五、帰還

 夜、八木邸に風呂を使いに来た敬助を引き留めて、千歳は「お話」をねだった。敬助は、珍しく自分の話をした。

 儒学者の三男に生まれた敬助は、小柄な体躯や、柔和な性格に似合わず、幼いころから武張ったことが好きだった。お家芸を修めた上でなら道場に通わせてやると言われ、六歳年上の兄を追い越して、父から学問を習った。十八歳で小野一刀流を修めた後、北辰一刀流の玄武館に入門し、併せて、天神真楊流の柔術を学んだ。

 三男ならば、いずれ、家を出るものと思っていた。けれども、剣で身を立てるには身体が小さかったし、学で身を立てるには剣が惜しかった。

 玄武館は学者の多く住む町、お玉ケ池にあり、敬助はその内のある漢学者の家をよく尋ねるようになった。孔子、朱子が読まれる中、荀子や墨家を読む変わり者の老学者だった。彼の三姉妹の長女が物静かな美しい娘で、その婿にと望まれた。二十五歳のときだ。敬助も一度は受けた。

 しかし、その折、近藤に出会った。

「あの人が、僕を拾ってくれたんだ。剣を教える代わりに、学問を教えてくれと言って、試衛館に招き入れてくれた。その内、出稽古も任されるようになってね。それが、今や、京都で剣客集団の副長を務めさせてもらうまでになって……」

 敬助はここで言葉を切った。この手に、剣を取る日は再びくるのだろうか。

「お玉ケ池の娘さんとは、どうしたんですか?」

「お別れしたよ。申し訳ないことをしたと思っている。でも、結婚していても……今、ここに来る選択は譲れなかっただろうからね。そうなれば、一人で置いてくることになったのだから、別の人と結ばれたと聞いて、安心している」

「……少しかわいそうです」

「そうだね」

 敬助は、久しく思い出していない娘の顔を思い浮かべた。血色の良い唇をしていたことを覚えている。

「じゃあ、帰るよ」

「おやすみなさいませ」

 千歳が礼をして見送った。敬助が手を振る。

 今日はなぜか、過去に浸りたかった。この半月、回復しないのではないかという不安が絶えず襲ってきた。少しだけ、近藤と顔を合わすことが怖かった。

 今日の話は、初心を振り返るためでもあった。二十六歳の春に、ようやく定めた自分の道。近藤に着いていく。あれから五年が経つ。たった五年でも、近藤と共に剣を取れたことは、幸いであると感じられた。


 朝。長い正月休みを終えて、再び出仕してきた賄い方の六兵衛という初老の男による小豆粥が、朝食に振る舞われた。千歳は敬助に椀を差し出して、敬助ととる最後の朝食を過ごした。敬助の部屋は、すなわち、歳三の部屋でもあるため、千歳が副長部屋に入り浸れる日々も終わりとなる。

働きから戻った同志たちを正装で迎えたいと言う敬助のため、千歳は羽織袴の着付けを行うと、八木邸に戻った。

 昼前には、近藤以下、隊士たちが将軍警護を終えて、帰営した。八木邸にも、原田や藤堂たちが帰って来て、千歳は雅や源之丞たちと共に出迎えた。藤堂が千歳の手を握って言う。

「酒井くん。山南先生の看病してくれて、ありがとう。先生、思ったより元気そうで良かった」

 千歳がうなずいた。

「元気にしてらっしゃいます。藤堂さんも、お勤めご苦労さまでした」

「ありがとう」

 藤堂の目が赤いような気がした。


 昨年の終わりから、屯所内の食事は一括して前川邸で作られるようになった。八木家の分の運搬は千歳の仕事になった。食後、食器を返した後は、前川邸でしばらくおしゃべりをしていく。

前川邸では、食事の間として、土間に面した小部屋の仕切りを外し、合わせて十六畳を広間として使っていた。

 今日は嬉しいことに蜜柑が出ていた。千歳は藤堂の隣に座り、蜜柑の皮はヘタのある方から剥くか、裏から剥くかを議論していた。千歳はヘタから剥くが、藤堂は裏から剥くといって譲らなかった。

