十二、血脈
千歳の許には、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史が揃った。千歳は兵馬から漢籍を教え込まれていたので、千年も昔の文書であろうと、その意を共有できる。『日本後紀』以降は、ここ京都にて、事件が起こり、解決を図り、記録されてきたことに思いを馳せると、その度に千歳の胸は踊るのだった。
他にも、芹沢は国学に熱心だったようで、
国学研究の聖典とも言うべき『古事記』は、四十四巻に渡る本居宣長の『
『古事記』を学ぶ意義は、「道」を知ること、日本人古来の道徳心を希求すること。その心こそが「やまとごころ」なのだ。『古事記』は『日本書紀』などの漢文体で書かれた書物と異なり、当時用いられていた言葉を万葉仮名で表し、書かれている。まさに、儒教や仏教などが伝わる以前の日本人の心が、『古事記』にはあるのだ。
『源氏物語』の注釈本もあった。本居宣長の『
千歳は日々短くなっていく日照時間を嘆きながら、本を読みふけった。なぜ自分はここにいるのか、これから自分はどうしていくのか。真剣に読んでいると、そのような考え事をせずに過ごせる。
「やつめさす
「
「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山
──大和は、国で最も良い場所である。幾重にも重なる青い山々に囲まれた大和よ、ああ、美しい。
「『古事記伝』か」
敬助が千歳の手元をのぞき込んだ。顔を上げた千歳は、敬助の手に一尺半ほどの棒状のものを包んだ風呂敷があることに気付く。
「先生……」
「総司くんから返すようにって。無闇に抜いてはダメだよ? 大切なものなんだから」
「はい、申し訳ありません」
敬助はそれ以上の説教をせず、千歳の隣に積まれている幾冊かの本を手に取った。
「『日本書紀』に『日本後紀』……『
うーん、と千歳はまばたきをしながら考え、はい、と答えた。困ったように、小刀が包まれた風呂敷をもてあそぶ。敬助が本を挟んで、隣へと腰を下ろした。
「僕も若いころに水戸学を学んだから、ここら辺の本は懐かしいな。『馭戒慨言』、これを読むたびに、僕も代々神に守られてきた我が国を必ずや夷狄から守らねばならないと心を新たにするんだよ」
敬助の言葉に、千歳も小さくうなずいた。
「本は読むと良い。考え方の道筋を教えてくれる」
「はい」
「明日、何か食べに行こうか」
首を振る千歳に、敬助はゆったりと微笑んだ。
「外に出よう。読んだ分だけ身体を動かさないと、学問は身にならない。うどんか善哉か、どっちが良い?」
困り笑いを浮かべ、首を傾げる千歳に、敬助が笑う。
「なるほど、両方か。食欲があるのは良いことだね」
千歳がふふっと笑うと、敬助は頭を撫でた。千歳は目を閉じて、受け入れた。
「今度、万葉集を教えてあげるよ。いろんな言葉を覚えなさい。自分でも使えるように」
敬助は、千歳が自分の気持ちを言葉にすることが苦手なのだろうと思った。気を遣って会話には応じてくれるが、話を展開していくことは少ない。
言葉を覚えられたら、湧き続ける種々の気持ちに名前が付く。そうすれば、気持ちを自覚できるし、いずれ、人に伝えられるようにもなるだろう。
翌日。秋晴れの下、敬助と千歳は東山へ向かって歩いた。敬助は渋い緑の紋付羽織に無地の袴を身に付けている。これから、黒谷金戒光明寺に陣を置く、会津藩の公用人へと面会の予定があった。
敬助は背の低い痩せ型な体型だ。既に平均の成人女性よりも高い背をした千歳とは、二寸ほどしか変わらない。なで肩と柔和な顔立ちとが相まって、とても京都を闊歩する剣客集団の幹部とは見えなかった。
「もう随分秋だね」
「はい、紅葉が」
千歳が赤らみ始めた東山の一角を指した。
「あぁ。僕は秋が一番好きだな。涼しいし、景色は良いし、食べ物も美味しい」
「はい」
「仙之介くんの好きな季節は?」
「うーん」
「いつだい?」
「……晩、春?」
謎々に答えるかのような、推し量った答え方に敬助は笑う。
「えっと、藤の頃?」
「はい」
「どうして?」
「……春が好きです。でも、桜は楽しみにしていても、すぐに散ってしまうから。……良い春だったなって懐かしむことができるから、晩春が一番好きです」
「なるほど。たしかに、桜はあれだけ咲くのを待たされるのに、すぐに終わってしまうもんね」
「ええ、陽気なのに、もの哀しくなります」
話せるではないかと敬助は思った。質問を明確にして、答えを待ってやれば、千歳は十分に返してくれる。
道すがら、敬助は様々千歳に尋ねた。大人びた少し低い声が、道を行くにつれて明るい色になっていった。
