二、昔日

 少年の身なりをした娘は、敬助に背を撫でられながら、問われるままに、どこか他人事のような口振りで半生を語る。

「──亡くなったのは、私が十一のときです。肺病でした」

「そう、辛かったね。お母さまを亡くしたから、浄土寺に行ったのかい?」

「いえ、その後もしばらくは道場にいました。兵馬先生も肺を患って、その看病で。道場も畳まれて、家人もいなくなって。私と先生と、女将さんの三人です。……この人が、常々……折檻してきました」

 歳三は六畳間の隅に置かれた文机に肘を突き、天板の節を睨みつけながら、志都とは似つかない、娘の低い声を聞いていた。厳しい生い立ちに、顔を見ていられなかった。

「先生……自分が死んだら、女将さんは私を……きっと良いようには、しない……からと、和尚さまと内緒でお話、付けてくれていたようで」

 兵馬が亡くなったのが、今年の正月末。父親については知らずに育ったが、兵馬の遺言書にて初めて、自身の父は、日野宿の名主を勤める佐藤家の縁者、土方歳三という男だと知った。

「それで、先月、佐藤さまの本陣屋敷まで行ったら──」

 日野宿の名主、佐藤彦五郎は歳三の姉婿にあたる。新撰組最大の後援者であり、また歳三はこの義兄の伝手で許嫁いいなずけを得ていた。十九歳になる三味線屋のひとり娘で、やがて婿入りすることになっているのだ。

「──余計なこと、言ってないだろうな!」

 拳が文机を叩いた。哀れみも葛藤も、瞬時に湧いた焦燥に消えた。

 身を強張らせた娘は、消え入りそうな声で謝罪を繰り返しながら、歳三の所在を聞いただけだと弁明した。

「すぐに帰りました、本当です……何も言っていません……。申し訳ございません、勝手な真似をいたしまして……本当に申し訳ございません」

 平伏する娘の痩せた首筋を前に、歳三の心には、急速に哀れみが戻りくる。そんな人並の良心をのぞかせる自身にも腹が立った。

「帰れ、浄土寺に。路銀はやるから」

「──土方くん。まだ、何も」

 敬助が娘の肩へ手を添え、首を振るが、歳三の感情は収まらない。浅い息でせせら笑った。

「あんた、お人好しかい? なんの証拠もないだろう。だいたい、どうして、こいつの母さまは父が誰かを隠した。どうして若塾頭は、死んでからやっと俺が父だと明かした?」

「止めないか、歳三くん」

「──他所の男の子どもだから。だけど、頼れる人もいなくなって、都合良く俺のとこに寄越した。そう考えるのが、普通だろうが」

「亡くなった人を悪く言うものではない。君こそ、証拠もないのに憶測で」

 敬助の細い目が、厳しく歳三を刺す。しばらく、睨み合いになった。稽古では何度も立ち会っており、恐れなど感じたこともない。しかし、今の歳三の心は十六歳の昔に戻り、揺り起こされた愛憎が、痺れとなって身体中を駆け巡っていた。短い息を吐くとともに、目を逸らす。

「……何も言わずに俺から離れたのは、そっちじゃねぇか。身勝手に。──勘弁してくれ」

 立ち上がり、布団を踏み越えて、奥座敷を出た。


 八木邸の長屋門の陰で、歳三は引かない額の汗を拭い続けた。脚は震えて、立っていられず、白壁に手を突く。拳が壁を叩いたところで、後ろから敬助が歩み寄った。何も言わずに歳三の隣に立つと、壁にもたれて、息をひとつ吐く。その姿勢に厳しさがないことを受けて、歳三も壁に背を預けた。

 すぐ表の通りからは、彼岸参りの人々が交わす判然としない話し声が響く。歳三は目を閉じて、肺をできるだけ大きく伸縮させることのみを考えた。敬助がいつもどおりの穏やかな声で、娘は今、雅によって粥を食べさせられていると教えた。

「それで、あの子を今晩どこに泊めようか」

「……どっか宿屋でいいだろ」

「偽手形、使わせる気かい?」

 治安の悪化を受けて、身元不詳の者は旅籠に宿泊することができないのだ。答えない歳三に、敬助は続ける。

「事実は置くとして──」

 敬助が腕を組み、思案するような声を出した。

「とにかく、今晩、あの子をどこに寝かせるかだね。君の判断だよ、君を訪ねて来たんだから」

 歳三より二歳年上なこともあるだろうが、敬助の師範然とした口振りは癖だった。今は、歳三を苛立たせる。他人事だから、冷静にいられるのだろうと。同時に、自身の未熟さを痛感させるのだ。歳三はやはり、大きく呼吸すると、気にかけていないような平坦な声で返す。

「……八木さんにお願いするしかないだろう、今晩はもう」

「うん、じゃあ、明日の晩は? ……なぁ、歳三くん。寺に返すつもりかい? また、ひとりで……血を分けた娘かもしれないのに……?」

 握り拳がどこかを叩いたりしないように、歳三は耐えた。

「──じゃあ、どうしろって言うんだい? まだ隊だって、やっと漕ぎ出したくらいだ。こんな貧乏な男所帯に置いて、褌でも洗わすってか? 十三の女の子に!」

 生い立ちを哀れとは思うが、親と逸れた犬猫を拾い育てることとは訳が違う。人として、あの娘の幸福を願いはするが、それはこれまでどおり、自分の預かり知らない遠くで完遂されてかまわないことだった。

