十四、薬湯
部屋替えがあり、千歳も引っ越しを手伝うことになった。八木邸の母屋に越してきたのは原田や藤堂たち。十六歳だという年若い隊士もいた。京坂の言葉ともまた異なる、柔らかな上方言葉を話す少年だった。
「酒井くんやんな? 角屋で一度、見たことあったけんど、話すんは初めてやなぁ?」
南の主玄関に面した三畳間に越して来た少年は、
「のぅ、原田さん。近くで見ると、やっぱりかわいいですね、酒井くん。女の子に負けない」
馬越の視線を受けて、千歳は照れた風な顔を作りながら、冷や汗をかく。いくら男の格好をしても、やはり女に見えるものなのだ。
とはいえ、むしろ、馬越という少年の方が、紛れもなく大層な美男子だ。色は白く、丸い頬はその下の血潮を透かして色付いている。何より、長い睫毛に縁取られた目は、目頭が深く切れ込んで、目尻は二重の幅が少しのぞく切れ長の目だった。その一見鋭い印象の目が、笑うととてもかわいらしい。
「えっと……馬越さんこそ、僕なんかとは比べものにならないくらい、ホント、美男子だと思いますよ」
千歳の謙遜に原田が笑って、馬越の肩を抱く。
「馬越ー、普通はこう返すんだ。お前さんみたいに、『美男子じゃね』『知りよる』とは返さんもんなの」
「そないなもんですか。けんど、謙遜はあんまいらんと思うよ、酒井くん。君は十分に美しい」
「なあ。目の色が明るくて、またきれいだと思うんだよ」
「え、目の色?」
馬越にのぞき込まれた千歳はパッと手で顔を覆った。その様子に、原田がまた大きく笑う。
「見たか? 平助。お前になくなっちまった素直さがまだあるぜ、あの坊ちゃん」
原田は黙々と荷ほどきをする藤堂を、荷の荒縄で叩いてチョッカイを出す。藤堂が面倒臭そうに手で払いのけるが、原田は気にかけない。
「実はなぁ、平助も十七、八の昔はすごかったんだぞ、若衆振りが」
「え……十七、八が昔って、藤堂さん、おいくつなんですか?」
馬越が原田に尋ねた。
「お、何歳に見えるんだ?」
「十七、くらい……?」
「お前さん自身は?」
「十六です」
「聞いたか? 同年に見られているぞ、平助さんよぅ」
原田が平助の肩を叩く。藤堂が舌打ちをして、その手を払った。眉間に寄ったシワが不機嫌を物語っていた。
「俺はもう二十歳だ!」
「え!」
馬越と共に、千歳も声を挙げた。小柄で、色が白く、何より面立ちは少年らしい丸さが未だに残る。
「ほう? 酒井くん、君も俺のこと二十歳前に見てたのか?」
「え、えっと……すみません。十九歳くらいかなって。それで、副長助勤だから、すごいなって思ってました」
「ふん」
副長助勤とは、新撰組の隊士の中で実力のある者に与えられる役職だ。副長と平隊士の間にあり、現場での指揮や、稽古の師範を務める。藤堂は総司や斎藤と並んで、最年少の副長助勤だった。
「おい、平助。褒められたら素直にありがとう、だろ? すまんね、仙之介坊。平助、気難しいのさ」
「い、いえ……」
雅が部屋をのぞいた。
「あれ、皆はん、随分お済みやね。ほな、お仙さん、お茶運びましょか。お手伝いお願いします」
「はい、行きます」
土間で雅が急須を揺らす。千歳は茶托にあられを三粒ずつ乗せていった。乗せるたび、拍子木のような固く高い音が響いた。
「藤堂はん、二十歳なんね。ウチもてっきり、馬越さんと同い年くらいに見てたわ」
「年はわからないものですね」
「お仙さんも袴着けはったときは、十五、六に見えたえ?」
「大人っぽいってことですか? やったー」
千歳が笑い、右の八重歯がのぞいた。京都へ来て一月が過ぎ、千歳は笑顔を見せることが増えてきた。そのときの顔は、やはり年相応の娘らしいものである。
「そういえば、酒井くん、山南先生から『万葉集』の講義してもらってるんだって?」
藤堂にお茶を渡すと、原田のからかいに怒っていたときの不機嫌顔とはまるで違う、少年らしい笑顔が見上げてきた。千歳も隣へと腰掛ける。
「はい。教えてもらってます」
「学問は好き?」
「好きです」
「俺も好き」
藤堂が笑い、あられを口へと運ぶ。
「俺、山南先生とは北辰一刀流の同門なんだ。あの人、小野一刀流を修めたあとに来てるから、入門したのは俺のが先なんだよ」
「へぇ、山南先生が後輩ですか」
