七、拒絶

 寂しい。

 千歳は唾を飲み込んだ。千歳の視界には、ちょうど志都と兵馬の位牌が納められた厨子がある。気付くと脈は速まっていた。

「ほれ、当たりじゃ。君は愛されたいのに、愛してくれる人がおらん。迷い子や。自分の気持ち語れへんのは、寂しさで感情が麻痺しとるからやないか?」

 千歳は反論できずに身を固くしていた。目には涙が浮かぶ。馬越の声は、容赦なく千歳の心をかすめて行くのだ。

「抱きしめてほしいって感情を押し殺しとるけん。ひとつ、感情を殺してまうと、他の気持ちまで死んでまう。残るんは、気持ちのわからん混乱と、虚しさと、寂しさだけじゃ」

 千歳は耐えきれずに、立ち上がった。障子戸へ向かう千歳の腕を馬越は捉えて、自身も立ち上がる。

「ひとりで泣くなん、寂しいないの?」

「……ない、から」

「寂しいの我慢するなん、酒井くんの心がかわいそうじゃ」

 馬越が千歳を抱き寄せた。白檀の香が強く千歳を包む。千歳は後退ろうとするが、この部屋は両脇に箪笥が置かれ、幅は半間もない。千歳は箪笥と馬越に挟まれた。小柄とはいえ、千歳とは体格が違う。何度も立ち会っているからわかる。馬越には勝てない。

「――馬越くん!」

 精一杯の力を以って、千歳は馬越の胸を押し退けるが、馬越の腕は千歳をきつく締め上げる。

「君、嫌だって言わんな。言えへんの? ほんまは求めとるけん?」

「嫌、嫌だ……!」

 千歳は言葉を見失ったかのように、それ以上何も言えなかった。馬越に抵抗できない悔しさで、涙ばかりがあふれてくる。

「寂しいんやろ? 僕だって寂しいんよ──」

 そう言って、馬越の手が、千歳のうなじを撫でる。強烈な嫌悪感が千歳の身体を貫いた。千歳は馬越の足を踏み付け、馬越が怯んだ隙に、階段を駆け降りると、土間を抜けて庭に出た。


『君は寂しい』

『自分の気持ちを語れない』


 馬越の声が耳を離れず、千歳を攻め立てた。その声を振り切るように、千歳は裸足のまま、八木邸の庭を駆けた。梅は咲いたが、夜着一枚では寒すぎる。


『抱きしめてほしい気持ち』

『愛されたいのに、愛されない』

『寂しさで感情が麻痺して──』


 自分は寂しくなんかない。愛されないかわいそうな子なんかじゃない。千歳は声を堪えて涙を流した。

 前川邸の裏門はまだ開いていた。千歳は離れの前を走り抜け、母屋の厨に飛び込んだ。

 自分にだって、抱きしめてくれる人はいる。千歳は涙を拭い、足裏の砂を払った。廊下を進み、副長部屋の前に座る。敬助の文机の方に行燈が灯されていた。

「先生……?」

 千歳がなるべく平静を装った声で呼びかける。「仙之介くん?」と、敬助が答えた。千歳はもう我慢ができなかった。

 先生、と呼んで障子を開け放ち、泣きながら敬助に抱き着いた。

「せ、仙之介くん? どうしたんだ? おい、何が──」

 千歳は首を振って泣き続ける。敬助は動かし辛い両手で千歳を抱いて、落ち着くように頭を撫でた。

「大丈夫、落ち着いて……ね? どうしたんだい? ……そんなに泣くことはないよ」

 敬助の声は、いつも通り、優しかった。千歳の泣き声がだんだんと治った。肩はまだ震えている。敬助はもう一度、千歳を抱きしめた。

 歳三が風呂から戻ったが、部屋の光景を見て、一歩後退った。

「こ、これは……?」

「それが、よくわからなくて……」

「……俺はいない方が良いかい?」

 そう言って背を向けようとする歳三を、敬助はその場から全力で止めた。

「いや、ちょっと待ってよ、歳三くん! ──仙之介くん、仙之介くん? ほら、ちょっと、起きて──。良しよし、これ……拭いて……うん、ね? 怖くないから。な?」

 千歳の身体を引き起こし、手拭いを渡して涙を拭かせる。歳三が障子を閉めて、火鉢を千歳の側に寄せた。千歳はその温かさで、また少し落ち着きを取り戻した。

「今は、自分のお部屋から来たのかな?」

 敬助に尋ねられ千歳はうなずく。まだ言葉が出ない。

「部屋ではひとりだった?」

 首を振る。敬助は息を飲み、努めて冷静を保とうとした。少し低い声で敬助が尋ねる。

「誰?」

 千歳の目からまた涙が流れる。喧嘩ならまだ良かった。喧嘩ではない。馬越から突き付けられた一方的な敗北なのだ。

「嫌なこと……された?」

「……だ、……も」

「うん?」

「だ……抱きしめ、ら……て……離して、くれな……て、手……襟に……」

 千歳は今になって、馬越に与えられた一番の嫌悪感の原因を思い出した。勝てないと悟った相手に身体を触られるという屈辱。あのときは、言葉の上だけでなく、身体をも取り押さえられていた。うなじのあたりを何度も拭いながら泣く千歳の手から、敬助は手拭いを取って、涙を拭いた。

