきなり泣かれるのは歳三も経験済みだが、これはひどい。馬越はよくも先程、何もしていないのに泣き出されて驚く、と言えたものだ。

「……そこまで盛大な誤解を受けたら、辞弁できないのも無理はない」

「僕、こういう見立て、けっこう当たるんですよ」

 馬越はあくまで自説を曲げるつもりはないらしい。歳三が馬越の肩を叩く。

「はいはい、わかったよ。馬越くん、その当たるという見立て、誰かに話したら、私と百本、打ち込み稽古だからね」

「うげー」

「返事」

「はぁい」

「それから、ついでに言っておこう。君が誰と付き合おうと勝手だけど、不義理なことはするな。忠告したよ」

 肩に置かれた手に力が込められ、馬越は困ったような顔をして、微笑みながら、歳三を見上げた。歳三はため息をついて、手を離す。

「……説教はしたくないね。昔の自分に跳ね返ってくる」

「……ふふ」

「笑ったな? 稽古行くか? 私はまだいけるぞ」

「いえ、結構です。失礼します!」

 馬越が一礼して、八木邸へ走った。歳三は馬越の生意気なかわいさを良いと思うのだった。


 部屋に戻ると、千歳に掛けた羽織は、元通り衣桁にあった。手に取り、鼻を近付ける。

「そんなに匂うか……?」

 馬越は、千歳が歳三の愛を求めるために歳三に執着していると言った。ある意味、当たっているとも思う。敬助に言われた、千歳が求めるのは父としてのお前だ、との言葉。それを満たしてやれていないことは、確かなのだ。

 説教は昔の自分に跳ね返るからしたくない。不義理をするな。志都への不義理が、今の事態を招いた。そして、まだ幼くて、辞弁が上手くできないなら、よく話を聞いてやらねばならない。これも、敬助にも言われたとおりだ。

 千歳は夕食の時間になっても部屋には戻らなかった。歳三が風呂に立った間に、布団は敷かれ、床の間の前の衝立は、ぴったりと立てられている。

(手の着け様もねぇ)

 男は女の涙に弱いなどと言うが、目の前で泣かれたら、それが誰であっても気勢を削がれるものだ。泣かれてしまう以上、歳三は千歳に近付けない。線香を上げることを拒まれ、洛中に家を持つことも、女物の着物を着せることも、おおよそ、歳三の歩み寄りは千歳によって全て拒絶されている。あと一年後に来るだろう千歳との別れがどのようなものになるのか、歳三には想像もつかない。

 千日手、と思い浮かんだ。千歳との距離は縮まらない。そして、総司との十六武蔵のさい、言われた言葉を思い出す。


『千日手は、選択肢の多い方が解消しなくてはいけないんですよ?』


 それは、自分の方なのだろうか。

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