八、親心

 明けて、朝食前。歳三は局長部屋と副長部屋との間の襖を開けて、帰営した近藤に千歳を引き合わせた。千歳を副長部屋に置く許しを得るためだ。近藤はふたつ返事で了承した。

「良いと思うよ、お小姓さんとしてね。山南くんの右手が治るまで、土方くんの書き物仕事も増えるわけだし、祐筆も兼ねて」

 こうして、千歳は敬助と同室という、この上なく望ましい采配を受けることになった。

 昨日の馬越との一件は話していない。自分で対処しきれず、敬助に泣きついたのは情けないことだと、千歳は理解していた。また、同室の配置も、敬助が怪我を負ってのことだと、よくわかっている。

 それでも、やはり、千歳は敬助と同室になれることが嬉しかった。例え、執務室を兼ねた副長部屋に三人分の布団を敷くことが手狭なため、千歳の寝床が畳一畳分の床の間となったとしても。

「すまないねぇ、床の間なんかに押しやってしまって」

「十分です。それより、せっかくのお花を飾るところがなくなってしまったのが、申し訳ないです」

 紅梅が飾られていた床の間には、千歳の布団と文机が置かれ、その上に厨子と、十冊ほどの本が平積みされている。残り八十冊以上の蔵書は前の部屋、八木邸の二階の納戸に残させてもらった。

 敬助は紅梅の花籠を自身の文机の上に置いた。もう、筆は持てないだろう。せめて花が飾られていたら良いかと思った。

「歳三くん。下の引き戸、仙之介くんの行李入れられるだろうかね?」

「下か。何、入れてたかな」

「勘定方からの過去の報告書類」

「ああ。じゃあ……それは、上に移すか」

 千歳の引越しに伴って、副長部屋が大掃除となった。事務手続きは全て副長を通して行われるため、この部屋には大量の書類の正文と案文と、さらに写しとがあり、二竿の長持に収まりきらずにあった。

「さぁ、ひとまずはお引越し完了で良いかな?」

「はい、ありがとうございます。お手数お掛けいたしました」

 千歳がふたりに頭を下げる。歳三と敬助は、引き出された書類の要不要を確認しながら、会津藩が洋式調練を採用したことを話していた。歳三が大坂湾で見た通り、軍事の洋式化は避けられない。新撰組のこれからはどうするか、そんな流れになった。千歳は本を手に取り、静かに部屋を出た。

 八木邸の母屋では、雅が縁側で縫物をしていた。千歳は隣に座る。馬越は巡察に行っているらしい。

「お引越し、大変やったね、お仙さん」

 今朝、千歳は歳三に連れられて八木邸に戻った。そして、副長部屋へ移ることを雅に伝え、そのまま歳三と荷物を持って前川邸へ引越した。

「そないに、悪いん? 山南センセ」

 雅には、引越しの理由を敬助の世話係として、としか伝えていない。正月に大坂で負った傷がよほど悪いのかと心配した。

「元気にはしてますよ。でも、生活のなかの細々したことが、まだ難しいみたいなんです」

「そうなん? 早よ、治ると良えなぁ、ほんに」

 千歳は雅の言葉に力強くうなずいた。


 道場では総司が稽古をつけているらしい。甲高い叫び声と、激しく打ち合う竹刀の音が聞こえる。

 千歳は道場の脇にある庭石に腰掛け、部屋から持ち出した『万葉考』を開く。心を鎮めるには本を読むことが一番だ。余計なことを考えない。ただ、字を追うのみ。

 『万葉考』は賀茂真淵著作の万葉集の注釈本だ。敬助が、自分でも使えるように色々な言葉を覚えろと、教えてくれているのだ。万葉集には、様々な心の内を歌った歌がある。恋人への愛、家族への愛、別れの悲しみ、春が来た嬉しさ、自然への賛美。そんな、心の表し方、そして、表れ方を学べと敬助は言う。つまり、千歳には気持ちを表す言葉が不足していると言うことだ。

(そのとおりだ。何が言いたいのか、わからなくなって、涙ばかり出てきてしまうから……)


『君は寂しい』

『自分の気持ちを語れない』

『愛されたいのに、愛してもらえないから』


 悔しいが、どれも正解だ。認められなくて、何か反論したくて、それでも、言葉が見つからず、言葉にならなかった気持ちが涙となって、あふれてくるのだ。しかし、泣くことは、降伏を意味する。だから、馬越には昨日──

