十二、憂心

 啓蟄を過ぎ、朝方の冷え込みが和らぐころ。千歳は厨から聞こえる包丁の音に目を覚ました。畳一畳分の床の間に敷かれた寝床にも、すっかり慣れた。目隠しの衝立をずらし、敬助の布団と文机の間をゆっくりと抜ける。廊下に出て、雨戸を開けると、春の穏やかな朝日が坪庭の白梅を照らしていた。

 副長部屋で一番先に起き出すのは千歳だ。千歳が雨戸を開けると、その音で敬助が起き出して顔を洗いに庭へ降り、敬助が着替えを終えるころには歳三が目覚める。しかし、今朝は珍しく、敬助より先に歳三が起き出してきた。雨戸を戸袋に収める千歳が、「おはようございます」と言えば、うん、とだけ返される。いつも無愛想であるが、朝は特に素っ気がない。

 歳三が着替えて、北の広間に来ている床屋へ髪結に行った。敬助はまだ寝ている。千歳も着替えて、自分と歳三の布団を畳み、床の間へ上げても、敬助は起きない。

 千歳が枕元に座り、様子をうかがうと、敬助の額には大粒の汗が浮かんでいた。色の白い頬は赤らみ、触ると熱い。首に手を添わせ、脈を診る。ここまで触られて起きないとは、まず、ありえない。

 歳三が豊かな黒髪を櫛目もきれいに結い上げて戻ってきた。

「副長……山南先生、脈がだいぶ速いです」

 千歳の報告に、歳三も敬助の様子をうかがう。何度か敬助の肩を叩き、呼びかけるも反応はない。歳三は千歳に医師を呼ぶように言った。


「傷から毒が回って発熱するんは、へぇ、ご存知でっしゃろ。これもそれですな」

 道服を着た僧形の医者は、敬助を診療してそう言った。歳三が尋ねる。

悪血あくちか?」

「へぇ。それに、貧血もあります」

「山南さん、貧血なんかなかったよな?」

「うん。それに、傷を受けたのは、随分前だ」

 診療の途中で目を覚ました敬助が医者に言った。

「いつでっしゃろか?」

「一月前になる」

「それでん、ありえますなぁ」

 医者は薬箱を開いて解熱剤を調合し出した。

「流れた血は、すぐには戻りまへん。とにかく、よう食べて、よう休ませたってください」

「わかった」

 歳三がうなずく。千歳にお茶を出すように言い付けたとき、表から永倉の声が挙がった。玄関を駆け上がる音がした。

「近藤局長、局長! いるか⁉」

 歳三は医者に会釈をして、

「すまないが、私はこれにて。後は、この者にお伝えくだされ」

と千歳を指して、席を立った。残された千歳に向かって、医者は、

「お茶、おおきに。せやけど、十分や」

と微笑み、薬を分包する。

 敬助が広間を気にして、襖へと顔を向けていた。

「なんだろうねぇ」

「副長はん、身体だけやのうて、気ぃも休めたらんと、あきまへんえ」

「ああ」

 敬助が大人しく頭を枕へと戻した。千歳は密かに広間から聞こえる音を拾おうとしたが、その必要はなかった。永倉のよく響く声が、局長部屋を挟み、聞こえてくる。

「四条大橋に高札が立てられた。会津さまと俺たちを誹謗するもんだ」

 朝の巡察で確認したらしい。


 ──会津侯は親藩でありながら、京都守護職を経るうちに、歴代の恩義を忘れてしまった。ならず者の集まりを抱えても、天下の京都は治安が回復しないまま。


 敬助が布団の中でうなり声をあげる。

「うーん。会津侯の朝廷寄りな立場を揶揄しているが、この時期から考えると、上洛に付き従った幕臣たちからの不満か?」

「もしくは、それに見せかけた長州勢でしょうか」

「うん。僕たちを『ならず者』と言うあたり、たしかに恨みを持ってはいるようだから」

「会津さまは、そんなに朝廷寄りなのですか?」

 千歳がいつもの調子で敬助に尋ねるも、医者が咳払いをして制した。

「お小姓はん。あきまへん。病人は静かに寝かしたっておやりなはれ」

「……はい、すみません」

「病人に必要なんは、栄養、休養、安静や。将軍さんも来はって、忙しいころやと思いますが、できれば静かなところで──」

「おい、近藤さん! しっかりしろ!」

 広間から聞こえた歳三の声で、医者からの説教が中断される。起き上がろうとする敬助を留めて、千歳は局長部屋の襖を細く開ける。

 局長部屋の広間に面した襖は開けられており、身を屈ませて腹を押さえ、畳に手を着く近藤の姿が見えた。歳三と永倉が、その背を撫でる。近藤は平気だと言うが、その声はとても痛みに耐えられない様子に聞こえ、顔色は青ざめていた。

