二、新年
「お仙さん、勇坊と障破りしたって」
八木邸の大掃除には、親戚宅に寝泊まりしている為三郎と勇之助兄弟も動員されていた。千歳は勇之助と共に、縁側に障子を立て掛けて障子紙を破る。
「見てみて、お仙さん! 窓!」
「ばぁ!」
「きゃー!」
障子紙が破れた枠から千歳が顔を見せると、勇之助が飛び上がった。一通り破った後は、井戸から水を組み上げ、枠を洗う。毎朝の水汲みは千歳の仕事なので、京都の深い井戸から釣瓶を引き上げることも手早くできるようになった。
井戸水をかけられふやけた障子紙を、爪先で剥がしていく。
「冷やっこー」
「冷たいねー」
勇之助は夢中になって障子紙を剥がした。母屋の中では、原田たちが箪笥を移動させたり、鴨居にはたきをかけたりしている。千歳は勇之助へと笑いかけた。
「みんなでやると楽しいね、勇坊」
「楽しい!」
去年の暮れは、大掃除をしなかった。寒さと空腹の中、千歳は兵馬の手を握っていた。年末から、兵馬は昏睡し始めた。一日起きない日が増え、やがて二日、三日と寝続け始めた。そのまま、正月の内に、兵馬はこの世を去った。
休憩しようと雅が声をかける。千歳は勇之助の手を引いて、土間へ向かった。温かい握り飯と吸い物が用意されていた。
「酒井くん、はい」
汁椀を手渡してくれたのは、馬越だった。
「ありがとうございます」
千歳が受け取り、勇之助に渡す。勇之助はおおきにと一礼して、そろそろと奥の間に向かった。もう一度、馬越が千歳に汁椀を差し出す。にっこりと笑った両の頬に、えくぼがあった。
「あ、ありがとうございます」
「ふふ、おおきに」
千歳はぎこちなくも微笑み返した。雅はそのやりとりを見て、源之丞に近寄る。
「旦那はん、旦那はん」
「うん?」
「お仙さん、やっぱ、ここに置いたって良かったでっしゃろ?」
得意な顔に、源之丞は少し呆れた風を装いながら、「そやったかもなぁ」と笑って答えた。
門松が立った。藁を巻いた桶に葉牡丹と南天が生けられ、三本の竹の周りには、取り囲むように松が伸びている。上方の門松は、江戸のものより、幅も広く、豪勢に感じた。
敬助が天神の終いの市へと連れ出してくれた。門松や注連縄飾り、熊手に凧、双六、着物、屠蘇の器に、漆の重箱。何とも賑やかで、新年を待ちわびる光景だった。
「先生、見てください、あれ!」
鳥居の脇で、猿回しが芸を披露していた。赤い頭巾と赤い羽織を着せられた子猿は、猿回しの口上に合わせて、玉に乗ったり、輪くぐりをしたりと、よく動く。
目を輝かせて人垣の後ろから芸を見る千歳に、敬助は、歳三との会話を思い出していた。
千歳が敬助に薬湯を差し出した日から、歳三と敬助は、千歳の話をしていなかった。一月半が経ち、昨晩。敬助は歳三に尋ねた。
『十五になったら、身の振りは自分で決めろと言ったね。君としては、あの子にどうしてほしいんだい?』
『……どこか、商家の奉公にでも行ってくれたら良いと思う。十年も働いたら、それなりの者との縁組も世話してもらえるだろう。そして、結婚して、子どもが生まれて……うん、そうなれば良いと思う』
歳三は文机の灯を消して、布団に入った。敬助も行灯を枕許に移動させ、布団に入る。
『あの子は自分がどうしたいか、考えられるだろうか』
『さあな』
『今のままでは難しいと思うよ』
敬助は左を下に、歳三を見る。歳三は習慣で右を下にして寝ているが、そのときは、やや左を向いて敬助の話を聞いていた。
『歳三くん。あの子が、自分の言葉で気持ちを話せるようになったら──ああしたい、こうしたいと言えるようになったら……まず、それは聞き入れてあげてほしい』
『そうか』
『うん。やりたいことを言うのって、大人でも難しいときがあるからさ。思うんだよね、何かをしたい気持ちは摘み取ってはいけない、育ててあげなくてはって』
育てるためには、千歳の気持ちを受け入れて、肯定してやることだと敬助は説いた。歳三は深く息を吐いて、応とも否とも言わぬまま、眠った。
「──さあ、仙之介くん」
