十一、未熟
千歳が副長部屋に移って三日目。原田は、「仙之介坊」がなぜ、突然に副長部屋へ移ったのかを考えていた。歳三は、敬助の介助のためと言うが、だとしても、部屋まで移す必要はないはずだ。千歳が部屋を移る前に、何か変わったことはなかったか。ひとつ、思い当たる節があった。
朝食を食べに前川邸へ向かう馬越を捕まえ、原田は肩を抱きながら歩く。
「おーい、馬越よ。おまはん、こん前の晩、酒井くんの部屋から一時くらい出て来んかったじゃろ?」
「ええ」
「夜這ったかなもし?」
「ふふふ」
同じく四国の出ということで、伊予言葉で話しかける。馬越は白い手を口元に寄せて笑ったきり、否とも応とも言わない。原田がその手を掴む。
「なあ、実際のところ、お前にその気はあるかい?」
「あー、どないしようなぁ」
「何が?」
馬越が原田の腕を抜け出し、後ろ手に組みながらくるりと振り返った。朝日を背に、いたずらっぽく笑って言う。
「僕、美しいものが好きなんですよ」
「おう」
「つまり、顔にも好みがあって……」
その一時ほど後。八木邸の縁側で本を読んでいた千歳に、巡察から戻った藤堂が尋ねる。
「おい、酒井くん。良いの? 噂」
「なんですか?」
「馬越三郎との念若の誓約」
「軟弱の製薬?」
見当がつかない千歳が尋ね返す。藤堂が呆れ気味に、
「だから、衆道の契りを結んだのかって」
と、問い直した。
「……馬越くんがそう言ったんですか?」
「なんか、そうらしいって左之助くんが言ってた」
千歳は開いた本を勢いよく閉じ、縁側を叩いて、「叩きのめす!」と立ち上がった。
先日、一応は手打ちとしたが、根も葉もない噂を流したとなれば、話は別だ。
「まあ、落ち着きなよ、返り討ちが良いとこだから」
藤堂は噂が嘘だと察し、一気に興味が引いたようで、気のない声音で千歳をなだめた。
返り討ちが良いところと言われたとおり、馬越は強い。道場をのぞくと総司と永倉が師範になり、隊士に稽古を付けていた。馬越は総司と組んでいる。千歳では総司の身体に剣を当てることすらできないが、馬越はかわされたり、受けられたりしながらも当てているし、いくつかは一本を取れる打ち込みをしていた。十六歳の若輩にして、入隊試験に合格しただけはある。
千歳は稽古が終わるのを戸の外で待った。道場を出て来る隊士の中にいる馬越を呼び止める。
「馬越くん、少し来てくださる?」
「なんでしょう、参りますけんど」
腕を組んだ千歳の睨み顔を物ともせず、馬越は千歳に付いて道場の裏に行った。千歳が周りに誰もいないことを確かめてから、小声で詰め寄る。
「どういうことですか、ナンジャクのネイヤク?」
「念若の誓約」
「何、ネンジャクって」
千歳が面倒くさいと言わんばかりに不機嫌な声で聞く。
「念者と若衆。その契りごと」
「あー、なるほど、念若……」
千歳が思わず宙に文字を空書きする。その指先を馬越が捕らえた。
「念者が成年たる務めとして、若衆にあれこれ指導するのよ。床での作法もじゃ。実際に教えてあげれたら良えんやけんど」
千歳は馬越の手を払い、ふざけるのは十分だと言って道場の壁にもたれる。今の馬越は、三日前の夜の刺すような鋭い目とはまるで違う。いつも通り、柔和で、警戒心を与えない。
「馬越くん、ねぇ。そんなの結んでないですよね、僕たち。どういうつもりですか?」
「どうもこうも、僕が言うとるわけやないけんど」
「原田さんに言ったんじゃないの?」
「ううん。きっと、あれじゃ。武田先生に説教されたとき、朝食の席だったんよ。君は酒井くんよりふたつしか上やないけん、念者なん務まらへんとか。大きな声で言われたわ」
「武田先生……」
千歳がもたれていた壁に額を着けて嘆く。場所と声の大きさを考えてほしい。そもそも、どうして武田は馬越との一件を知り得たのか、謎だ。隣部屋だから聞こえたのか? だとすると、同室の総司と井上にも知られているかもしれない。
千歳の嘆きを他所に、馬越が噂は否定せずにいた方が良いのではと提案した。千歳はすかさず抗議するが、それに被せて馬越が主張する。
「君を若衆にて望む人がいとるんよ? ほんなら、念約はふたりと結んではならんけん、僕と結んどることにしといた方が賢いやろ?」
一理ある、と千歳の反論の姿勢が弱まったのを見て、馬越が重ねる。
