四、支え

 将軍入港の二日前の夕刻、敬助は馬越を供に帰京した。報せを受けた井上が千歳を伴い、前川邸で敬助を迎える。馬越の肩を借りて、敬助は慎重に駕籠から降りた。

 手を貸そうと歩み寄った千歳は、「お働き……」とまで言って涙を流し、立ち尽くした。練習していたのは、

「お働きご苦労さまでした。布団の用意はしてありますから、着替えて休まれてください」

との台詞だ。何度も繰り返し、淀まずに言えると思った。しかし、敬助の青白い顔と、手と頭に巻かれた包帯を見た途端、言葉は失われた。

 敬助は動きにくい左腕で千歳を抱き寄せて、「ただいま」と語りかけた。千歳は敬助の腕の中で、堰を切ったように泣いた。


 千歳は甲斐甲斐しく敬助を世話した。普段、敬助と過ごせるのは二日に一度ほど、仕事を終えた敬助が訪ねてくるときだけだ。その他、お遣いの依頼や、おやつを持って訪ねて来ることもあるが、やはり忙しい身だ。ゆっくりと話す機会はない。千歳は敬助の側で雑談したり、講義を受けたりしながら、昼間は前川邸で過ごすようになった。

 朝、八木邸から敬助と馬越、井上の分の朝食を運ぶ。敬助は右腕を動かせないので、千歳が持つ粥の椀から、左手の匙ですくって食べた。

 昼間は掃除をしたり、洗濯をしたり、それぞれ、馬越と井上と千歳の三人で仕事を分担して行った。馬越が、千歳とふたりで行うと言ったが、井上は、働かなくては年を取ると言って、平等に仕事を受け持ったのだ。

 三十六にしては白髪が目立つこの男は、全く、偉ぶったり、威圧するようなところがない。正月挨拶に対応するため残された井上も、このころになるとやることもなくなってきたので、日々の仕事を終えた後には、ふたりに剣術の稽古をつけてくれた。

 馬越は強かった。小柄だが、力強い打ち込み──井上曰く、「気組」のある打ち込みを行う。そして、俊敏だ。千歳は馬越と組んで、打ち込み稽古をした。ほとんど「打ち込まれ稽古」だったので、稽古後には身体中にアザができ、夕食を取りに行ったときには、雅が悲鳴を上げたほどだった。

 千歳の正月は、いつか敬助に言われた通り、学んだ分だけ身体を動かす、大層健全な日々になった。


 厨の東庭で、馬越が薪を割る音が響く。井上は町に出ていた。千歳は布団に座る敬助の包帯を替えながら言う。

「先生、爪切りましょうか。だいぶ、伸びています」

「何から何まですまないね。ただ、親指が動かないだけだってのに」

「掴めなくなったら、できないことも増えますよ」

 敬助の右手は、人差し指以下の四本の指は問題なく動くのだが、親指に障害が残った。力が伝わらないのだ。そのため、摘む、握るといった動作ができない。そして、手の平の向きを素早く変えることもできなくなっていた。この障害が意味するところは、つまり、刀を抜く事ができないということだ。

 千歳はそれに気付いていないが、敬助の心中は穏やかではなかった。剣を手に生きてきたのだ。それを奪われた。新撰組という剣客集団の副長でありながら、剣を持てない。眠れない日が続いた。

「先生。手、貸してください」

 千歳が膝に懐紙を広げ、敬助の右隣に座った。敬助の手を取ると、熱を帯びていた。敬助は微熱が出ては下がる状態が続いていた。風邪の症状はなく、熱だけが出る。そのため、今日も寝間着のまま、布団にいることになったのだ。

「先生、手、案外大きいですね」

「そうだね、たしかに、身長の割には大きい方かもね」

「剣握るには得ですね。私、身長の割には手が小さくて。竹刀握るの、ちょっと苦労しますもん。大きくならないかなぁ」

千歳は注意深く敬助の爪を切っていった。敬助は心中に不安を抱えていても、千歳を前にすると、先生としての自分が目覚め、背筋の伸びる気がした。千歳に先生としての自分を求められていると思うと、不安に揺れた心は治まるのだった。

