十三、手向け
十月が来て、高い秋空の下、千歳は御池通を東に向かっていた。敬助に頼まれたお遣いで、本能寺の門前にある書道具屋にて紙と墨を求める。本能寺とは、あの本能寺だ。しかし、場所は変わっていると敬助に教えられた。
紙を二束と墨を一箱とを買っても、千歳の手許には十数文の銭が残っていた。これが駄賃になる。敬助は駄賃にしても多目に渡してくれる。
そして、今日は十月一日。志都の三回忌に合わせて、知恩院へと参詣できるように、わざわざお遣いを作ってくれたのだ。
敬助は優しい。籠りがちな千歳を案じ、本を読んでいれば、必ず話しかけて、教授してくれる。
(本を読んだ分だけ、身体を動かす。動かして、学問が身につく)
ここにいるべきかどうかは、わからない。しかし、ならばどうすれば良いのかもわからないうちは、学問を修めていたい。
「身体を動かす……」
千歳は古道具屋で、木刀を大小それぞれ購入した。
帰り道、西洞院に差し掛かったところで、花売りの娘たちに行きあった。「花いらんかえ、花いらんかえ」と歌いながら、頭に花籠を乗せて歩く一団だ。野菊に、鬼灯、桔梗などがある。千歳はわずかに残った銭を花売り娘に渡し、野菊を求めた。
「おおきに、ありがとさんです」
娘が荒い紙に包んだ花を渡す。そばかすの浮いた丸い頬がかわいらしい。千歳は会釈をして受け取った。志都と兵馬、それから、芹沢と荒木田たち。それぞれに手向けるつもりだ。
左の脇で木刀を、右腕で胸に花を抱えて歩いていると、千歳は後ろから陽気な声に呼びかけられた。
「誰かと思ったら、お仙くん」
「総司さん……」
秋空の下にまぶしいあの浅葱羽織を着た総司が、六人ほどの隊士を連れてこちらに手を振っていた。
「何買ったの? 木刀? お花と木刀なんて、変わった組み合わせ。もう帰る? 僕たちも戻るところだから、一緒に行こうか」
「は、はい」
総司はよくしゃべる。千歳が返事をする前に、次々と話を展開していくのだ。千歳は総司の勢いに押されて、隊列に加わることになった。総司は実ににこやかに千歳に話しかける。芹沢暗殺の日より、千歳が総司を避けていることなど、まるでなかったかのように。
「どっちか持つよ」
「いえ……」
「まあまあ。お花貸して。もう十月かぁ。きれいな菊だね」
「あ、いや。こっち! 木刀の方」
千歳は木刀を総司に突き出した。花は芹沢にも手向けるのだ。総司に渡してはいけない気がした。
「あ、小太刀も買ったの」
「……よく教えてもらってたんです」
「へぇー、良いねぇ。あ、お仙くんも一緒に稽古しない? 手合わせした方が上手くなるよ」
千歳は困り笑いで見返す。斎藤曰く、屍になるという総司の稽古だ。いくら身体を動かす目的で木刀を求めたとはいえ、そこまでの稽古量を望んでのことではない。何より、千歳にはこの総司の明るさが受け入れられなかった。
辛い出来事もなかったことにできるのなら、辛くないのかもしれない。思い出さずにいられたら、苦しくはないだろう。けれども、忘れられないのだ。だから、苦しいのだ。
八木邸に戻り、千歳は花を三分して、それぞれに手向けた。志都の位牌に手を合わせる。
志都との思い出は、病床についてからのものが多い。小康や回復を繰り返しながら、病状は少しずつ悪化していた。いずれ事切れる命が目の前にある不安は常に千歳の胸中から消えなかった。
志都は千歳を毎日抱きしめた。起きられなくなってからは、手を握った。いつも、千歳に感謝と愛を述べて、言うのだ。
『死ぬことは怖くないのよ』
志都は不安で泣く千歳を慰めた。母を想起して浮かぶ姿は、そのときの穏やかな笑顔だった。
志都との記憶は、千歳にとって母が愛してくれた記憶でもある。辛いからと手放すことはできない。しかし、やはり、母を思うたびに、千歳は悲しくなるのだ。