「僕も若衆に望まれるけんど、ほれも嫌やもん。君が話合わせてくれたら助かる」
「……よし」
「ほんなら」
馬越が顔を明るくして千歳の手を取ろうとするが、千歳は手を後ろに組んで、
「僕は、山南先生と『念若の誓約』をしたことにする」
と言い、顔を背ける。
「酒井くん、つれない……」
「山南先生が相手なら、誰も文句ないでしょう?」
「僕はどないなるん?」
「君は君のお相手を見つければ良いだろ? いしし、武田先生とかどうだ? お詳しいらしいし」
「堪忍してやー」
千歳の意地悪な笑みに馬越が泣き声を挙げた。少しだけ、千歳は良い気味だと思ってしまった。
馬越が言っていた通り、馬越を若衆にと望む隊士は少なくないようで、馬越党との集まりができていた。
千歳は馬越を軽率だと思っていた。もちろん、千歳自身に対しての行いもそうだが、若衆に望まれるのが嫌だと言いながら、千歳に言い寄るなど、衆道の気があることを知らしめているようなものだ。
馬越の評判は良い。総司は馬越の気迫ある剣が好きらしいし、敬助は真面目で良い子だと言う。歳三は何と思っているか知らないが、昼食時に、何やら楽しそうに話しているのを千歳は見ていた。けれども、千歳は、人との距離が近く、捉えどころのない馬越を少し苦手としていた。
二月になって、風も温かい朝。非番である馬越は、縮緬の二藍の羽織を着て、前川邸の厨に朝食をとりに来た。六兵衛から膳を受け取り、座敷に上がるところで、長山に声をかけられる。十九歳の年若い隊士で、これもまた、「馬越党」の一員だ。
「すてきな色だね、羽織。紫が好きなのかい?」
「ええ。似合います?」
「う、うん」
「嬉しい、おおきに」
馬越が小首を傾げて笑いかけた。
「その、馬越くん! 良ければ──」
「あ、酒井くん! ほな、僕はこれで」
馬越は話を切り上げて、座敷の端に座る千歳の側に寄った。
「おはよう」
馬越が千歳の隣に座ると、千歳が首を傾げて馬越に微笑む。
「『嬉しい、おおきに』」
「何?」
「君の真似」
「聞いてたの?」
「あの人と仲良くなりたいの?」
まさかと、馬越は箸を取り上げ、吸い物に口を付ける。千歳は呆れた声で、ほらねと言う。
「まるでそんな風には見えない。なのに、どうして愛想を振りまくのさ。無駄に想いを募らさせて、かわいそうに思わないのか?」
「ふふ」
馬越は少女のように鼻にかかった笑い声を挙げた。
「女もいない、娯楽も少ない、日々あるものは稽古と巡察。少しくらい、楽しんだって良えやない」
澄ました顔で沢庵を口に運んだ。「お愛想」が好きなのかと尋ねれば、違うと答える。
「……遊びってこと」
馬越の長いまつ毛に縁取られた鋭い目が千歳を射抜く。千歳が眉を寄せて、疑問の表情を見せると、潜めた声が返された。
「種を蒔くんよ。自分の魅力をな、ギュッと一瞬だけ見せるんや。ほん時に、相手の目の色が変わったんなら、そん人は遊びの相手じゃ。種蒔きをな、繰り返す。しばらくして、告白されたら、終わりじゃ」
千歳が蛇でも見たかのように顔を歪ませた。周りの隊士は、銘々に朝食をとっていて、千歳が馬越へあからさまな嫌悪を示しても気付かない。
「何、その顔」
「おもしろいとは思えない」
「人に好意向けられるのは嫌な気せんもんやろ?」
馬越のことは軽率だと思っていたが、それどころでなく、根性が悪いと言った方が正しいかもしれない。同意を見せない千歳に、馬越は困ったような顔で尋ねる。
「……君、色欲が嫌になることない?」
「……は?」
「ないんかぁ」
馬越が後ろに手を着いて、宙を見つめ、自分の感覚を確認するかのように言った。
「僕は、美しいものが好きじゃ。ほなけんど、色欲は美しいない。もっと言えば、色欲を見せる相手は、美しいない思うけん、抱きたいなん感じんのよ」
「へぇ……」
千歳には何ひとつ理解できない弁明だ。馬越も、それをわかっていて続ける。
「色欲を向けられるのも、自分が抱くのも嫌じゃ。……自分が抱くのは、ほんまに嫌じゃ。ほなけん、恋の初めのころの、純粋な好意が僕は好きじゃ。何もないところから、心が変わっていくなかで自然と現れる好意が一番好きなんよ」
