十五、面影

 千歳は泣きはらした疲れで、まどろんでいた。頭は敬助の膝に乗せられて、敬助の手が髪を梳いた。細い声で尋ねる。

「……人は死んだらどうなるんでしょう?」

「根の国、浄土、天界……いろんなところへ行くと言う人がいる。幽冥界に留まるとも言われているし」

「結局は、わからないんですね」

「わからないね」

「もし選べるなら、どこに行きたいですか?」

「僕は……うーん、幽冥界かなぁ」

「一番、この世に近いですね」

「そうだね、みんなのことを見守りたいよ」

「……お母さまも、幽冥界にいてくださるでしょうか?」

「きっとそうだ。よく祈りなさい」

 千歳がまぶたを閉じた。やがて、千歳の身体から力が抜けて、呼吸が定まった。その寝顔には涙の筋がひとつあり、こぼれ損ねた粒はまつ毛の間に留まっていた。敬助は自らの袖で千歳の涙を拭った。


 帰営した歳三は、賄い方が夕食を用意する土間の上がりを抜けて、南廊下へ出た。廊下の奥、開けられた障子戸から、敬助の文机の傍で眠る千歳が見えた。座布団を枕にして、敬助の羽織を掛けられて眠っている。

 部屋の手前で足を留めた歳三に、敬助が気付いて声をかける。手には文があった。

「おかえりなさい。お義兄にいさんから文だ」

「ああ、ありがとう」

 歳三は受け取って、机の前に座った。

「休むべきはあんたの方じゃねぇのかい? どうして、こんなところで寝かしてるよ」

「……母さまを思って泣いていた。だから、慰めた。膝に寝かせてね。それで寝てくれたんなら、安心してくれたって証だよ」

「あんた随分──」

同情な人・・・・?」

 敬助が鋭く言い放った。その言葉にはいつもの柔らかさはない。灰がかった目が歳三を見つめた。

「僕の咳を、泣きそうになりながら心配してくれた。人が死んだらどこに行くか、泣いて尋ねてきた。今日はたまたま、僕の前で涙を見せただけで、いつも一人で不安と戦っているんだと思ったよ。憐れむのが普通だと思う」

「別に、それが悪いとは言っていないさ」

 歳三が目を逸らすが、敬助は続ける。

「僕は、この役目……この子の父の役目は、君が担うべきだと思っているけど……君がしないって言うんなら、僕がするよ。どうなんだい?」

「どう、と言われても」

「愛せそうにないんなら、手を引いてくれ。もう、これ以上、この子が傷付けられるのは、見ていられない」

 歳三は浮かび来る様々な反論を飲み込んだ。言い訳に過ぎない。この娘を愛せない自分が大人気なくて、悪いのだ。

「歳三くん。この子が求めているのは、君自身じゃない。父さまとしての君だ。なんだい? この子に、自分は後見だって言ったろう。……かわいそうだよ。しっかりして見えるけど、まだ子どもなんだから。──起きて、さぁ」

 敬助が千歳の肩に手を置き、軽く叩く。歳三は羽織を脱いで座り、千歳を覗き込む敬助の微笑みを、端目で見ていた。

「もうお夕飯だよ」

「あ……うーん」

「まだ眠いかい?」

 千歳が目をこすりながら身体を起こし、首を振る。その声はいつもより高く、甘えたような響きをしている。

「……お饅頭食べてました」

「夢で? 食いしん坊さんだね」

「大きくて、甘いほうじ茶みたいな皮で……中が金時豆の餡で……」

 柔らかな横顔で話す。そんな顔もできるのか。自分の前では、今にも泣き出しそうな目でばかりいるのに。歳三のため息がこぼれると、その存在に気付いた千歳は、すぐに真顔に戻った。

「……戻ります。すみません、失礼しました」

 いつもと同じ、少し低い声を残して、千歳は去った。歳三は敬助の厳しい視線を感じながら、文を開いた。

 顔は似ているが、しかし、雰囲気は全く異なると思っていた。それが、今の千歳は、しゃべり方も仕草も、笑った目許も、宙を見つめて話す表情も、まるで志都と同じだった。

 歳三は忘れろと自分に言い聞かせるように、姉婿である佐藤彦五郎からの文を読んだ。

 多摩一帯を治める韮山の代官によって画策されていた農兵隊が、近々正式に発足となり、彦五郎も加盟するらしい。その身分がどうなるかは未定という。

 義兄も歳三も、志士として国に尽くすことを共に望んできた。義兄は日野宿の名主故に、上洛は果たせなかったが、金銭面で支援をしてくれていた。歳三は西の京都で、義兄は故郷の多摩で、志士となる。感慨深く文を読み進めた。近況報告と、激励がつづられていたが、文の結びに至って、歳三の手が震えた。


『──少し尋ねるけれど、先日、府中の浄土寺より和尚が訪ねて来て、お前の娘を預かっていたが、いなくなったとの話を聞かされた。本郷にあった明練堂道場のシヅという女に心当たりはないか? そのシヅの娘が、お前のところへ行っていないだろうか。十四歳くらいの。実は土方の家にも、以前、明練堂の女将を名乗る女が──』


