十四、薫香
千歳は雨戸を開ける音で目を覚ました。目をこすりながら床の間から降りて障子を開けると、井上が最後の一枚を戸袋に納めるところだった。
「すみません、先生」
「良いよ。鬼の居ぬ間に朝寝をしたって」
千歳が思わず吹き出す。井上はこれを咎めなかった。
歳三が戻った。昨日と別の香りを漂わせている。千歳はすぐに歳三の行李を開けた。
「着替えは良い」
「移り香が気になりますから」
「そ、そうか……」
歳三は黒茶の紋付羽織の紐を解いた。袖に鼻を近付けるが、それほど匂いはしない気がする。
「香り物は嫌いか?」
「別に嫌いではありませんけど」
千歳が羽織を受け取って、衣桁にかけた。白檀と混ざる白粉の香りが鼻に広がった。白檀の香りは好きなはずだが、どうも、この匂いは好みでない。
「失礼します、斎藤です」
「ああ、ご苦労。座りたまえ」
副長部屋へは隊士たちがひっきりなしに報告へやって来る。千歳は東隣りの総司の部屋へ移り、本を読みながら、総司と話していた。総司は鬢に収まらず額にかかる髪の毛をもてあそびながら、姉への文を書く。先年に生まれた甥っ子への祝いの品を送るらしい。
斎藤の低く速いしゃべり口での報告が終わった。入れ違いに、副長部屋へは島田が入る。巨体に似合わず高めな声は、隣部屋までよく届いた。隊士が減ったことに対応して、巡察の組割りをし直してほしいとのことだ。
千歳が総司に尋ねる。
「今、何人くらいなんですか?」
「五十三人だっけな」
「年末、六十人ちょっといましたよね」
「まぁ、攘夷の先駆けと言いつつ、いつもは市中の巡察ばかりだし、ようやく大樹公がご上洛されても、武力攘夷はなさそうだし、先の政変に対する長州への処分も手間取りそうだし……勇先生の胃が悲鳴を上げるのも無理ないよなぁ」
総司が左手で髪を捻り回しながら、他人事のように言った。
「追われたお公家さんたち、勅書を偽造したって聞きますけど」
「偽勅ね。うん。会津侯のところに、あなただけが頼りですってご
「会津さま、義に厚くてすてきな方ですよね」
「ふふ、勇先生と一緒」
総司が嬉しそうに笑いだした。千歳もつられて笑う。
武田が巡察から戻る。千歳が居住まいを正し、礼をした。武田は、「うん……?」と眉を寄せて千歳を見下ろす。
「は、はい」
「袴の結び目、解けています」
目を下にやると、たしかに一文字に巻き付けた余りの紐が緩くなっていた。しかし、ここは室内であるし、総司に至っては、結び切った両端の紐を後ろに回さずに、小刀の下げ緒と共に、前に垂らしている。武田が返事をしない千歳に、
「はい、ありがとうございますと直す癖をつけたまえ」
と厳しく言った。千歳は慌てて返事をして結び目を解き、結び直した。
「武田先生、厳しいですよ」
「沖田くんに言うことはありませんが、酒井くんは今から直せば君のようにはなりませんからね。せめて、その前髪っぽいものを中に仕舞いなさい」
「はぁい」
総司は形ばかり、鬢の髪や額にかかる髪を後ろに撫で付けた。武田が総司と向き合って座る。
「最近、隊の中が浮ついていませんか? 沖田くん」
「え? ああ、うーん。そうですか?」
「稽古に身が入らない者、巡察の列を乱す者、そんな隊士が増えていないかと言っているんです」
「ああ、たしかに、稽古は物足りないなぁと思います」
「何故でしょうねぇ」
「さぁ、何故でしょう」
総司の言葉には、まるで考える姿勢が見られない。元より、深くは考えない質だ。武田は語気を強めて語りだす。
「今の状況が変わらない、もしくは好転しかしないと思っているからですよ。今の束の間の平穏が、一体どれほどの恨みの上で成り立っているのか、自覚がない。あの政変以来、長州は着々と軍備を整えているそうじゃありませんか。長州の浪士たちも潜伏している。これは、内裏への直訴があるかもしれませんよ。それなのに、今──」