千歳は冷たい床に寝転がった。目を閉じて、浄土寺の和尚が言っていた説法を思い出す。四苦八苦のひとつは、愛する者と別れる苦しみという。
「なんだっけ。えっと、……アイベツ、
愛する者と別れなくてはならない苦しみ。会いたいのに会えない、その悲しみだ。
階下で、玄関が開き、雅の対応する声が聞こえた。
「お部屋、いはりますえ」
「ありがとうございます」
その声は歳三だった。ゆっくりと階段を昇り来る音がする。千歳は飛び起きた。口から出た言葉は──
「あぁ、それから、……
つまり、会いたくない人に会わねばならない苦しみだ。
歳三への不信は、芹沢の一件で確実になったが、それ以外にもあった。歳三が千歳に会いに来ないのだ。
前川邸に行けない千歳が、歳三と面会するには、歳三が千歳を尋ねる必要がある。現に、敬助などは毎日必ず会いに来てくれるというのに、歳三が八木邸に来るのは、これで四回目だ。規則を書き連ねた半紙を持って来るとか、嶋原の宴に来るように伝えに来るとか、とにかく事務用件がなければ会いに来ない。要は、自分と会いたくないのだろうと千歳は思い至っていた。
「ご用でしたら、伺いますのに」
歳三が階段を昇りきる前に、後ろ手に障子を閉めて言った。厨子のあるこの部屋に、入らせたくはない。
階段の途中に止まる歳三は、必然と見下ろされた。身を翻して階段を降りながら、背を向けたまま言う。
「こちらに用があったんだ」
豊かな黒髪の束が揺れた。千歳も階段を降り、歳三に続いて玄関脇の四畳半の間に入った。
「座りなさい」
狭いゆえに近い。畳一枚を挟んで、向かい合った。千歳の拳は、既に固く握られている。その緊張が自分に帰するものであることは、歳三も自覚している。芹沢暗殺の夜の一件も、先日の小刀の一件も、今となってはその対応に反省しているのだ。
小さく息を吐いてから、
「最近、本を読んでいるんだって?」
と優しく尋ねた。はい、とだけ千歳が答える。目線はふたりの間の畳に落としていた。
「そうか。勉強をするのは良いことだ」
「……はい」
「……母さまの命日が今日と聞いて、線香を上げに来た」
歳三は懐から線香の木箱を出す。藤色の組紐で封をされた桐箱だ。見覚えのある形に、千歳が眉をひそめる。自ら買い求めたわけではないのだ。ここに来たのも、敬助にせっつかれてのことだろう。
「……山南先生は」
「え? あぁ、山南先生は……?」
「……良い人です」
「そうだな。うん、優しい」
「副長は……」
「俺かい?」
千歳はうなずく。目を上げて、歳三を見た。青白い顔は涼やかで、表情は読めない。息を吸い込み、一気に言う。
「副長は、誰としてお線香を上げるんですか? 私の……なんですか?」
「お前の後見だ」
歳三が眉ひとつ動かさず答えた。父親ではなく、後見。あくまで千歳を子と認めるつもりはないらしい。わかってはいたが、改めてそれを言葉にされ、千歳の首筋からは冷たい痺れが全身に広がった。
着物の裾を握り込み、目に溜まる涙を隠すように俯く。
「……私のこと、知りませんでしたか?」
「知らなかったよ。お前が生まれるより前に、あの道場には行かなくなってたんだ」
意にも介さない風で、歳三が答えた。千歳の息が詰まった。
(なかったことにできるなら……違う、なかったことにしておきたいんだ。余計な……湧いて出た『お荷物』のことなんか)
歳三の人生に存在していなかったはずの自分。けれども、それは勝手に生まれ出たわけではないはずだ。自分を生み出した存在の片割れかもしれない人物が、自分を一切認めようとしない。
「私の存在をちょっとでも、考えたりはしなかったんですか?」
「お前、俺を父さまだったらって……」
歳三の手が千歳の方へ延ばされた。その瞬間に、千歳の身体はわずかに跳ね上がり、涙を湛えた目が鋭く歳三を睨む。歳三は手を引くと、ため息をついて姿勢を崩した。