 歳三は文を伏せて机に残し、羽織を着ると、表へ出た。夕焼けが嵐山の縁を黒々と見せる。大きく息をして、八木邸の前を通り過ぎ、壬生寺の方へ歩いた。

 子どもたちの声が響く。顔の判別も難しい薄闇の境内で、子どもたちの間に目立つ長身がある。総司だった。足を留めて眺めていると、気付かれて、手を振られる。

「あ、土方さーん!」

「──あ、土方はんや。こんばんはー」

 勇之助が駆け寄って来た。

「どうも、こんばんは。元気だな」

 頭を撫でれば、勇之助は手の下で飛び跳ねる。総司も寄って来て、大きな木独楽きごまを見せた。

「特訓中です、正月に向けて」

「気が早いことだな」

「総司はんなぁ、独楽回し、ほんに上手うてな、コツもようけ知ったはんねん。教えてろもてん」

「そうか、良かったな。だけど、もう帰りなさい、すぐに真っ暗になるから」

「はーい」

「総司、お前も」

「子どもじゃないですよぅ」

「送ってやれって」

「はぁい」

 子どもたちは手を振り合って、門前の道を別れ行く。歳三は、子どもをかわいいと思う。素直で元気で、跳ね回る様子が愛らしい。

(もし、お前がこの中にいたら、例えば……八木さんとこの嬢ちゃんだったら、普通にかわいがれたと思う)

 なぜ千歳をかわいがれないか。自分の血縁かどうか疑わしいから、ではないと思っている。もちろん、自分に似ていたら、すぐにでも抱き寄せて、迎え入れただろう。兵馬に似ていたら──

(諦めも着いた? 違う、そういう意味じゃない。あいつが、まるで幼いお志都さんだから)

 そう。千歳があまりに、志都に似ているから。


『……酔うと必ず叩いたもん、嫌いよ、父さまなんか。私のこともいらんのよ。ほいだもんで、置いてったんよ』

 不忍池には蓮が咲き、辺り一帯に茅蜩ひぐらしの声が響いていた。池のほとりに立つ柳の木の下で、ふたりは肩を寄せて座っていた。

 志都の父親は、十二歳の志都を剣術師範の元に置いて、故郷へ戻ったという。それから、一切、便りがないのだ。志都はその美しい目に涙を浮かべていた。歳三は志都を横から抱き締めた。

『……俺だったら、絶対に置いてったりしないのに』

 こんなにかわいい娘を、なぜ父親は愛さないのか、歳三には全く理解ができなかった。

 

 そんな思い出も、すっかり忘れ去ったころ、歳三の目の前には、志都と同じ顔をした娘が、志都と同じく美しい目を涙で揺らした。


『……私のこと、知りませんでしたか?』


(ああ、知らないさ)

 知らない。まさか、自分の子なわけがない。


『歳三さん、私のこと好き?』

 志都は不安気に繰り返し尋ねた。歳三はその度に、抱き寄せて、言葉を尽くして、志都を安心させた。

 好きだった。奉公が明けたら、きっと迎えに行こうと思っていた。けれども、あの初夏の日、明練堂を訪ねた歳三が目にしたのは、廊下の端で口付けを迫る兵馬と、拒まずに受け入れる志都の姿だった。


(だいぶ……だいぶ、都合の良い話じゃないかい? お志都さん)

 歳三は壬生寺の本堂の階段に腰掛けて、志都に語りかけた。

(だって、あんた、俺の在家も奉公先も知ってたじゃないか。それなのに、一切知らせてこなかった。……兵馬塾頭を頼れたからだろう? それで、あの人が亡くなったら……俺を頼らせた)

 本郷にあった明練堂は、安政の大地震の後、移転している。その移転先を歳三は知らなかった。

 しかし、志都は歳三が日野の土方家の者であることを知っていた。現に、兵馬の死後、千歳自身と浄土寺の和尚、明練堂の女将が歳三を訪ねているのだ。

 千歳の境遇に同情はする。母と師を亡くし、身売りされかけ、父を求めて京都まで来た十三の娘だ。同情はする。だからこそ、京都に置いているし、後見人として見守るつもりと言ったのだ。それでは、足りないというのだろうか。

(あんな、猫みたいにわかりやすく警戒してくる相手を、俺は手懐けるまでしなくては、情ある人とは認められないのかい?)


『愛せそうにないんなら、手を引いてくれ』

 これは敬助の言葉。

『ウチのお嬢さんのところにはもう来るな』

 これは兵馬の言葉。

 いずれも同じだ。近付くなと言われるのだ。


『歳三さん』


 歳三の記憶の中で、白地に藍色の撫子模様の浴衣を着た志都が微笑みかける。歳三が初めて愛した娘だ。

(お志都さん……もう一度、あんたに会えたら──)

 自分は一体、何を言うのだろうか。なじる、詫びる、愛していたと言う……。

 

『……戻ります』


 千歳の低い声が耳に響いた。歳三が愛した志都はもういないのだ。何も言わずに死んでいった過去の女に語ることなどない。

 歳三は部屋に戻ると、義兄への返信を書いた。農兵隊への強い期待を記し、末尾には──


『明練堂の娘の話ですが、何かの思い違いではないでしょうか。そのような者は訪ねて来ていませんし、第一に、その娘の歳では勘定に合いません。和尚によろしくご説明ください』

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