四、小舟
敬助に連れられ、仙は四条大橋を渡っていた。正面には祇園社の赤い山門が見える。秋晴れの京都は、行商人、参詣人、旅人など、多くの人で賑わい、その言葉は東北のものから、九州のものまで聞こえた。
「あと、房楊枝なんかはあるかね?」
「今使ってるのがあります」
「でも、またいることになるだろう。買っておこうか」
敬助は優しい口調で話しながら、仙の背中に右手を回す。左手には、今日買った品物──着物や手拭いなどが包まれた風呂敷がある。
「すみません……荷物、持たせてしまって」
「良いんだよ。たまには買い物も楽しいものだから。あぁ、良い匂いだ。少し休んでいかないかい? ──うん? 甘いものは好まないかね?」
橋を渡りきったすぐ側には、赤い幟を立てた甘味屋がある。善哉、善哉と男の子が母親の手を引っ張っていた。中に座っているのは、若い娘とその下女など女の客が目立つ。
甘い物は好きだ。しかし──
「その、甘味なんか食べてくるなって、昨日、副長から……」
「ああ、ははは。問題ないさ。僕が食べさせるんだから。さ、座って。疲れたろう。──善哉ふたつ!」
「へぇ。おおきに」
敬助はさっさと注文を済ませると、大刀を抜き、店奥の座敷へ上がろうと進む。仙は戸惑って立ち尽くしていた。敬助が戻り来る。
「あー、申し訳ない気分にさせてしまったかな、すまない。実は、ここ。前から評判を聞いていたんだが、なかなかね、一人では入り辛くてさ」
たしかに、大の大人が──しかも、武士がひとりで来るには、目立ちすぎる。
「繁盛しているだろう。僕、甘いものがわりと好きでね。ああ、ほら来た。さぁ、お座り」
「すみません。ちょうだいいたします」
「そんなにかしこまられるとなぁ」
困り笑いをこぼして、敬助は下駄を脱いだ。
運ばれた善哉は、内側を紅く塗った黒漆の椀で、小豆汁の中に焼き餅が浮かぶ。
「おいしいかい?」
「は、はい……」
「甘いものは好きかね?」
仙が照れたようにうなずいた。この娘は十三歳にしては大人びていて、初見では十五歳くらいに見えたが、笑ってみれば、年相応の幼さがある。右にだけ目立つ八重歯が、かわいらしい。
「良かった。また来ようね」
再びうなずいた仙は、黙々と善哉を食べた。敬助はその顔立ちを見つめる。昨日は歳三をなだめるために、似ているなどと言ったが、やはり、似通う点はないように思えた。
歳三の色男振りはよく知っている。けれども、同時に用心深いところがあり、当人が昨日言ったとおり、後腐れしそうな娘には手を出さない男だとも知っている。
(君の年齢から考えると、その用心深さが育つ前にできた子なのかもしれないが……)
敬助にはこの娘が本当に歳三の子なのか、判断はつかない。それでも、この娘が京都にいるとなった以上、誰の子であろうと、穏やかに過ごしてくれたら良いと思っていた。
その後、いくつかの買い物を終えて、ふたりは再び祇園社の前の参道まで戻って来た。
敬助が尋ねると、仙はよく答えた。七歳ごろから道場の若先生に剣術を習っていたこと、漢籍はそこそこ読めること、本を読むのが好きなこと。
話しながら四条大橋に至ったところで、後ろから敬助を呼ぶ声がした。
「──山南副長。今日はお出掛けと言っていましたが、こんなとこまで」
浅黒い肌をした背の高い青年は、よく見開かれた目に、通った鼻筋、整えられた月代の髷姿など、美しい武家姿であったが、彼の羽織は、その好印象を全て打ち消すような、主張の強い浅葱色の麻羽織だった。
秋も深まるこの頃で、空にはいわし雲が浮かぶ。その青空に負けないほど、青い単衣の麻羽織だ。それだけならまだしも、袖口には山形模様が白く染め抜かれ、いかにも舞台衣装の様相を呈していた。もしかしたら、すぐそこの芝居小屋から出て来た役者なのかもしれない。
そう考察していると、青年の大きな目と目が合った。
「──あ、この子がアレですか?」
青年にアレと指されて、身を縮こまらせた仙の肩に、敬助が優しく手を添えた。
「仙之介くん、斎藤一くんだよ。新撰組の同士。総司くんと同い年かな?」
「そう、二十歳です。──初めまして、仙之介くん。江戸から来たんだってね」
斎藤が大きく笑ってみせた。仙のことは、総司から聞き及んだと言う。仙はぎこちなくも礼の姿勢をとった。
「あの……さ、酒井、仙之介と申します」
「ふふ、酒井くん。気になったかい?」
斎藤が白抜きの両袖を掴んで、愉快そうに身体を揺らした。仙の礼が、さらに深くなる。
「その、すみません……不躾に……」
「いいさ、いいさ。目立つだろ、これ。新撰組のお通りだって歩くのさ。そしたら、悪さしている連中も逃げ出していく」
「……
仙のつぶやきに、敬助が感心してうなずく。
「よく知っているね。そう、新撰組は不逞の輩がいないか、市中を見て回るのがお仕事のひとつなんだよ」
「都中をですか?」
首を傾けて敬助を見上げる仙に、斎藤が声を立てて笑った。
「はははは。いやぁ、まさか! 祇園の辺りと、まあ、人のよく集まるところだな」