「よし……うーん」

 千歳が爪を切り終えた敬助の右手を眺める。真剣な表情が愛らしい。今度は反対側に座り、左手に取り掛かった。

「……君は良いお嫁さんになると思うんだけど」

 敬助は思わずこぼした。奥の庭で馬越が薪割りをしている以外、誰もいない。千歳は「うーん」とうなってから、息を吸い、

「先生がもらってくれるんなら、考えないでもありません」

と答えた。否定の言葉が返ってくるかと思っていただけに、敬助が言葉を詰まらせた

「だ、黙らないでくださいよ、恥ずかしい!」

 耳を赤くして抗議する千歳に、敬助は苦笑いしながら答える。

僕たち・・・はあくまでも親心だから」

たち・・?」

「土方くん」

「あの人が、親心。あるわけないじゃないですか」

 中指の爪に刃を当てる柔らかな手付きとは裏腹に、千歳の言葉は鋭かった。敬助が理由を尋ねると、千歳はため息をひとつついてから話し出す。

「あの人、けっこう優しいですよね。一緒に遊んだりはしませんけど、勇坊は好きだって言ってました。気遣いのある人だなって思います、見てる分には」

「見てる分には、ねぇ」

「あの人、私のことなんか、知らないふりしますもん。結局……九月の終わりから、お話なんかしていません」

「そ、そんなに、しゃべっていないのかい?」

歳三が千歳とあまり交流を持っていないことは知っていたが、まさかこの三ヶ月、何も進展がないとは思わなかった。いや、と敬助はあることに気が付く。


『歳三くん。愛せそうにないんなら、手を引いてくれ』


 歳三が千歳へ歩み寄ることを、あの言葉が妨げていたとしたら。

(なるほど……うーん、となると、これ以上、歳三くんからの働きかけは期待できないと見ていい。なんとか、この子の方から……)

「あぁ……その、文を書くのは? こう、面と向かっては話せなくても、文でだったら話せることもあるだろう。土方くんが、忙しくても読んでもらえるし」

「……文、ですか?」

「聞きたいこと、ないかい?」

 千歳はしばらく黙って、敬助の手を取り、爪を見る。きれいに切られていた。爪切りを置き、爪が落ちた半紙を畳む。そして、口を開いた。

「……あなた、本当に私の父さまじゃないんですか? どうして、兵馬先生の子だなんて思うんです? 先生はあなたの子だって言うのに。母さま、一切、あなたのこと教えてくれませんでしたけど、何かひどいことでもしたんですか? だから、教えてくれなかったんじゃないですか? 私が生まれる前には訪れなくなったって言ったくせに、私のこと知っていましたよね? 母さまの顔も名前も覚えてて──」

 つらつらと口を突いて出てくる言葉に、千歳自身が驚いた。敬助が思わず千歳の頭を撫でる。

「良しよし、良しよし……。それを一気に書くと、土方くんもびっくりしてしまうだろうから、うん。少しずつ、そうだな……君が生まれて以降、いつ明練堂に足を運んだのか、くらいから聞いてみてはどうかな?」

「……運んでないってシラを切られたら」

 千歳は泣いてはいない。ひたすらに嫌そうな顔をするのみだ。

「そんなことしないよ。僕から渡してあげるから」

 敬助の手の下で、千歳の頭がわずかにうなずいた。

 敬助の硯箱と文机を借り、縁側に出て墨を磨る。敬助は気を遣って、こちらを見ないようにしてくれていた。馬越の薪割りが終わったのか、日向の縁側は静かだった。白梅のつぼみは大きくなって、今にも咲かんとしている。

 千歳は筆を取ったまま書き出しを悩んでいた。

(拝啓……いや、謹んで言上致し候。違う。──新春のご吉慶……ただの年賀状だって)