敬助の顔が、少し赤かった。脈を診ても速い。発汗も見られた。怪我を負って以来、繰り返される敬助の微熱の症状は治らない。頭痛や咳などの風邪らしい症状がないことは幸いで、朝食はいつも通り食べている。近頃の敬助は障害の残らなかった左手を上手く使い、ひとりで食べられるようになっていた。右手に茶碗を持たせてから、匙を取り、一口ずつすくう。
「山南さん、だいぶ上手くなったな。練習すれば左手でも箸が使えるんじゃないか?」
「そうだね、頑張ってみようかな」
歳三は先に食べ終えて、千歳からお茶を受け取った。いつも、敬助が食べ終えるまで、席を立たずに待っているのだ。大抵、千歳が敬助と話すのを聞いている。
「さっき、馬越くんから根性の悪い遊びを教えられましたよ」
「ふふ、それはまた、なんだい?」
「種蒔きですって」
「種蒔き?」
「あの人、やたら愛想が良いの、恋の初めの純粋な好意が好きだから、わざとにこにこしてるんです。自分の魅力を種にして、相手の心に蒔くんですって」
歳三がすかさず口を挟む。
「絶対にやめろよ。遊びでそんなことするなんて、お前――」
「わかってますよ。だから、根性が悪いって言ったじゃないですか」
千歳が口を尖らせる。やると思われたのは、大変不本意だ。敬助は、小芋の煮付けをすくうのに苦労しながら、馬越の言い分もわかる気はすると話を進める。
「恋の初めの感じ、僕も好きだな。馬越くんはなんで好きかって言っていた?」
「なんか……美しいものが好きだけれど、色欲は美しくないんですって」
「な……え? 君たち、そんな話してるのかい⁉」
敬助がせっかく拾えた小芋を匙から皿に落とした。歳三も湯のみに伸ばした手が止まるが、千歳は平然と返す。
「してるって言うか、話してきたんです」
「で? 君はなんて答えたの?」
「へぇー、て」
「あぁ……そう、へぇ」
「へぇとしか言えませんよね」
千歳が少し意地悪く笑ったので、敬助は、馬越との仲を尋ねる。千歳は少し考える素振りを見せて、言いにくそうに話し出した。
「……どちらかというと、苦手? ああいう、そう……我の強い人」
「我? 柔和な子じゃないの?」
「しゃべり方と笑顔に惑わされていますよ、先生!」
千歳が前のめりになって訴える。
「あの人、自分の顔が良いこと知ってますからね。自分が笑えば、好かれるのは道理って思っているところが、苦手です。ええ、もはや、嫌いと言っていいくらい。女の子の口説き方なんて、ひどいですよ。抱きしめて、『僕のこと、嫌い?』ですって。挙句、自分の意地悪で泣かせておいて、『ひとりで泣くなんて、寂しくないの?』って、席を立つ相手を捕まえるなんて、馬っ鹿じゃないのって思います。あんな女好きの標的にされる子が、かわいそうですよ」
歳三は途中から居心地が悪くなった。馬越のことを言われているはずながら、自分にも思い当たる節は多い。特に、抱きしめた耳元で弱気にささやく手は、歳三もよく使う。敬助も、半分笑いを堪えながら、半分困ったような顔で歳三を見ていた。
「では、先生。今日はお休みになっていてください」
膳を片付けた千歳が、布団に戻った敬助の枕元に座って言う。
「ありがとう。喉も頭も痛くないし、鼻水も咳も出ないのにね」
「優秀な風邪ですね、すぐ治りますよ」
「うん。土方くんはまた稽古かい?」
「温かくなると動き出すのは、熊だけじゃないんですねぇ……」
千歳が遠くを見つめてつぶやくのを、敬助が軽くたしなめる。千歳はクスッと笑って、
「じゃあ、またお昼に来ます」
と、出て行った。
敬助は、千歳と歳三の否定しがたい相性の悪さを感じ取り、一人で苦笑いした。歳三には、話を聞いてやれ、しっかり話し合えと言っているが、これは千歳の側から拒んでいる部分も大きいだろう。
「困ったなぁ……」
そうつぶやくと、北の襖が開いた。近藤が、これまた布団に入ってうつ伏せていた。
「やあ、山南くん。君も風邪かい?」
「どうも、近藤さん。あなたは胃痛ですか?」
うつ伏せて、手を胃に当てているのだろう。近藤はここ最近、胃が悪い。本人は認めないが、過労と心労だ。近藤が、「お互い年を取りましたのぅ」と、ひょうきんな声を出した。敬助が笑って返す。
「そうですのぅ。安静にいたしましょうのぅ」
歳三のみは元気に道場で隊士たちに稽古をつけていた。馬越に対しては、少し厳しめな打ち込みをしてしまったことは否めない。
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