「……お前、やっぱり、俺を父さまと思っちゃいねぇだろう? 兵馬先生を父さまと思っていた方が、よっぽど気持ちの収まりが良いんじゃねぇのか?」
だからこそ、歳三は自分を後見と言ったのだ。お前の父として、線香を上げさせてくれだなどと言ったら、その瞬間に千歳は泣き出すだろうから。
「どっちが良い。選びなさい、俺と兵馬先生と、どちらが父さまか」
「……もういいです」
諦念の声が聞こえた。そんなに自分に父親であってほしいのか? 全くそんな素振りも見せずして。抑えていた苛立ちが、声に出る。
「お前だって、俺みたいなのが父さまだなんて、望まないじゃないか」
「……私は知りたかっただけで」
「じゃあ、俺は真実なんざ与えてやれねぇよ。それで? お前、まだここにはいるつもりなんだろう? だったら、ここに置くことになった以上は、俺はお前を兵馬先生からの預かり子だと思って扱う。それでいいかい?」
滔々としゃべる歳三に、千歳は完全に黙ってしまった。
「嫌ならそう言え」
千歳は首を振る。早くこの席から逃げ出せれば、もう、何でも良かった。
「そうかい。じゃあ、そうする。格好も、しばらくはそのままでいい。……十五歳までだ。それまでは、ここにいろ。十五になったら、どうするかは自分で考えるんだ、いいな」
千歳はうなずきもしないが、歳三はそれを肯定と見做す。
「じゃあ、お前の父さま母さまに挨拶させてもらうよ」
立ち上がりかけた歳三を制するように、千歳が息を飲む。顔を上げた勢いで、目から涙が一筋こぼれた。
「ダメか?」
「違……ダメ……そんな」
千歳は言葉にならない声を発した。一瞬、何かを言いた気に息を吸い込んだが、身を震わせると、勢いよく立ち上がり、背を向けて土間へ駆け降りた。
「あ、おい――!」
歳三は唖然として、前庭を走り去る千歳に呼びかけるも、追いはしなかった。
裸足のまま、千歳は綾小路を西に駆けた。刈田に人影は見えない。田の端には刈り取られた稲が一列に掛け干しされていて、別の田では、隅に稲わらの山が四つ、積み上げられていた。千歳はその山の間に身を隠して泣いた。
後見、預かり子、十五歳まで。
そんな言葉が頭の中を駆け巡る。歳三は自らを決して父とは認めない。
(──違う! 認めてほしかったんじゃない、だから、悲しいんじゃない!)
父親であってほしいと思っていたわけではない。そうでありながら、何故にこれほどにも泣いているのか、千歳にもわからなかった。ただ、父親がいないことが、今ほど悲しく空しいことはなかった。
(父さまがいない……父さまがいない! 父さまが、私には終ぞ与えられなかった!)
「父さまがいない……」
自分を生み出したことを認めてくれる人がいない。自分を愛してくれる人がいない。
寂しい。抱き締めてくれる人がいなくて、寂しいのだ。十三歳にもなって恥ずかしい。しかし、親はいくつになっても恋しいものだと芹沢は言ったのだ。
「……幽冥界」
千歳はつぶやいた。
死者の魂は、現世たる顕界のすぐ側にあって──
『そことは、祈ることでつながれる。お前ぇさんが寂しくて泣いたときにゃ、魂はきっとお前ぇさんの許に来てくれる』
目には見えなくても、志都は近くにいてくれるのだ。千歳は芹沢に教えられた本の一節を口にする。
「
泣くな。千歳は自分に言い聞かせた。
『ほれ、お前ぇの母ちゃんが見えるよ、兵馬もいらぁ。愛されてるなぁ、仙之介』
常に祈れば、志都も兵馬も、側にいてくれるのだ。それ以上、求めることはない。父など求めてはいけない。
「骨肉は朽ちて土となれども、其の霊は永く在りて、かく幽冥より現人の所為をよく見聞居るをや」
背中を預けた稲わらの山は、秋の陽だまりと千歳の体温に優しく温められ、千歳を包んだ。千歳は久しぶりに抱擁された心地を味わった。
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