三、心得
仙を残し、八木邸を出る。敬助は先に前川邸へと戻ったが、歳三は剣でも振ろうと、屋敷の前庭にある道場へ向かった。
文武堂と掲げられた道場では、十数名の隊士たちが稽古する。踏み込みの足音、打ち交わされる竹刀。身体一切の動きを、精神の下に統制し、思考の隙もなく対峙する。雑念だらけの歳三には、とても相手にならない。ため息をつき、道場の壁に背を預けた。
軒先に見える秋空は、追憶の妨げになるほどにまぶしい紺碧で、薄雲の一片もない。見えない底を見る気構えで空を見つめ、深く息を吐き続けた。
(……なるべく、関わらない。顔も見ない。だけど、かわいそうな娘だから、置いてやる。うん)
自身へと繰り返し言い聞かせた。どれほど経ったか、道場の壁から背中を離す。前庭を進み、表の通りへと踏み入れた。
「あれ、土方さーん」
呑気な呼びかけに振り返ると、道場の陰となる北庭から、稽古着に木刀を担いだ長身の青年、総司が手を振っていた。その背後には、赤毛の「少年」を従え、こちらも木刀を持っている。
「お前、何して──!」
総司には目もくれず、歳三が詰め寄れば、仙は数歩後退って、「厠に……」と答えた。
縁側へ出た突き当たりの厠が見えなかったのだろうか。なぜ母屋から出た上で剣を振っているのか。いや、正しくは、出たところをこの剣術馬鹿に捕まったのだろうが。
総司はふたりの緊張感をものともしない。
「ねぇ、土方さん。この子、土方さんを訪ねて来たんでしょう。なのに、名前も教えてくれやしなくて。あ、でも、見ててください」
総司はニヤと笑って木刀を構えると、軽く仙に打ち込んでいった。仙は、面打ちを受け止め、小手打ちをかわす。動きには、身に付いた基本がうかがえた。
「いなし方がね、ホラ、ホラ、上手でしょう? 足も出来てるから、エイッ──」
深い打ち込みに、仙は身体を開いてかわした。
「──ね、崩れないの。──良し、良いよ」
総司は構えを解くと、新しい玩具を与えられた子どもと同じ目を歳三へと向けた。
「ねぇ、土方さん。僕、この子欲しいなぁ」
「ほ、欲しいって、お前、物じゃ──」
「しばらく京都にいるなら、僕が稽古付けても良い?」
「いや! 他所の門人に変な癖、付けさせるわけには……」
「え? どこの門人さんなんです? 土方さんとは、どんな間で?」
「あ、いや……」
言い淀み、冷や汗が流れた。適切な言い訳をまだ用意できていない。
「お、俺の……」
「土方さんの?」
総司が身を乗り出して、続きを待った。
「お」
(──親父の友だちの子? いやいや、なんでそんなんが俺に会いに来る)
「い」
(──いつだったか、剣術を教えてやった子? む、無理がある)
歳三の苦しい声音を、総司はまるで気にかけない。「オイ」と聞いて、
「甥? 君、土方さんの甥っ子だったの⁉︎」
と勢いよく仙を振り返った。
「あー、言われれば、たしかに似てる! 斜めから見ると、そっくりだよ。へぇ、じゃあもう少し背は伸びそうだね、楽しみだなぁ」
頭ひとつは背の高い総司に見下ろされた仙は、助けを求めるように歳三を見るが、歳三は訂正の文言を考えることに忙しい。しかし、寸暇も与えず、総司は次の一声を発した。
「あー、先生! 勇先生!」
上下黒の道着をまとい、前川邸の裏門から出て来たのは、
「おう、総司。歳三も」
「先生、誰だと思います? 誰だと思います? この子!」
歳三の脈は既に限界まで高まっていた。近藤には自身の恋愛をいくつか明かしており、志都との話もした記憶があった。
近藤は、赤らんで顔を俯ける「仙之介」をのぞく。まじまじと見るが見覚えはなく、誰かの親類とも思い付かない。