猿廻しの芸が終わって、人垣が消える。敬助は千歳の肩に手を回した。
「良い扇子を見つけてくれたまえ」
「はい!」
今日、敬助が終いの市に来たのは、年賀の挨拶周りで贈答に用いる扇子を買うためだ。目の悪い敬助に代わり、千歳は露店に並ぶ品物の中に扇子がないかを見ながら進んだ。
「あれは、なんですか?」
千歳が露店に並ぶ乳白色の小さな丸い磁器を指して尋ねる。
「香炉だね」
「お香」
「そう」
「へぇ。あ、これは?」
地面の横たえられた薄板の上に置かれた、黒々とした鉄製の道具。柄杓の柄の部分に車輪が埋め込まれたような形だ。敬助が目を凝らしてしゃがみ込む。
「これは墨壺だね。大工の道具だよ」
「なんに使うんです?」
「直線を写し取るんだ。ここの壺に墨を入れる。ここの車には糸が巻かれているんだ。墨を含んだ糸を木材の上に伸ばして、糸を弾くと、墨が木材に写って、直線が引けるのさ」
千歳が納得の声を上げた。興味深く露店に並べられた品物を見て回る千歳に、敬助は様々解説をしてくれた。
境内の中頃辺りに、桐箱入りの扇子ばかりを扱う露店があった。敬助はそこで十箱を選んで購入した。風呂敷に包まれた品物を、千歳が抱える。
「お祭り、好きです」
千歳が逸れないように敬助の袖を握りながら言った。
「僕も好きだな。みんな、幸せそうな顔をしている」
「はい。あ……」
千歳が目を留めたのは、赤い幟を立てた茶屋だった。幟には、汁粉と白く染め抜かれている。敬助が足を止めた。
「目に入っちゃったかな?」
「入っちゃいました。ね、先生……?」
千歳が敬助の袖を引いてねだる。敬助は笑った。初めて京都に来たとき、四条大橋脇の善哉屋では遠慮して席にも着こうとしなかった千歳が、今、こうして自分から食べたいと訴えるのだ。敬助は千歳がとてもかわいく思えた。
「入っちゃったなら、仕方ないね」
頭を撫でて、店に入った。
こうして、千歳と新撰組の京都における初めての年は暮れていった。
将軍家持の上洛は、勝海舟の指揮する外輪船、
前川邸、八木邸は静かな正月を過ごす。千歳の正月は楽しかった。為三郎相手に双六をやったり、雅と羽子板を突いたり。勇之助とは綾小路を走って、凧を揚げた。井上や八木邸の下女も共に、雅の読み上げる百人一首でカルタをした。一番強いのは源之丞だった。
前川邸でひとり暇を持て余した留守居の井上に稽古をつけてもらいもした。千歳はこれまで竹刀での打ち込み稽古をしてこなかったが、初めて面金を着けて井上と対峙した。井上の指導は、丁寧でわかりやすい。
二日の夜。皆でお節を食べた後、千歳は土間で涙を流していた。雅が案じて側に寄ると、千歳は首を振りながら、
「楽しくて……お正月、幸せだなって……」
と答えた。皆で集まり、賑やかに正月を過ごすことは、久しくなかったのだ。雅はその背中を優しく撫でた。
井上と為三郎はそれぞれの宿所に帰ったが、勇之助は源之丞と寝ると言って、八木邸に残った。雅は、今日くらいと言って、千歳を奥の間に入れた。勇之助を源之丞と雅が挟み、その雅の隣で千歳は寝た。誰かが側にいる寝床は、上京の道中を除いては、志都と共寝していたころ以来なので、実に四年振りだ。
人の熱は温かい。千歳はいつも二階の三畳間で足を擦り合わせながら寝ていたが、今日は四人の熱が六畳間を温めている。千歳は静かに眠りに落ちた。
明けて三日。大坂では、新撰組の一行が京屋という舟宿に宿を取っていた。大坂は町中に堀が巡らされ、物資の運搬には川舟が用いられる。他にも、交通手段や川舟遊びなど。舟宿は、人々の行き交う要衝に置かれた。家茂の入港を待つ隊士たちは、京屋を拠点に銘々、大坂での正月休みを過ごしていた。
近藤は大坂分隊の様子を見に、屯所である萬福寺へ出向いた。同行は、原田と永倉、斎藤。その後、花街へ足を伸ばした。総司は藤堂と初詣に行き、尾形と武田は大坂湾の視察に行った。島田はというと、ひとりで食い倒れの町を堪能していた。身の丈、六尺の巨漢は、よく食べた。
一方で、歳三は敬助と共に留守居当番だった。