 ため息を繰り返す千歳の隣に、馬越がお茶を持って来て座った。襷を外しながら、千歳の手元をのぞく。

「お年賀?」

「……果たし状です」

「ほ、ほう。それは、正月から……」

 結局、千歳は書くことができず、馬越と福笑いを描いて遊んだ。


 十四日。本隊より伝令が来て、翌日に家茂が入京し、本隊も帰営する旨が伝えられた。千歳と馬越と井上は、前川邸の大掃除を行った。門松や注連飾りを外す。千歳は土間に降りて、かまどの口にかけられた注連縄も外した。

 夜。小雨が降る中、千歳と馬越は集めた正月飾りを持って、焚き上げに行った。千歳が傘をさし、馬越が大八車を引く。井上から借りた羽織と首巻きをしても、着流しの足元を冷たい夜風が吹き抜けるので、千歳は身を縮こまらせた。壬生寺の西にある刈田では、高さ三間ほどの青竹がやぐらに組まれ、その足元では多くの正月飾りが燃えている。

「雨やけんど、よう燃えよるなぁ」

 馬越が阿波言葉でしゃべる。この少年は京都で剣術修行をしていたところ、上洛してまもなくの浪士組による隊士募集に応じて入隊したという。そのため、図らずも脱藩して、もうすぐ一年が経つらしい。

「門松、頑張って下ろしましょうか」

 千歳が傘を閉じて、大八車の脇に置く。掛け声をかけて、門松を持ち上げ、畔を降り、火にくべる。

「熱っ」

 火の勢いは雨に負けない。近付くと着物に覆われていない部分の肌がジリジリと張り詰める感覚がした。

「坊ちゃんらぁ、気張りや。なるたけ、奥に入れてや」

「寒いのに熱いなぁ」

「ふふふ、はい」

「せーの」

 火に投げ入れた。八木邸の門松も積んでいるため、ふたりは合わせて四つの門松を火にくべた。しめ飾りも燃やしたあと、馬越が少し温まっていこうと、傘を取りに戻った。千歳は縮んでは灰になる藁の束を見ながら、手を合わせた。

 馬越が千歳の頭上に傘をかざす。千歳は合わせた手を離し、振り返った。

「ありがとうございます」

「なん願いよるえ?」

「……良い年になりますようにと」

 千歳が少しはにかんで答える。

「良えね」

 馬越が笑った。千歳の右手を握る。

「なんですか?」

「酒井くんは誰に果たし状送るつもりじゃ?」

 馬越は身長の二倍の高さにも上がる炎を見ながら、先日の文のことを尋ねた。まさか、新撰組の副長に出すつもりだなど答えられない。千歳が笑って誤魔化すと、質問を変えられた。

「君、いつからいよるんじゃ? 僕、初めて見たんは、角屋やったけんど」

「はい。九月の中頃に」

「江戸から来たんよね? なんぜ?」

「……どうして、そんなに聞くんですか?」

 一応、身の上を話すなと歳三にも言われているし、その指示は賢明だと千歳も判断している。千歳が困ったように馬越を見上げると、馬越は涼しい顔で微笑んでいる。手は繋がれたままだ。

「酒井くん、良え子やなぁて思うて」

「良い子ですかね」

「山南先生の顔見て、泣いてたやろ? ほんまに心配してたんやなぁて伝わってきた」

「……恥ずかしいです」

 馬越や井上がいるところで、思わず泣き出した。命に別状はないと聞かされていたが、それでも心配で仕方がなかったのだ。

「山南先生のこと、好きやね?」

「ええ、もちろん」

 千歳は笑った。敬助は千歳が京都に来てから、常に気にかけてくれている。博学で優しくて、剣術に長けて……千歳の中では、兵馬のような存在だ。

「先生、早よ治ると良えなぁ」

「はい」

 二人は雨の中、燃え上がる火を眺めた。

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