武田はそれから滔々と、隊士たちの勤務態度について論じた。詳細な隊規を作るべきだとか、一度入隊したら命を捧げるつもりでなくてはいけないから、脱退は認めないようにするべきだとか、さらに、隊内の組織系統のあり方にも話が及んできたので、千歳はこっそりと部屋を出た。
早めの昼食を済ませて、歳三は外へ出て行った。千歳は副長部屋の掃除を行う。
副長部屋は、南に面した座敷を東西半分に分けて、東を歳三が、西を敬助が使う。膨大な蔵書を置くために、棚が付いている西側が敬助の領域だ。千歳が越して来たことで、それまで床の間に置いていたふたつの本箱は、今は常に北の襖の前にある。歳三は本の代わりに着物が多いため、衣装を入れる行李がふたつ。そして、先日、保管書類が増えたために、文書を入れる長持が三棹に増えた。つまり、この部屋は、八畳ながら手狭であり、その分、床掃除は楽なのだ。
掃除を済ませ、歳三の衣更えに取り掛かる。綿入を袷に直す作業は、順次行っている。虫喰いがないか調べて、シワの目立つものは解いて洗い張して、また縫う。着る身体はひとつなのに、表着だけで十枚以上もあるのは多すぎると文句を言った。
虫喰いを見つけた三枚を繕う。裁縫道具は歳三がどこからか一式買い求めて来て、千歳の物となっていた。
一枚目を終えたとき、ふと、衣桁にかけられた黒茶色の羽織に目が留まる。手に取るとまだ芳香は残っていた。千歳は部屋を出て、八木邸の馬越を訪ねた。
「匂いなぁ。洗うてまうんが一番やけど」
馬越は縁側に腰掛けて答えた。千歳もその隣に座った。馬越がいつも着物に香を焚き染めていることから、匂いを変えたいときの方法も知っているのではないかと思い、消臭法を尋ねたのだ。
「なんの匂い?」
「白粉とかお香の移り香」
「……副長の?」
「うん」
「ははぁん。知らん女の匂いなんつけてこんといてや?」
「な……ち、違う!」
思わず立ち上がって抗議するも、馬越は動じない。
「三日も経てば、移り香なん消える。面倒臭ければ、放っておけば良え」
「……わかった。ありがとう」
「副長、モテるもんなぁ」
「そうですねー」
「心配やろ? 心配なんなぁ? 嫌うてまうほど、好きな人やもん、ほうじゃなぁ」
気の無い返事をする千歳を他所に、馬越はおもしろくて仕方ないと好奇心に目を輝かせて、千歳を見る。愛らしいえくぼすら、千歳には憎たらしく映った。
「……総司さんとの稽古、増やしてもらおうかな」
昼過ぎ、巡察帰りの総司に千歳は稽古を願った。馬越には、どうにも遊ばれている気がする。口では叶わないので、剣を磨くしかない。総司も、千歳の「気組」に誘発され、いつもより稽古に熱が入った。
夕方、千歳は副長部屋で裁縫道具箱を抱えて倒れるように寝ていた。座った瞬間に疲労があふれ出て来て、そのまま寝付いてしまったのだ。
歳三が帰る。入り口に背を向けて倒れる千歳を見て、何事かと驚き肩に触れるが、寝ているだけと気付いて、軽く小突く。
「おい。おい……ったく」
春とはいえ、夕刻はまだまだ寒い。千歳の頬は、開け放たれた障子戸のために、風にさらされて冷ややかだった。
永倉がやって来て歳三を稽古に誘った。歳三は、衣桁の羽織を取り、千歳にかけて部屋を出た。
「酒井坊、昼寝ですか?」
「ガキってのは、呑気なもんだよな」
「でも、あのくらいのころって、寝ても寝ても眠くありません? 俺、早起きとか、二十五越えてからですよ、できるようになったの」
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