「あー、俺も新地行きてぇ」
虫籠窓から往来を見下ろしながら、歳三がぼやく。大坂の新地──花街には、馴染みの太夫がいるのだ。
「どうして副長ふたりが、そろって留守居なんだよ。どっちかひとりで十分だろ」
「じゃあ、君が居てくれたまえ。僕は新地に行かせてもらうから」
敬助がひとりで将棋を指しながら笑った。ふたりの副長がそろって残っているのは、何か問題が起きたとき、ひとりが宿に残り、もうひとりが対応に当たるためだ。しかし、平和な正月だった。
昼過ぎに総司と藤堂が戻った。総司が財布を落としたようで、引き上げて来たらしい。
「落としたっていうか、たぶん、俺、スられたと思うんだけどね。橋でおっさんとぶつかったじゃない。あのとき」
「やっぱりそうかなぁ。悪い人には見えなかったけど」
「悪人がみんな、悪人面しているわけじゃないだろ?」
藤堂は敬助と対局を始めた。総司は階下に行ったと思えば、「十六武蔵」を借りてきて、歳三に相手をせがむ。
「ね、懐かしいでしょう? やりましょうよ」
「子どもの遊びだろ。俺、もうやり方忘れたよ」
「じゃあ、『武蔵』は僕がやります。大抵、『侍』が勝つんですから」
十六武蔵は正月に遊ばれる盤上遊戯だ。親の駒は「武蔵」のひとつのみ、子の駒は「侍」の十六個で、縦横斜めに引かれた盤上の交点に駒を並べ、「侍」の間に「武蔵」が入れば、両の駒を「武蔵」が取れる。宮本武蔵ほどの剣客なら、ひとりでふたりの侍を討ち取れるのだ。
「正月に『武蔵』をするなんて、新撰組にとっては縁起物ですよー」
総司は盤に駒を並べた。歳三も往来見物を切り上げて、総司に付き合った。
やり進める内に、歳三も攻め方を思い出してきた。たしかに、これは駒をたくさん持っている分、手数が多くなる「侍」が有利だ。「侍」が指し間違いをしない限り、「武蔵」はどんどん追い詰められていく。歳三の駒が六つ取られた状態で、千日手になった。「武蔵」があと「侍」をふたつ取れば、つまり、あと一回、「武蔵」が「侍」の間に入ることができれば、総司の勝ちになる。
寝転んで、両手で頬杖をついた総司が歳三を見上げる。
「土方さぁん」
「なんだ」
「千日手」
「だけど、これで引いたら……」
「引いてくださいよ。良いですか? 千日手っていうのは、手数が多い方に解消の責務があるんですよ?」
「武田さん風なしゃべり方だな」
人差し指をピンと立てて詰め寄る総司に対して、歳三は笑った。
「はいはい、わかったよ。これで良いだろ?」
「さすがです」
歳三が攻める手を緩めて、駒を下げた。
将棋の対局を終えた敬助と藤堂が観客となり、総司が藤堂に尋ねる。
「どっちが勝ったの?」
「山南先生に決まってるでしょ」
「この盤はどっちが勝つと思う?」
「そりゃ、土方さんだ」
総司の「武蔵」は「侍」に囲い込まれ、追い詰められていた。
「何、総司くん。ここからが肝心だよ。土方くんといえど、なんの指し間違いもせずに終われはしないさ。そこを狙って、噛み付くんだ」
「がぅ!」
敬助の励ましに総司が鳴き声を上げて応えた。試衛館にいたころの和やかな雰囲気が戻っていた。
「──あれ?」
藤堂が顔を上げる。階下での人の荒い声に気付いたのだ。すぐに階段を登る足音が聞こえた。
出動かと敬助が立ち上がるが、「俺が行くったら」と歳三も立ち上がる。
「僕が行くよ、君は総司くんとの決着をだね」
「帰ってからいくらでもできるだろ?」
お互いに正月を籠って過ごすことに飽きていたのだ。
「先生、先生!」
京屋の主人、忠兵衛が襖を開ける。
「すぐそこの
岩木枡屋は京屋にほど近い大店の呉服屋だ。裕福な商人を狙った献金の恐喝は、京都のみならず、大坂でも頻発していた。そのため、新撰組の大坂支部が萬福寺にも置かれているのだ。
相手は何人かと歳三が聞いた。
「五人です」
歳三は振り返り全員を見て、支度しろと告げた。
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