「証拠のないことを認められはしないが、昔のよしみで金は渡す。過不足なく誠実じゃねえか。何が悪いってんだよ」

 歳三の動揺を前にしても、敬助の冷静さは崩れない。考えるような素振りを再び挟んで、口を開いた。

「君、別に父としてあの子を抱きしめてやろうとかは、思わなくて良い。ただ、大人として聞いてやるんだよ、あの子の話を」

「なんだってんだよ、大人って」

「大人は子どものために動くものさ。そうだろう? まぁ、僕は──君に、似ていないこともないと思うよ」

 敬助は言い残すと、母屋の脇玄関へと戻って行った。歳三も反論を飲み込んで、後に続いた。

 

 母を亡くした「せん」は、母の旧知であった歳三を頼り、京都まで来た。世話をかけるが、しばらくは八木邸へ置き、奉公先の手配を手助けしてはくれないか。

 歳三による依頼に、雅は何度もうなずきながら協力を申し出て、二階の納戸から、昔着ていたという赤い小振袖を出してきた。

 奥座敷の布団は、既に上げられていた。隅に文机が置かれる他は、片付けられた六畳間だ。娘はひとり、壁際に正座しており、歳三たちの入室を、深く平伏して迎えた。縮こまった肩は、震えている。

 歳三は敬助をちらと見てから、娘の正面へと座り、声ばかりは優しく言い付けた。

「女将さんが、奉公先を世話してくれることになった。あとで詳しく相談するから、まずは着替えなさい」

「お仙さん、心配しはらへんと良えんよ。ウチがきっと良えおたな、見つけてくるさかい。さ、きれいにしよかぁ? あんさん、色も白うて、べっぴんさんやねぇ」

 女物の着物一式が揃えられた浅い木箱が、仙の膝前に差し出された。歳三は、終わったら呼ぶように雅へと願うと、立ち上がった。その瞬間、袴の裾へと仙が取りすがる。

「──お許しください!」

 目には一面に恐怖が張り付き、歯の根が合わないほどに震えている。歳三は困惑に仙を振り払おうとするが、仙はなおも袴を握り込んで訴える。

「もう、絶対に父上なんて呼びませんから、ご迷惑はおかけしませんから!」

「な、何を言っているんだ──!」

 仙の手首を捻り上げ、畳へと投げ捨てる。敬助が間に割って入り、落ち着かせにかかるも、大粒の涙を流す仙の耳には何も聞こえていないようだった。

「──お願いします、なんでもします! なんでもしますから、売らないでください! 売らないでください!」

 一同、唖然として言葉も出ないなかで、仙の懇願する弱々しい声だけが繰り返された。兵馬の死後に、道場の女将が仙を良いようにはしないとは、女郎屋にでも売られかけたのだろうと察せられた。

 雅が涙しながら、仙を抱きしめた。荒い木綿地越しにも、浮いた肋骨がわかった。

 ようやく仙が落ち着きを見せたころ、雅は腕の中に仙を抱いたまま、歳三へと頭を下げた。

「他所へなん、遣れしまへんわ……。八木でお預かりします。ウチに置かしたってください」

 歳三は立ち尽くしたまま、述べるべきとわかっている文言を口にできずにいた。

 雅の為人は、大変好ましいものだと知っている。雅に任せられるのなら、京都中のどこの商家へ出すよりも安心できるだろう。けれども、八木邸に置くとは、つまり歳三の身近に置くとのことだ。

 仙を見遣れば、泣き腫らしたまぶたを重た気にまたたかせて俯いている。見るほどに、志都の面影を宿す娘だった。

 この顔の娘を一度は愛した。不安気に泣く姿すら愛しくて、きっと守ってやろうと思った。歳三への愛を誓った唇は、しかし、兵馬と口付けを交わしていた。汚らわしい。十余年の時を経て再び現れたこの娘さえ、裏切りの証に違いない。

 愛せなどしない。まして、娘として迎え入れられるわけもない。顔すら目に入れたくない。

「土方くん。ここは……八木さんに甘えさせていただこう、なぁ?」

 答えない歳三へと、敬助が赤い目を哀れみに揺らしながら、静かに首を振って言った。視線は、大人として働けと訴えかける。

 歳三とて、頭では、この娘に罪のないことを理解しているのだ。心が私怨に楔打たれ、十六歳の幼さから抜け出せずにいるだけだと。今は、二十九歳。いい大人だ。だから、行動しなくてはならないのだ。

 もう一度、仙を見た。伏せられたまつ毛に涙の玉が絡まる。にわかに、志都の死んだ事実が胸に迫った。

 茅蜩ひぐらしの鳴く夕暮れ、蓮の咲く不忍の池。丈高い蓮葉の陰に隠れて、初めて口付けした娘は、血を吐いた末に死んでしまったのだ。

 哀れみと同情が胸を占めているうちに、歳三は膝を折り、手を着いた。

「──女将さん、ご迷惑をおかけすることになります。まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」

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