「うん。でも、試衛館──近藤先生の道場に入ったのは、俺のが後。あの人、すごいよ。天然理心流でも免許なんだもん」
「穏やかで、とてもそんな風には見えませんよね」
「酒井くんは、流派は?」
「僕も、一応、育った道場は北辰一刀流です」
「お、同門だ! なんてとこ?」
千歳は、芹沢とも同じ会話をしたと思い出し、少し寂しくなった。
「……小さいところなんで、ご存知ですかね。森下神社の裏手にあった、明練堂なんですけど」
「森下かぁ。俺、試衛館に行く前、深川の佐賀にある伊東道場にいたんだけど──」
「あ、伊東道場、知ってます。一度、先生と尋ねたことあります」
「そっか、案外近いところに住んでたんだね。それが、京都に来て会えるなんて、不思議な感じ」
笑いかけられ、千歳もうなずいた。同郷というのもおかしいが、育った土地の話は小さな安心感をもたらした。
「──あ、土方さん!」
藤堂が庭から入って来た歳三を見つけ、庭石へ飛び降りた。千歳は一瞬、身体を固まらせたが、お茶を入れに立った。
「おお、だいぶ済んでるようだな」
「ええ、問題ありません。今、一休み中です」
「そうか。──おい、左之助」
「はーい」
「総司が、褌が消えたと騒いでいたが、持って行ってないか?」
「ええ? あ、じゃあ、これ総司の? なんか多いと思った」
「思ったんなら確認しろったら……」
歳三が呆れてため息をつく。縁側に腰を下ろすと、千歳がお茶の乗せられた盆を側に置いた。
「うん、ご苦労。ついでにこれだ」
歳三が紙切れを差し出す。藤堂がのぞき込み、笑った。
「あははは、買い食い禁止っだってさ!」
「……お遣いですか?」
受け取って見ると、葛根湯と痰切り飴の続きに、一番太い文字で『買食禁止』と書かれている。
「薬箱の補充だ。ほら、代金」
千歳が両手を出して、半紙に包まれた銭を受け取った。重さからして、駄賃は含まれないぴったりの値段だ。
「山南さんが随分、甘やかしているようなんでね」
千歳は顔を赤くするが、反論できない。敬助のお遣いでは、いつも多めの駄賃をもらって、帰りにおやつを食べている。歳三には内緒だと言われていたので、気付かれていたとは知らなかった。
「何買ってんの?」
藤堂が無邪気に尋ねた。
「えー、別にそんな……飴、とか」
「痰切り飴に手ぇ出しちゃダメだぜ?」
「し、しませんよ」
「そうだな、平助。見張りを兼ねて、同行を頼む。暇だろ?」
歳三の言葉に、藤堂は気軽な様子で応じる。千歳の遠慮を示した手が宙に浮いた。
「と、藤堂さん……! その、お忙しいでしょうし、私……」
「いいよ。今日、非番だもん。片付けたら一緒に行くよ」
「平助、すまんな。非番の日に子守なんて」
「子守……」
千歳の納得のいかないつぶやきに、歳三はお茶を飲むと、
「お前は知らないだろうが、京都の治安を甘く見てはいけない」
とだけ言い残して、立ち上がった。
道中、藤堂はよくしゃべった。学問が好きと言っただけあって、千歳の質問にも答えた。敬助と同門らしい、優しい語り口だった。
薬屋に着くと、初老を過ぎた店主が出て来た。
「あれ、藤堂センセやないですか。どないしはりましたん?」
「お遣いだよ、──なんだっけ?」
「葛根湯を二束と、痰切り飴を一袋ください」
「へぇ、飴はそこにあります。──へえ、それ」
店主の指先に従って、平助は店の天井まで並ぶ薬棚の脇に置かれた平台に並ぶ飴袋を手に取った。店主は葛根湯の小包を縄で連ねて縛る。千歳は店主の手早い結び方を眺めていた。
「風邪の隊士さん、出はったん?」
「いえ、薬箱の補充だそうです」
「そうですか。なんにせよ、気ぃつけてな。こん時期の風邪は怖いさかい。長引くよなら、医者行かはるよに言うたってぇな」
「……そうですね」
志都が咳をし始めたのも、秋だった。空咳が続き、やがて痰が絡まりだし、痰に血が混ざるようになるのだ。咳が出て三年、志都は亡くなった。その葬儀の直後、兵馬も咳をし始めた。
藤堂は飴を懐に入れ、連なった薬の小包を手に提げて歩いた。持たせては申し訳ないと千歳が手を出すと、「いいってことよ」と調子良く答える。
道中、生姜湯と書かれた幟を立てた煎じ物売りに遭った。竿の片方に釜を、もう片方に椀などを入れた棚を下げて、口上を述べている。千歳は、志都と兵馬へとそれぞれ生姜湯を作って飲ませたことを思い出した。