「うーん、誰かなぁ。俺が驚いちゃうくらいかね?」
「絶対驚きますよ、絶対!」
「近藤さん!」
歳三が止めに入る。
「あなたには、また改めて紹介しようと思っていたんだが──」
「そう、なんと、この子!」
総司が勝手に言葉を引き継ぎ、近藤の前に仙を引き出す。
「なんと、土方さんの甥っ子なんですって!」
近藤が頬を引きつらせて、歳三を見遣った。歳三のモテ具合は、よくよく知っている。ついに来たかと察したのだ。名を聞き出そうとする総司を、歳三と同じく色白できれいな面立ちの少年から離させる。
「なるほど、はじめまして。私は近藤勇。土方くんの……うん、この人のだね、同志だ。はるばる京都までよく来てくれたね。また改めて」
近藤は総司へと稽古に戻るように言い付けると、歳三へ一瞥を残し、道場へ入って行った。
日暮れとなり、歳三は半紙一枚を携えて、仙を訪ねた。脇玄関の四畳半間へ呼び出し、半紙を突き付ける。
一、土方副長と呼ぶこと
一、おかみさんの言うことは一番に聞くこと
一、勝手に出歩かぬこと
一、勝手に前川邸へ立ち入らぬこと
一、自分の身の上に触れぬこと
「男所帯だ、格好はそのままでいろ。名も酒井仙之介と名乗れ。昔、俺が世話になった人の妹の息子だ。──良いか? この言い付けをひとつでも、一回でも破ったら、浄土寺に戻す。すぐだぞ。わかったな」
部屋には背の低い行燈がひとつあるきりで薄暗い。仙は恐々と半紙へ手を延ばすが、すぐさま挟まれる「返事」との一声に、慌てて平伏した。
「か、かたじけのうございます。──あの!」
用は済んだと歳三は立ち上がるが、仙に呼び止められた。
「なんだ」
「あ……えっと、山南さんが……」
「山南
「……も、申し訳──」
歳三は聞きもせずに短く息をつくと、立ったまま続きを促した。
「で、山南副長が?」
「えっと……明日、色々揃えてくださると、必要な物を。だから……その──」
仙が勝手に出歩かぬこととの条に目を落とした。
「……支払いの金は持ってるのか?」
「えっと……」
言い淀みから、帰りの路銀すら持たずに上京した事実を察し、歳三はさらにため息をつく。
「明日、副長にお渡ししておく。くれぐれも、大福なんか食ってくるんじゃないぞ。じゃあな」
再び背を向ける歳三に、ためらいと恐れがない混じる仙の声が寄せられる。
「あの……!」
「まだ、あるのか?」
歳三は振り返らない。顔を見ては、平静ではいられない。早く言えと急かせば、志都の甘い声とはまるで違う、まさに少年らしい低めの声が、遠慮がちに問いかけた。
「本当に、ここにいて良いんですか?」
「……出て行きたいんなら、いつでも出て行け」
息の飲まれた音が背中に聞こえ、歳三の心には罪悪と同情が迫り来た。慈しみのない姿勢をとるくせに、良心だけは一人前なのだ。止めどない苛立ちが湧く。この娘の存在を消してしまいたい。
「……もう良いかい?」
「あの……あの……」
涙声で引き留める仙に、歳三は大きく息を吸うと、わざとらしくもゆっくりと振り返って優しい声で尋ねた。
「はいはい、なんだね?」
「副長は……」
「俺かい?」
仙はうなずくと、絞り出すように口を開く。
「……父上さまでは、ないのですか?」
行燈に照らされた琥珀の目から涙があふれて、膝で握り締める拳の上に落ちた。
その様を沈黙のまま見下す歳三の視線は、冷ややかな鋭さを隠しもしない。背を向ける。
「自分の身の上に触れぬこと。今回は見逃してやる」
歳三は後ろ手に障子を閉めて、八木邸の脇玄関を出た。
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