「馬鹿! 馬鹿、馬鹿! 大っ嫌い、馬越め! 今度あんなことしたら、叩きのめしてやる!」

 千歳が足をバタつかせて悔しがっていると、総司が道場から出て来た。藍染の手拭いを肩にかけて、額の汗を拭っていながら、千歳の元へと寄る。

「珍しくご機嫌斜めなお仙くん、こんにちは」

「こんにちは。いつも、お楽しそうで何よりな総司さん」

 千歳が石から立ち上がって言った。

「馬越くん?」

「な、何がですか?」

「そう聞こえた」

「気のせいでしょう」

「ふうん」

 総司が千歳の手にある本の表紙をのぞきこみ、万葉集かと尋ねた。

「はい、山南先生が貸してくれてるんです」

「僕も先生に教えてもらって、覚えた。山上憶良やまのうえのおくら

 柿本人麿や大伴家持に並ぶ奈良時代初期を代表する官人の歌人で、貧民の姿や家族を詠んだ歌が多い。

「えっとねぇ、『瓜めば子どもおもほゆ 栗食めばましてしぬはゆ いづくより来たりしものそ目交 まなかひにもとな懸かりて安眠やすいさぬ』。どうさ!」

 すらすらと誦んずる総司に千歳は手を叩いた。

「おおー」

「すごいでしょ?」

「すごいです」

 総司曰く、「お勉強に使われるはずの頭は、全部剣術の方に取られてしまった」のだから。ふたりは道場の板壁にもたれて話した。春の日差しうららかな昼前だ。

「僕ね、小さいころに両親亡くして、勇先生の道場で育ったの。十歳かな。先生のことは大好きだよ。でも、やっぱり……井上の源さん曰く、お年頃? ちょっと、素直になれない時期もあるの。君も、もうすぐ来るだろうけど。で、えっとね、そうそう。──勇先生に叱られて、道場を飛び出したとき、山南先生が追って来て、親心がいかなるものかって諭してくれたときに引っ張ってきたのが、この歌。切り紙に書かれて持たされたもん。覚えちゃったよ。『しろかねくがねも玉も何せむにまされる宝 子にかめやも』」

「……どんな宝物にだって、勝る宝。それが、子ども」

 良い歌だ。千歳もこの歌を読んだとき、とても感じ入った。そして、ひとりで涙をこぼした。父母への愛や孝を表す歌や教えは多いが、親から子への愛をここまで素直に歌った歌は珍しい。

「山南先生が聞かせてくれたんだ。総司くんのお父さまお母さまが何よりも愛した君を預かったから、勇先生は親代わりとして、決して不足のないように君を育てなくてはって、力んでしまうところもある。けれども、どれほど叱られようと、君は自分が宝と思われる存在であることを忘れるなって」

「……良い人ですよね、先生」

「うん。僕が勇先生の宝なら、勇先生は僕の光。あれから、ずっとそう思ってる。山南先生も、勇先生も大好き」

 総司が晴れやかな笑顔を浮かべる。幼いころに試衛館に入ったことは聞いていた。しかし、両親を亡くしたためとは、知らなかった。

 総司は千歳と同じく両親を早くに亡くしながら、明るく、真っ直ぐに育っている。総司の言うとおり、近藤の愛情と、それを教えてくれた敬助のお陰なのだろう。口を閉ざした千歳の肩を総司が叩いた。

「よし、稽古しよう! すっきりしないなら、僕を叩きのめしてみない?」

「……僕が叩きのめされる、の間違いですって」


 千歳は襷をかけ、総司と木刀で向かい合った。総司は防具をつけない。千歳からの打ち込み一切を受けるつもりなのだ。千歳は正眼に構え、総司に打ち込んでいく。

 邪念を持つなと総司が怒鳴った。千歳は上がった息を落ち着かせ、面を打つ。受け止められ、跳ね返される。

「甘い! 攻めろ、攻めろ、攻めろ!」

「やぁ!」

 間髪入れずに、面、籠手、胴と狙っていくが、今度は、

「雑! 一振りずつ気組を込めろ!」

と言われる。気組──気合いを入れて打ち込んだって総司に当たりはしないのだから、雑になればなおさらだ。

 千歳が渾身の力と気力を込めて総司の籠手を払いに行った。

「脚がガラ空き!」

 袴の上から、脛の上部に木刀を振り下ろされた。


「どう? すっきりしたでしょう?」

 半時ほどの稽古を終えても、総司は涼やかな顔だ。千歳はぐったりとしている。

「馬越くん叩きのめしたいんなら、気組を途切れさせないことだよ」

 道場を出ながら、総司が言った。馬越は強い。今の千歳では、確実に歯が立たないだろう。千歳がため息をついた。ふたりは八木邸の母屋の縁側に腰を下ろす。

「元気ないね」

「……総司さん。僕、寂しそうに見えます?」

「うん? 別に?」

「愛されたそうにはしてます?」

「そんなのは、みんなそうでしょう?」

 総司が、さも当然というような顔で答えたことが千歳には意外だった。

「……総司さんも愛されたいんですか?」

「当たり前じゃない」

「そっか……そうですよね。……なるほど。ありがとうございます」

 今も飄々とこだわりなく生きているような総司ですら、愛されたいのかと思うと千歳は少し気が楽になった気がした。総司は不可解といった顔をしていた。

 原田たちが巡察から帰って来た。そのなかに馬越もいるはずだ。千歳は立ち上がって草履を履き、前川邸に戻ろうとするが、総司が馬越を見つけ出し、呼びかけた。千歳が慌てて制するが、馬越はいぶかしがりながら総司の側まで来た。