目線が取られていることに気付いた藤堂が、千歳の頭に手を乗せる。
「買い食いはダメだぜ?」
「……食う? あれは、飲むです」
「おや、まあ」
「それに、あれは風邪をひかなくなるお薬ではありませんか?」
千歳は掌の銭を見せながら、神妙な口調で藤堂に尋ねた。店主が
「なるほど、あれは薬湯なれば、買食いにあらず。買飲みなるべし」
「ふふふ」
「いざ」
「いざ」
うなずき合ったふたりは、共に蜂蜜の香る生姜湯を飲んだ。
屯所に戻ると、藤堂は千歳を前川邸の母屋まで送り、そのまま裏門を抜けて八木邸へ戻って行った。千歳は夕食の準備で忙しい厨を抜け、縁側を進み、副長部屋の障子戸の前に腰を下ろした。
「失礼します。お遣いから戻りました」
「仙之介くんだね、お入り。ありがとう、助かったよ」
障子を開けると、敬助が襟巻きをして文机に向かっていた。受け答えの声も小さく、掠れていたことに気付く。
「……先生、お加減よろしくないのですか?」
「うん、ちょっと咳がね」
「──どんな咳ですか⁉ 喉の上の方がイガイガしませんか? 肩の下の辺りが疼いて痒く感じませんか?」
千歳が敬助に詰め寄り、その手を取った。熱はない。発汗も見られないが、少し脈が速かった。
「落ち着いて、仙之介くん。ちょっとした風邪だから」
「でも……!」
「僕、秋口にはよく風邪をひくんだよ、いつも。ちょっと痰が絡んで、寝るときになるとひどくなるの。心配してくれてありがとう」
敬助が千歳の頭を撫でて、微笑む。千歳は涙を堪えた。
「……お薬、煎じます」
厨に行き、火種と七輪の炭を分けてもらい、東庭に出た。葛根湯の包みをひとつ開け、土瓶に入れる。薬湯を煮ていると、独特の苦味のある香りが記憶を呼び覚ました。
兵馬が亡くなる前年の秋のこと。傾ききった佐藤家では、薬を買うことが難しくなってきた。ダメだとわかっていながら、千歳は薬を薄めて兵馬に渡していた。兵馬は少しずつ薄くなる薬湯の色と苦味を、当然気付いていただろうが、何も言わずに飲んでいた。
兵馬の養母である女将は、市川の名主の家から嫁いできていた。道場が困窮してからは、実家の兄が細々と送ってくれた金銭で、何とか暮らしていたが、それも多くは兵馬の療養のために消えていった。
千歳は兵馬が自分を逃すために金子を用意してあると聞かされてから、それを薬代に使おうとしたことがある。金子が仕舞われた箪笥の引き戸を開けたとき、自力で起き出せないほど弱っていたはずの兵馬は、床を這い出し、千歳を強く抱き、涙ながらに訴えた。
自分が死んだら、確実に逃げてくれ。しかし、死ぬまでは、どうか側にいてくれ。
これが、兵馬に抱き締められた最後だ。その後、千歳を抱きしめる人はいなかった。
もし、女将が兵馬の生前に千歳を女郎屋へ売ろうとしたら、千歳は従っていただろう。自分の身売り代が、兵馬の薬になると思えば。
しかし、兵馬は死ぬまで、千歳を側に置いた。女将も、兵馬が生きている間は、千歳を売ることはしなかった。女将は兵馬を愛しており、兵馬は千歳を愛していた。
赤い仔猫が、七輪の暖を求めてやって来た。足の先だけが白い、あの仔猫だ。鳴き声を上げ、千歳に擦り寄った。千歳はその頭を撫でて、つぶやく。
「ごめんね……」
温かく柔らかい手触りは心を落ち着かせると思ったが、反対に涙を誘った。
千歳は椀に薬湯を入れ、敬助に差し出した。その手は震えていた。敬助が受け取って尋ねる。
「話してごらん? どうしたんだい?」
「……心配で」
「それは、お母さまたちのこと、思い出して?」
涙目でうなずく。もし、敬助まで肺病であったらと、薬の香りが不安を掻き立てるのだった。
「お母さま、どんなお人だったの?」
「……どんな」
「優しい?」
敬助の問いにうなずく。
「若先生は?」
答えを待つように、敬助が薬湯を飲んだ。しばらく押し黙っていた千歳は、涙をこぼして、消え入りそうな声で答える。
「……抱き締めて、くれました」
敬助が椀を置いて、千歳の肩に手を置く。その顔は、憐れみに眉を寄せながらも、優しく微笑んでいた。ゆっくりと引き寄せられる力に任せて、千歳は敬助の肩に額を寄せた。敬助の腕が背中を包み、手は頭を優しく撫でた。
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