 千歳が襖を開けていることに歳三が気付く。

「医者殿! すまない、こっちも診てくれ」

 その日、局長部屋と副長部屋の襖は開けられ、敬助と近藤が布団を並べて療養した。

 近藤の胃炎は、痛みを我慢したために、症状が重くなっていた。


 会津藩は二千人の藩兵をもって京都市中を警邏させ、治安維持を行っている。新撰組も同じく市中の警邏が任務だが、汚れ仕事と言うべき不逞浪士たちの捜索と捕縛は、会津による情報提供と依頼を受けて行うことも多い。実働部隊たる新撰組と、その雇い主の会津藩は、浪士側から相当な恨みを買っていた。

 一方で、その働きから、会津侯容保に対する帝の信任は厚い。同時に、幕府からの信任も厚いかといえば、そうではない。幕府とやり取りを行う朝廷の役職に武家伝奏があるが、同じように、容保も朝廷の意向──今回の将軍上洛の催促などを行っていた。そのため、幕閣の中には、会津は朝廷に属しているのかとの声もあるのだ。

 会津にしても新撰組にしても、幕府への忠誠の元に働いているため、今回、四条大橋に立てられた高札の内容は、全く筋違いの批判である。

 近藤が胃を患ったように、容保もまた、その責務から体調を崩していた。


 翌日には、呼び出しを受けた近藤が黒谷へと出向いた。高札についての調査報告と、逮捕命令の受領に行ったのだ。歳三は千歳に、近藤が帰ったらすぐに休めるよう、布団と薬を出しておくように指示した。

 局長部屋を整え、敬助へと手拭いと湯を張った桶とを運ぶころ、来客があった。

富沢政恕とみざわまさひろ。近藤たちの同郷の者で名主を勤めている。富澤家の主筋は旗本であるため、この度の将軍上洛にさいし、供としてやって来たのだ。試衛館の門弟であり、近藤の養父である先代、周助の古くからの弟子だった。

歳三と総司、井上は、北の広間に出て、富澤を出迎えた。敬助は、歳三に富澤への対応を全て任せて、部屋で布団に残っていた。

「先生、よろしいんですか?」

「心配させてしまうからね。そこの襖、開けておいてもらっても良いかい? 声が聞こえるから」

 局長部屋と北の広間の襖を挟んで、楽し気な笑い声が響く。総司が大坂で見た船の話をすると、富澤が船酔いで大変な思いをした話をした。敬助は目を閉じて聞いていた。懐かしい兄弟子の声だった。

 富澤たちは、しばらく話した後、花街へ出かけて行き、広間は静かになった。

 すれ違いに、近藤が帰った。富澤の来訪を伝えると、会えなかったことを悔やんでいた。歳三たちが連れ立って遊びに行ったことを伝えると、

「ああ、それは残念。では、私は酒の代わりに薬湯をいただこう」

と言って、着物を着替えた。その顔は穏やかに微笑んでいたが、頬には疲れの影が見えていた。

 千歳は厨の東の庭に出て、前日に医者からもらった薬を煎じた。桂皮の匂いが晴れた空の下に立った。汁椀に移した薬湯を、近藤は一気に飲み干した。

「苦いなぁ……」

「良薬です。どうぞ」

 千歳が白湯を渡す。近藤は礼を述べて受け取ると、新撰組の前身、浪士組が、元々は破約攘夷を願い上洛したことを話し始めた。開国の調印を撤回し、再び鎖港を行うことが帝の意向──叡慮だ。

「前年の五月に長州がメリケン船に大砲を打ち込んだ事件は──知らないか。薩摩も英国と戦争をしたんだよ。しかし、だね。我々も武力攘夷は叶うものと考えていたが、なぁ……」

 近藤が胃を抑えた。帝の望む攘夷は、あくまで鎖港であって、無謀な武力討伐ではないと明言された。武力攘夷こそ叡慮と思われていたのは、昨年の八月の政変で長州へ追われた一部の尊攘派公家衆による叡慮の捻じ曲げであったのだ。