「なんか、お仙くんが君のこと叩きのめしたいんだって」

「やだ!」

 逃げようとする千歳を総司が片手で押さえつける。千歳の抵抗は無駄だった。

「せっかくだから、相手してやって。遺恨は残さない方が良いよ」

「総司さん!」

 馬越が庭に降りて、総司に取り押さえられた千歳と対面する。相変わらず涼やかな目元だった。

「ごめんや」

 馬越が頭を下げた。千歳の抵抗が止まる。総司は手を振って、前川邸へ帰っていった。

 取り残された千歳が後退さる。馬越は間合いを詰めてはこなかった。

「ごめんや、酒井くん。叩きのめす? 良えよ、甘んじて受け入れる。昨日はごめん。武田先生にも怒られた」

「……なんで、知られているんです?」

「あの人、ほんに目ざといけん。酒井くん、ごめん。反省しとるよ、急ぎすぎたって」

「……急ぎすぎた?」

「今よりはもっと時間をかけて、ゆっくりと攻めるわ」

「反省してないみたいだから、いい」

 千歳は一気に脱力して、再び縁側に腰を下ろした。柱に身をもたせかける。素直に謝られると、思い返してはあれほど感じていたはずの怒りも表せない。

 馬越がひとり分の距離を開けて、千歳の隣に座る。

「想うだけやけん、許してや。心の中のことやもん」

「……女の子に不自由しそうにないのに」

「それとこれとは別。桜も良えけど、梅も良え、みたいな」

 千歳はわざとらしくため息をついた。まるで反省していないのがわかった。しかし、何に腹を立てていて、どうしてほしいかを説明する確かな言葉も気力も、千歳にはなかった。元はと言えば、自分の迂闊な梅配りが原因で、桜が好きな人間に、梅にも興味を持たせてしまったのだろうから。全くの誤認であることも、気が引ける。

「あ……」

 千歳はあることを思い付いた。

「女の子を落とすコツ、教えてよ。そしたら、叩きのめさない」

 柱にもたれたまま、かったるそうに下ろした足を揺らしながら、馬越に聞いた。簡単だと馬越は語り出す。

「まず、褒める。次に、同調する。『僕もや』って。ほれで、君のことわかっとるよと示す。あとは、抱きしめた耳元で『僕のこと嫌い?』ってしおらしくすれば、落ちん女はおらんよ」

「なるほど。それをかなり強気でやると、昨日の君になるわけか。理解、理解」

 千歳が睨むと、馬越が言葉を詰まらせ、苦笑いした。千歳は庭に飛び降り、馬越の前に立つ。

「手口教えてくれてありがとう。つまり、わざと心かき乱すようなことを言って、そこにつけ込むんだな。わかった。君の言葉をまともに受け取っては、君の思う壺! 以後、絶対に引っかからないよう気を付けまーす」

「く、敵に手の内を明かいてしもうた……!」

 馬越が大げさに頭を抱えて、泣き声を出した。千歳がさらに続ける。

「馬っ鹿じゃないの? ペラペラしゃべっちゃってさ。寂しいのも、愛されたいのも、みんな一緒じゃない。その上、弱点付いて力技に持ち込むなんて、卑怯だ! 顔が良ければ許されると思ってるだろ? 僕、光源氏嫌いなんだよ。ちやほやされ慣れたあの傲慢さ。しつこさ。君も自分は受け入れられて当然って思ってるんだろ? あり得ない、どうかしてるよ」

「ごめんなさい、ほんに……武田先生のお説教よりキツいけん、その辺で堪忍しとくれや」

「ま、おかげで山南先生と同室になれたし、二度と夜這いかけられない寝床も手に入れたし、手打ちといたそう。じゃあ!」

 千歳が振り向きもせず、前川邸に向けて走り出した。取り残された馬越は縁側に倒れ込み、「負けや……」とつぶやいた。

 正午の鐘が鳴る。千歳の鼓動が速いのは、何も走ったからだけではない。前川邸の裏門の柱に背をもたせて、息を整える。

 言いすぎるか、全く言えないか。そのどちらかしかなくて、中間がないのだろう。

「あれは、ダメだよ……」

 千歳は両手で顔をおおった。


 敬助と歳三は、副長部屋で昼食をとった。片付けながら、千歳が敬助に尋ねる。

「明日、知恩院さんまで行って来ても良いですか?」

「良いよ。お参りかい?」

「はい。兵馬先生の一回忌なんです」

「そう。よくお祈りしていらっしゃい」

 敬助が微笑むと、ふと、歳三の顔を見て、「あ、土方くん!」と声を挙げた。

「な、なんだい?」

「君、明日は黒谷に行くだろう? 一緒に行ってやってはどうだろう?」

 敬助が千歳の肩を抱いて言った。千歳は相当に嫌そうな顔をしたが、馬越の指摘どおり、やはり「嫌だ」とは言えないのだ。言い出したら、どこまでも拒絶を並べてしまう恐れがある。

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