親しみと好意を表した笑顔。突然に上京してきた存在であっても、この男は咎め立てはしないのだ。安堵に力が抜けると、肩に添えられた敬助の手が、より強く仙を抱いた。
「仙之介くん、斎藤くんから稽古を付けてもらうのはどうかね?」
仙が伺い見ると、斎藤は腕を頭の後ろに回して、呆れたように言う。
「怒りませんかね? 総司くん。僕が目を付けてたんだって。あの人、剣には、とにかくうるさいから」
「あ……総司さん」
「強かったろう? なんせ、隊随一の遣い手だからな。まぁ、彼の稽古で屍になったころに、拾ってやるよ」
斎藤の手が、仙の頭の上で二、三度、跳ねた。少し強張った仙の肩を、敬助は撫でながら、冗談めかした声で注意する。
「こらこら、斎藤くん。屍だなんて、怖がらせるもんじゃないよ」
「はてさて? あ、ちなみに、山南さんは人柄と学識では、これ隊随一だ。良い人に目を付けたな、仙之介くん」
「斎藤くんったら、もう……」
敬助が照れたような呆れ声を挙げようと、斎藤は飄々とした口調のままに襟を正す。
「じゃ、俺、見回り抜けて来たので。──またな、仙之介くん」
「斎藤くん。帰ったら、副長部屋に──」
突然に呼び子の笛が鳴り響いた。橋から見て南東方面。
「──宮川町だ!」
斎藤が間髪入れずに駆け出した。敬助も手にしていた荷物を全て仙に押し持たせて、
「ここにいなさい!」
と言い残し、斎藤の後を追った。
橋の上を行き交う人々が足を留めて、走り去る彼らを怪訝に見やり、次いで、取り残された仙を、これまた不思議そうな顔で見た。帯刀していないので、武家の子には見えないが、かといって下男にしても、貧相な少年姿なのだ。
集まる視線を逃れて、仙は腕からこぼれ落ちた風呂敷を拾い上げると、橋の欄干に背中を預けた。
東山を臨めば、正面に見えるのは祇園社。捕り物の声が聞こえる奥には、建仁寺。山沿いに視線を北へ移すと、知恩院があった。浄土宗の大本山であるので、浄土寺で弔われた志都と兵馬の霊もあるかもしれない。
(京都……かぁ)
仙は生まれも育ちも江戸だった。安政の大地震のころ、道場が本郷から深川の北、森下に移転しているが、十三歳の春まで江戸を離れたことはなかった。兵馬の死によって、甲州街道の府中宿にある浄土寺に住まうことになったが、そこを出て来たのが、半月前。
ここは見知らぬ町、京都。そして、自分は──
「酒井仙之介……」
(違う。君は誰だ。私は……私の名前は──)
荷物を抱き締めて、しゃがみ込む。罰だと思った。父親とも知れぬ人との再会を期待して上京した自分への。浅はかにも、芝居のような再会を期待してしまった。だから、酒井仙之介という役が生まれてたのだとしたら。
「じゃあ、やっぱり、酒井仙之介を生きなくちゃいけないんだよ……」
宮川町での捕り物は不発に終わった。斎藤は舌打ち交じりに、
「長州者が、せこせこ逃げやがって」
と髪を掻き上げながら、悪態をつく。
先月に起こった、八月十八日の政変。急進的な破約攘夷──安政の開国条約を破棄し、再び鎖港を行い、それに従わない異国船は打ち払うことを主張する長州浪士と、その後ろ盾となっていた三条実美らの公卿が、会津薩摩の同盟によって京都を追われた。今、長州は入京禁止となっている。
敬助は、浪士を目撃した隊士から、その風貌の特徴を聞き取る。長い鞘、話し言葉。拾い聞いた会話は、誰か高官の暗殺計画──。
「やはり、あの政変からこっち、治安は悪くなる一方だ。長州者は、潜っただけ。いや、潜ったゆえに、より厄介だ」
「人間、金に困ると何をしだすかわかりませんからね。特に、長州みたいな短気な奴らは」
「ああ。僕は町会所まで報告に行くよ。それから、奉行所へも。君たちは、見回りを続けてくれ」
「あ、赤とんぼや!」
四条大橋では、様々な人々が行き交う。父親に肩車される子どもが仙の頭上に蜻蛉を見つけ、指差した。その後ろには、幼い娘が母親に手を引かれて歩く。
仙は膝を抱えて目を閉じ、志都に頭を撫でられる自分、兵馬に抱き上げられていたころの自分を思い出した。懐から小振りな位牌をふたつ取り出す。志都のものと、兵馬のものだ。
橋を渡る下駄の音、捉えきれない人々の声を聞いていると、もしかして、このまま自分が小さくなっていっても、挙句に消えてしまっても、誰も気付かないのではと思えてきた。
「気付かれないのなら、母さま、先生……迎えに来てくださっても良いんですよ」
西の空はほのかに赤い。仙は鴨川の東岸、宮川の辺りを見る。
「先生……遅いなぁ」
このまま迎えが来なかったなら、どうしようか。そんなことを考えていた。目の下にはいくつもの舟が、俵や木箱を積んで行き交っている。
仙は舟が好きだった。舟に乗って、海に行くのも良いかもしれない。
(そのまま、
海の彼方にあると聞かされた、観音の住む霊山だ。信心深いわけではないが、今の仙には少なからぬ魅力に思えた。
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