 そうであれば、偽りの叡慮を真と信じて立ち上げられた新撰組の行く末を、どうしていくべきか……。

 青い顔をする近藤に、千歳が呼びかける。

「先生、お薬を飲むときは、心を穏やかにしていなければ、薬効が行き渡らぬと言います」

「うん、すまない……」

 千歳は黒船も、勝による幕府海軍も見ていない。国学の書物では、大和こそが神に守られた世界の中心であると書かれていて、西戎せいじゅうは御されるべし、つまり、馭戎ぎょじゅう──攘夷の認識が根底にあって、それを疑わないために、近藤の嘆きを理解するには至らなかった。


 夕方、洗濯物を盥に取り込む千歳に馬越が声をかけ、祇園に誘った。「ゆっくり攻める」と言ったとおり、順当な手段で仲を深めようとしている。千歳としては、もちろん行くつもりはないが、ここでも、上手く断れない性格が出てしまう。

「僕、お酒は飲めないし……」

「お料理だけでも、おいしいえ」

「でも、副長に聞かないと。今、お外だから」

「山南先生じゃあかんの?」

 間合いこそ詰めては来ないものの、断りの口実を次々とかわしていく馬越は、妙に楽しそうだ。千歳はその顔に腹立たしさを覚えつつも、拒絶にならない程度の良い理由を思いついた。

「山南先生がいるから、ダメ……」

「先生がいるけん、どうして?」

「多摩の旧友がいらしたけれど、お加減が悪くて会えなかった。僕まで遊びに行っては、先生がかわいそうだから行かない」

「かわいそう?」

「うん。副長たちは一緒に遊びに行ってしまったから、僕までは行かない。うん、行かない」

 千歳はその文末を強調して馬越の目を見た。馬越の追求が止んだ気がした。

「優しいなぁ、酒井くん」

「や、優しい、わけじゃない……」

「ほう? ほなけんど、君の言うとおりじゃ。念者の先生が寝付いとるのに、君が遊びに行きよるは不自然じゃ」

「……その筋書き忘れてた」

「忘れるくらいならさ、ちょっとだけ──」

「行ってらっしゃい」

 肩に回された手から逃れて、千歳が言った。相変わらず、嫌と言えない自分が情けなくなる。

 馬越は両手を合わせ、えくぼを見せた顔を少し傾けながら笑う。

「良えね、その気高さ。美しいわ」

「振られて喜ぶの?」

 もう、この少年は多少荒く扱ったところで問題ないような気がしてくる。

「言うたろ? 美しい人が好きやて。酒井くんには醜い欲がないけん」

「……美しさを求める人間は死を選ぶって、ある人が言っていたよ」

「わからんでもないなぁ」

 馬越が白い手を伸ばして物干し竿から手拭いを取り、千歳の持つ洗濯物の山に加えていく。

「美しさを求める心と、美しい身体とが、どちらかでん僕から離れてってしもうたら、どないして生きていけば良えかわからんもん。美しい生きたい自分が醜いなんて、生きてけん」

 馬越の言う美しさは、おそらく自身の容貌のことが大きい。芹沢の言う美しい生き方とは異なるだろう。千歳は曖昧な相槌を返す。

 馬越が千歳を見据える。

「わからん? なりたい自分と、今の自分の差ぁが嫌になることくらい、あるやろ?」

「……うん、それはわかる」

「ほれと戦うんが人生なんなぁ」

 馬越は全ての洗濯物を千歳の持つ盥に入れると、じゃあねと八木邸の方へ向かって歩き出す。千歳は思わず呼び止めた。

「──自分自身の差だったら、戦う。じゃあ……他人だったら?」

 馬越が振り返る。馬越の目は、一瞬の冷めたような目線から、すぐに微笑みに変わった。夕日を背にした馬越が、「他人?」と問い返した。

「この人には、こうであってほしい。だけど、違う」

 千歳が盥を強く抱え込んで、尋ねた。そう思う相手は、この洗濯物の主。

 馬越は、千歳に再び歩み寄って答えた。その顔は、珍しく神妙だった。

「その人に興味がのうなるか、嫌いになるか、変えてやろうと動きとうなるか、やない? それほど好きやなかったら、興味がのうなるな。好きやったら、嫌いになる。ほんまに好きやったら、変えとうなるんじゃ」

「好きだったら、嫌いになるのか……」

 千歳の頬が赤く見えるのは、夕日のせいだけではない。馬越がおもしろそうに、

「なんや、心当たりありよんか?」

と千歳の頬を撫でる。

「ないよ!」

 千歳は乱暴に馬越の手を払うと、厨へと走り入った。

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