三条大橋を渡り、丸太町通りを東に進む。通りを少し北に上がって、黒谷の門前に着いた。敬助は千歳に南を向かせ、南東に見える伽藍を千歳の肩越しに指した。
「あれが南禅寺だ。あの山門、とても大きいから見て行くと良いよ。真南に見えるのが知恩院さんだ。知恩院さんの山門、祇園さんのすぐ北にある大きな門ね、そこで正午に会えるようにしよう」
「はい」
千歳が歯切れ良く返事をした。
「今度、遅くなるようだったら、必ず人を遣らせるから、安心してくれ」
「あ……すみません」
先日の四条大橋での一件に思い至り、千歳が敬助に頭を下げた。
「気にしないで、って僕が言う方じゃないね。まあ、とにかく、正午に。この道、すぐ川がある。そこが
「……鹿ケ谷!」
千歳が反応を見せた。『平家物語』で語られる、平家打倒の計略が巡らされた「鹿ケ谷の陰謀」の舞台だ。
「じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます、行ってきます」
千歳は一礼してから、通りの角まで駆けると、もう一度一礼して、道を曲がった。敬助はその背中を見送っていた。
正午、知恩院山門にて、敬助は無事に千歳を見つけ出した。雅よりもらったという若草色の振袖に海老茶の帯を締めた姿は、遠くからでもそれと知れた。目立つ顔立ちではないが、きれいな娘だ。女の格好をすれば、見違えるだろうと思った。
境内の茶屋でうどんを食べる。
「美味しいかい? ──良かった」
千歳の和らいだ顔に微笑み返した。歳三には夕刻まで戻って来るなと言われている。
「清水寺を見に行かないかい?」
「良いんですか?」
「僕、今日、本当は非番──お休みの日だったんだ。それをお遣いさ。せっかくだから、物見遊山だ」
敬助は道を歩きながら、ここは何年に何が起きた場所だと説明していった。千年も人が住み続けていると、至る所で事件が起きている。資料もなく次々と解説する敬助を、千歳は尊敬の眼差しで見つめた。
ふたりは産寧坂を上った。参拝客や芸妓衆が行き交う。敬助は転ばないよう気を付けろと千歳に言った。
「三年坂って言うのさ。この坂で転ぶと三年きりで死んでしまう」
「えっ」
「何、平気さ。三年ごとにここで転べば、三年間は死なないんだから」
千歳が吹き出した。
「それは、狡いと思います」
「狡くないよ。ただ、気を付けるだけは気をつけて、足下」
清水坂の途中で善哉を食べて、清水寺の舞台へ上る。千歳は高いところがあまり好きではないので、欄干には近付かずにいた。舞台の下には赤く色付いた楓が広がり、その向こうには、秋の柔らかな光を照り返す洛中の瓦の波があった。
敬助が欄干にもたれて、振り返った。千歳はそれを見るだけで、足がすくむのだが、敬助は平然たる様子で尋ねる。
「傘を差して飛び降りる娘の絵を見たことあるかい?」
「恋……叶うって」
「君は思い詰めても、飛び降りるんじゃないよ」
「わかってますよ」
少しぞんざいな答え振りを残して本堂の方へ戻る千歳の背中に、敬助は笑った。
清水坂を下る道中で、千歳は芹沢から位牌を納める厨子をもらったことを話した。位牌はふたつだが、厨子は芹沢の位牌代わりだと思っている。
「お母さま、ご命日いつ? 僕も手を合わせていいかな?」
「お願いします。十月一日なんです」
「もうすぐだね。あ……三回忌?」
「はい」
敬助が、千歳の頭に手を置いた。
「お線香屋に寄っていいかい?」
参道に面した線香屋の店中は、白檀や沈香の香りで満ちていた。敬助は桐箱に入った線香を二箱求めた。
八木邸へ戻ると、土間にいた雅が駆け寄って来た。
「あ、お仙さん。平気え?」
「はい……? 山南先生と無事戻りました」
「へぇ、そう。良かったわぁ。お夕飯運ぶし、お部屋行てて」
「──? お願いします」
雅の焦ったような口振りに疑問を抱きながら、千歳は草履を脱いだ。すぐに、奥の部屋から源之丞に呼ばれ、縁側に出される。また出たと小声で聞かされる。
「何が、です?」
「人斬り。為坊が見た。楠の坊やが斬られるところ。荒木田くんと、もう一人もやられたそうだ」
「荒木田さん……」
痩せた西国言葉の青年を思い出す。人の良い対応をしてくれた隊士だ。
「どうしてですか?」
「間者やて、長州はんの。芹沢先生、殺したモンやて……」
違う、と千歳は言いそうになり、拳を握ってうつむいた。源之丞はひとつため息をつく。
「なぁ、あんさん、ホンマにここにいて良えんか? ウチのは、居てくれはってかまわへん言うわ。そやけど、私はこないなとこ、いはらへん方が、あんさんの為や思うで」
「……考えます」
「いたい思わはるんなら、それで良え。いたない、言わはるんなら、ほんに、勤め先でも縁組でも、いっくらでん力になるえ」
雅は優しい。源之丞も現実的な目線で千歳を思ってくれる。