 歳三が廊下から来て、広間を見渡した。斎藤が声をかける。

「副長、どなたを探してるんです?」

「酒井は」

「足元にいますよ」

「あ? いた」

 目線を下げると、蜜柑を手にしたまま、恐々と歳三を見上げる千歳がいた。

「な、何かしましたか?」

 千歳が非常に嫌そうな顔をして尋ねたので、周りの隊士は千歳のあからさまな反応に思わず吹き出しそうになった。

「なんだ、お前。また何かしたのか?」

「え、またって、私、何かしたんですか?」

「したのかって聞いてんだよ」

「……何かしましたか? 藤堂さん」

 千歳が泣き声を出して助けを求めるので、藤堂は笑いを堪えて答える。

「ご用ですかって聞いたら良いじゃないかしら」

「あ、はい。──ご用ですか?」

 千歳が蜜柑を置き、居住まいを正して歳三に向き直った。たしかに、素直なところは褒められるだろう。

「食べたらで良い。山南副長に、部屋までお昼を持って行って差し上げなさい」

「はい、わかりました」

 うん、と言って歳三は六兵衛から膳を受け取り、広間の真ん中辺りに腰を下ろして食べ始めた。

「何かしたかと思った」

 蜜柑をつまみながら千歳がつぶやくと、藤堂が茶化す。

「また、買い食いしたのか?」

「しましたけど、年越してからの分は知られてないはずですよ?」

 随分と開き直った答えだと藤堂は思った。


 新撰組の隊士は上下関係のない同士だ。局長の近藤さえ、惣代の立場を取る。そのため、副長といえど敬助の身辺の世話を誰か隊士に申し付けることはできなかった。そこで、歳三は隊士の身分にない千歳を使うことにした。

 千歳は膳を副長部屋へ運んで、敬助の食事を助けた。朝食と夕食の後には着替えを行う。敬助は右手の親指が使えず、捻る動きも制限がかかるので、帯を締めることが難しい。そこで、千歳は腰紐を縦に二分して裂き、輪になるように縫い直した。これなら、帯を握れずとも手にかけて結ぶことができる。

 結ぶ動作が難しいということは、褌を締めることも難儀するのだが、そこまで世話はさせられないと、敬助は越中褌を使うようになった。あらかじめ形を作っておいて、そこに足を通せば良い。

 こうして、敬助の療養生活は千歳と共に進んでいった。

 そんなある日。千歳が朝食の膳を下げるため前川邸の厨へ入ると、武田に呼び止められ、南の縁側へと座らされた。千歳は武田の姿を広間で見ることはあっても、話したことはない。顔を強張らせて、武田の第一声を待った。

「副長助勤の武田観柳斎と申す」

 意外にも名乗りで始まったが、武田は何も続けない。慌てて千歳も名乗り返した。

「えっと、酒井仙之介と申します」

「はい」

「えー……武田先生、どうも、お初にご挨拶申し上げます」

「はい、よろしい」

 どうやら、よろしいらしい。千歳はひとまず安堵したが、気は抜けない。

「ところで、君……」

 武田の目が光る。千歳は着物の裾を握りしめた。

「は、はい」

「いくつですか?」

「十三、あ、十四になりました」

「十四ですか。なるほど。お育ちは?」

「江戸の町道場です……」

「なるほど。そうですか。酒井くん」

「……はい」

 千歳は息を飲んで、武田の顔を見る。武田も口をひき結んで、千歳の姿を頭から脚まで見て、「君は……」と口を開いた。

「そろそろ元服に備える年にしては、随分と子供っぽい格好ではありませんか? 着流しに兵児帯など。君は隊士ではありませんが、屯所で暮らす以上、袴を着けて、脇差を帯びなさい。そんな、どこぞの丁稚ともわからない格好などみっともない」

 いきなり始まった説教に、千歳は固まった。「丁稚」「みっともない」との言葉が頭の中で繰り返される。

「お返事は?」

「は、え、はい……」

「それと、そのバサバサとした前髪。結い上げるか、せめて分けなさい。禿じゃないんですよ? 当世、前髪を下ろすのも流行りかもしれませんが、切りそろえるのはおかしい。幼児のすることです」

「あ、はい……その、気を付けます……」

 千歳が前髪をいじりながら返事をした。

「それから、そのモソモソした話し方! はっきり話したまえ。腹から声を出す!」

「はい!」

 その後も長々と武田のお説教は続き、後半、千歳は背中に当たる日差しに春の暖かさを感じて眠くなっていた。その度に、「聞いていますか?」「酒井くんはどう思いますか?」と武田は尋ねるので、千歳は朝から気力を削られる思いだった。

 ようやく解放された千歳は、まず敬助の元へ逃げ込んだ。歳三もいるし、隣部屋には武田本人がいるので、極めて小さい声で敬助に泣き言を言う。

「武田さん、ずっとしゃべっていると思ったら、君に説教していたのか」

 敬助が、大変だったねと千歳の肩を叩く。

「先生……この格好、みっともないですか?」

「みっともないことはないけれど……袴を着けた方が見栄えは良いよね。うん、当分、僕は着ないだろうし、僕のを貸してあげるよ」

 その日から、千歳は前髪を横に流し、袴を着け、兵馬の小刀を差すようになった。立派な若武者姿だと、敬助は褒めた。

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