 歳三も事のあらましを理解した。今、ここで泣いているのは、か弱い十四歳の少女だ。泣かせたのは、確実に隊内の者だ。

「おい、それ誰だ?」

 歳三が千歳の背中に手を置く。千歳が跳ね上がり、歳三の手を払いのけて、敬助にしがみついた。その反応に歳三と敬助は顔を見合わせた。

「誰かわかる?」

 敬助の質問に、千歳は少し間を置いて首を振る。今ここで、馬越の名を出したら、馬越がどんな罰を受けるかわからない。それが怖かった。

「顔は?」

 首を振る。

「今日、お部屋戻れる?」

 千歳は首を振るばかりだった。


 敬助は千歳を自分の布団に寝かせ、千歳が寝付くまで待った。その後、歳三と共に土間へ移った。歳三がため息をつく。

「やっぱり無理だったんだよ、いくら男の格好をさせても。あの年頃はかわいい。そりゃ、衆目を集めるさ。武田さんにも注意されていた」

 衆道云々とは、千歳に目を付けている奴がいるから気をつけろとの忠告だったのを、聞き流していたのだ。八木邸には道場に行く以外、顔を出さないため、千歳の身辺の様子まで気遣っていなかった。

「やはり、隊には置かない方が良い」

「隊を出して……?」

「それは……」

「男の子の格好をした女の子を雇ってくれるところはあるか? 好奇の目で見られて、またこんなことにならないか?」

「……俺が、別宅を持つ。近藤さんが芸妓の、駒野だっけ? アレに家を持たせたろう。ちょうど、会津さまからのお手当ても増えたし――」

 昨年末から、歳三の月給は月三両になった。洛中の町屋に私邸を構えても問題なく生活できる。しかし、敬助は間髪入れずに口を挟む。

「君、そんな生活できるかい? 今だって、挨拶すらしないのに。朝起きてあの子がいて、朝食を一緒に食べて、帰って来たらあの子が出迎えて……だいたい、ちゃんと帰るのか? 君のすてきな夜遊びを知ったら、さすがにあの子も──」

 歳三が舌打ちをした。敬助の見立ては正解だろう。お互いにとって、非常に心の休まらない家になることは明らかだ。そして、「すてきな夜遊び」との嫌味には、反論の余地もない。

 敬助が思い付いたように言う。

「……あの部屋に移すのはどうだろう? さすがに副長の部屋子に手を出す馬鹿はいない」

「山南さん……、それじゃあ、なんの解決にもならないじゃねぇか」

「だけど、君の私邸に住まわせたって、君たち親子の関係が──」

「親子?」

 歳三がすかさず、発言に異を唱える。敬助は呆れた声を出した。

「はいはい、『君とあの子との関係』が良くなるとは思えませんよね? というか、君はこの四ヶ月間、あの子に何をしたって言うんだい? 何もしていないじゃないか。結局、未だにお線香さえ上げに行ってないんだろう? お志都さんに」

「今、その話はいいだろう!」

「いいものか、そこだよ!」

 思わずふたりの声が大きくなる。食事の間として使う広間に面した奥の部屋から斎藤が顔を出した。

「……何してんですか? ふたりして」

「いや、失礼。夜分にうるさかったね」

 敬助が微笑んで取り繕う。もう、亥の刻は過ぎているだろう。そんな夜更けに、副長ふたりが広間で議論し熱くなっているとなれば、気にするなと言う方が難しい。

 敬助は立ち上がって、草履を二足出した。庭に出ろとのことだ。夜風は冷たかった。厨の板壁に背中をもたせかけて、ふたりは続きを話した。

「だから、歳三くん。まず君から、あの子を受け入れてやりたまえ。そうすれば、あの子だって心を開いてくれる」

「はぁ……どうにも俺は嫌われてるんだな。さっきだって、俺がちょっと触っただけで、あの拒絶だ」

「いきなり触られたら、びっくりもするよ」

「……違う」

 歳三はあの拒絶に見覚えがあった。触られることに対する、強い拒否。


 明練堂の躑躅が真っ赤に咲いていたころだ。志都は歳三の手から身を引いた。歳三が足を進めると、後退る志都の明るい色の目には、涙が浮かんだ。

『……ごめんなさい』

『なあ、どうして最近──』

 歳三が触れることを拒否するのか。今だって、志都は手を突き出して、それ以上近付くなと牽制する。

『何かしたかい……?』

『ダメ……』

『……俺のこと、嫌いになったのかい? お志都さん』

 歳三はその手を握った。志都の目には怯えが浮かび、涙が落ちる。志都は何も答えず、ただ首を振っていた。


「ただの拒絶ならまだ手は打てたかもしれない。でも、怯えが見えたら、もうダメだ。側にいてやらない方が相手のためだ」

「君自身を怖がったんじゃないよ。誰かからの恐れが、触れられることで呼び起こされただけだ」

 敬助は先程の千歳の反応を見て、そう解釈した。歳三への拒絶ではなく、不意に触られること自体に嫌悪を見せただけだと。

 歳三はため息をつく。ここで志都を思い出すのは間違っているとはわかっているが、同じ顔に、同じ反応をされたら、思い出さざるを得ない。

 敬助は、さてと言って厨の戸に手をかけた。

「取りあえず、僕、今日は君の布団に入れてくれ」

「はぁ⁉ なんでだよ?」

「布団がない、以上。まさか、君、あの子と一緒の布団で──」

「俺は近藤さんのを借りるよ。幸い駒野のとこだしな」

「良いのか? 勝手に借りて」

「怒られる方が百倍マシだね。あんたとおんなじ床なんざ」

 歳三は速足に土間を抜けて、広間を北から出た。敬助は呆れながら、広間の南の廊下を戻り、部屋に入る。

「開けとくよ」

 敬助は副長部屋と局長部屋との襖を開けた。歳三が近藤の布団を敷いて寝支度を整えていた。

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