三畳の納戸間にひとり、夕膳を食べながら、源之丞の言葉を繰り返す。父と示されるとも認めないあの男は、京都随一の剣客集団を指図する者だ。互いに血縁があるとは思っていないし、思いたくもない。しかし、父でなければここに置いてもらう理由がない。ひとりぼっちだ。
「勤め先……縁組……」
この先は、全く予想も付かない。
敬助が副長部屋に戻ると、歳三が行灯に火を点けているところだった。
「ただいま。済んだかい?」
「ああ」
「そうか。これ、買ってきたよ」
敬助は、藤色の組紐が掛けられた線香の桐箱を差し出した。
「いらない」
歳三は背を向け、机に向かう。内通者とはいえ、自らの命で、若者数人を処断させたのだ。普通の参列者らしく線香など上げられない。
「いるよ、十月一日が三回忌らしい。肺病で苦しまれたと聞いたよ」
敬助が淡々と言う。歳三は一呼吸の戸惑いを経て、差し出された木箱を受け取った。
芹沢暗殺の夜、敬助は形式上の追っ手を洛中に放ち、八木一家を親戚宅へ避難させてから、前川邸の風呂場に向かった。歳三が、見られたとだけ言って、副長部屋に寝かせるよう敬助に頼んだのだった。
千歳は風呂場で震えていた。涙と血の跡で顔は汚れ、濡れた着物は体温を奪っていた。
歳三も敬助も武士だ。斬ると決めた以上、そこに迷いや後悔などは挟まない。けれども、それを見知られた無関係の子どもの反応にまで、その強固さを持って応じることはできなかった。今日、千歳が知恩院へ連れ出されたのも、歳三が頼んでのことだった。
歳三は、今になってひとつ、気がかりを思い浮かべる。
「肺病は親から子へ
「大丈夫。あの子は健康だよ」
「……そうか」
「荒木田くんたちの葬儀は?」
「明日、簡素に」
「花を添えてやろうか。最期くらい」
敬助の声は変わらない。いつもどおり、穏やかで優しい。
「……あなた、随分、同情な人だね」
「僕らの罪を被せたんだ。足りないくらいだと思うよ」
敬助は微笑みを浮かべたまま、目線を落とし、歳三の方を向いて座り直す。灰がかった細い目は、行灯に陰って暗い。
「僕は、あの子をここに置くことが、本当は良くないことだとわかっている。君もそうだろう?」
歳三も敬助に向かい直して座る。袖の下で線香の桐箱を握った。
「当たり前だ」
「でもね、芹沢さん、たまには良いこと言うと思ったよ。あの子に与う限りの情をかけろって。いずれどこかに行かせるとはいえ、まず君との関係を良いものにしなくては。君との関係に満足しながらここを出なくては、どこに行ってもあの子は孤独なままだと思うよ」
歳三はため息をすると、膝を立て、頬杖を突いた。他人は何とでも言える。そして、道徳を説くのだ。
承服しかねる態度の歳三へ、敬助が尋ねる。
「あの子が怖いのかね」
「怖い? ふん、まさか」
「僕は怖いよ。大切にしたいと思うほどに、側に置いてはおけない気がする。だから……君だって、自分をあの子の父親だと認めないんじゃないのかい?」
「……認めないんじゃないさ。アレは、ずっとあの女と若先生との子だと思ってたから」
「『思っていた』から?」
敬助は時折、しつこい。結論を口にするまで追求する癖がある。歳三を逃すつもりはないらしい。
「──認めないんじゃなくて、思えない……から、良くしようだなんて」
歳三は非難を覚悟で答えた。父親だと思えないから、自分との関係を良くしようだなんて思えない。
「歳三くん……血のつながりは、そんなに重要かい?」
「あんたならどうなんだ」
歳三が険しい顔で反論する。道徳はいい。道徳を知る心よりも、優先される心情があるのだ。
「昔の女の子どもがいきなり現れて、父さまと呼んでくる。五、六歳なら、かわいいと言ってやれるかもしれないが……十三の、さらに女子ときた」
一時は恨みもした女と生写しの顔をした、しかも、頑なに少年を装う娘だ。そんな歳三の訴えにも、敬助は穏やかな顔を崩さない。
「僕はあの子のことをかわいいと思っているよ。僕の所に来ていたって、かわいいと思ったろうさ」
「……今更」
「今からでも、十分に愛してやれるよ」
「そうかい。人間が出来ていらぁ」
話は終わりと言わんばかりに立ち上がり、行李から房楊枝と歯磨き粉を取り出した。敬助は歳三の背中に語る。
「君が血脈の有無にこだわっているなら、それは違う。大事なのは、お互いに信頼し合えるかどうかだ。君は、あの子に、君と向き合うよ、そう示してやらなくてはいけないんじゃないかね?」
国学者というのは、説教が好きなものらしい。正しいことを懇々と説くのは、彼らの得意だ。そこが、歳三の苦手とするところでもある。
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