五、夢路

 東奉行所で事態を報告した敬助は、帰り際、奉行である永井尚志ながいなおゆきに声をかけられた。初老を過ぎたこの奉行は、人は良く開明なのだが、話が長い。隊による巡察の効果から始まり、長州の動向や異国の動静など様々話され、奉行所を出るときには既に、日は嵯峨野に隠れ始めていた。

 東町奉行所は、東と名がついても、洛中の西に位置する二条城の側にある。ここから壬生の屯所へは、ほぼ真南に十町ほど下ればよい。そのため、敬助は一旦、壬生の屯所まで戻った。

「山南さん。随分とかかったな」

 居室に戻ると、歳三は袴を脱いで書き物をしていた。仙が帰っているか尋ねると、知らないと返される。

「だって、あなたと一緒に──」

「うん。しかし、斎藤くんたちと会ったとき捕り物になって、そのまま。待ってろと言ったから、もしかして……」

 再び出かけようとする敬助を制して、歳三は袴を手に取った。


 京都のすぐ西は山地になっている。歳三の故郷である多摩とは違い、ゆっくりと落ちていく夕日を見ることはできない。歳三の足下には既に影がなかった。

 京都の町割りは単純だ。敬助があの娘と別れたという四条大橋からなら、壬生村まで、ゆっくり歩いても半時。ひたすら西へ行くだけだ。その気になれば、ひとりで帰って来られるし、道中で迷子になる方が難しい。

 苛立ちが脚を速めさせた。四条大橋は花街の側にあるため、日が暮れても人通りはあるだろうが、酔客に絡まれないとも限らない。また、長州浪士たちが潜伏し、隠れて会合する昨今だ。

(……馬鹿なんじゃないのか)

 和尚にも内緒でひとり上京して来たかと思えば、待ってろと言われれば二刻近くも待ってる。全く理解ができない。

 琥珀の目。赤い髪。痩せた身体──


『けんど……ダメよ。大先生がほう言わったもん』

『あなたがほう言うなら、ほいで良いわ』


 夕涼みに誘った日、大先生が行くなと言うからと断られた。些細なことで喧嘩をした日、別れるかと尋ねたら、そう返された。

(女なんて、そんなものか。言われたとおり、大人しく。それでいて──)

 不意を突いたように反乱を起こすのだ。


『兵馬さん』


 志都が兵馬を呼ぶ声は、いつも軽やかだった。

(あんた……兵馬塾頭を好きだったろ? 俺ぁ、知ってるよ。知ってて、奪った……つもりでいた。けど、本当は……本当は)


『ウチのお嬢さんのところには、もう来るな』


 柴垣の中で幼いあの娘を抱き上げる兵馬と、微笑む志都を思い出す。

「……お前のお父さまは、兵馬塾頭なんじゃねぇのかい、お仙坊」

 あれほど愛おしげに育てられる娘を、どうして自分の子だなんて思えるだろうか。

 四条大橋が見えてきた。空は赤から藍色に変わった。気温が下がり、身震いする。


『……父上さまでは、ないのですか?」』


 幸福そうな両親の許で育て上げられたはずのあの娘は、とても幸福とは見えなかった。表情は固く、顔色も優れない。志都の面影をよく宿すが、志都の持っていた柔らかな雰囲気や愛嬌などはなかった。


『歳三さん。ふふ、三歳さん』


 志都はそう言って、よく歳三をからかい、笑った。そのいたずらな顔が好きだった。たしか、志都も十三のころ、あの道場の女中として引き取られたと言っていた。生い立ちは厳しいものであったが、常に明るい、魅力にあふれた娘だったことを覚えている。

 四条大橋を行き交う人々の間を縫って、面影を探す。渡り終わる手前、右手にうずくまる人影が見えた。近寄れば、あの娘が膝を抱えて寝ていた。

 鴨川の上を秋風が吹き抜ける。汗が冷やされ、歳三は再び身震いした。しゃがみ込み、娘の顔を眺める。声をかける勇気が、まだ出なかった。仙のまつ毛には、こぼれきらない涙の滴が留まっていた。

(お志都さん。兵馬塾頭も。どうして、あんたらこの子をひとり残して逝ってしまったんだい? この子が待つのは、どう考えたって、俺じゃねぇだろう)

 一度も会ったことのない、父かどうかも怪しい男ではない。愛し、育ててくれた母と師匠とを求めて、この娘は泣いているのだ。

 けれども、と歳三は息を吐いた。

 それは、もう仕方のないことだ。どこか、自分の預かり知らぬところで幸せになってほしいとは思ったが、この娘は、今は京都に暮らすことになった。

 この娘が帰る場所として、八木邸を思い浮かべることは難しいかもしれないが、今となっては、仙之介と名乗るこの娘は八木邸で生きていく他ない。自分のいる場所が本当の場所に思えない居心地の悪さは、歳三もよく理解している。それでも、この子は京都まで来てしまった。来ることを選んだ。ならば──

(お前は、帰って来ていい)

 手を伸ばし、赤毛に触れる。歳三に比べてずっと毛量の少ない娘の前髪は、夕暮れの風に冷やされていた。まだ、起きない。

「帰って来い」

 歳三は初めて、純然たる慈しみをもってこの娘を見られた気がした。


『君に似ていないことはないと思う』

『斜めから見ると、そっくりだよ』


「どこがでぃ。こんな、母親そっくりの娘が」

 街中でありながら、無防備に寝るその顔は、十六歳の歳三がよく見知ったものであった。愛しさを覚える。それがこの娘へと向かっていないことは、自覚していた。けれども、今はそれで許してほしい。慈しみに偽りはない。

 震えが指先にまで至り、手を引く。すると、撫でられたことで呼び覚まされたのか、仙がゆっくりと目を開けた。

「……兵馬先生?」

 夢うつつ、仙の目の前には、確かに愛しい師匠がいたはずだった。頭を撫でて、優しく声をかけてくれていた。しかし、返された声色も、自分を見つめる目線の厳しさも、仙には全く馴染みのない男のものだった。

「いつまで寝てんだ、起きろ」

「えっ! うわっ、ヒジカ──痛っ!」

 驚いた拍子に飛び上がると、欄干に頭が直撃した。よろけた足で、傍に置いた荷物につまずき、仙はそのまま盛大な音を響かせて橋に倒れ込んだ。


 祇園祭の長刀鉾で有名な長刀鉾町を西へ行く。歳三の足取りは、後ろを歩く娘の歩幅を考慮したものではなく、仙は小走りに後に着いた。

 買った品物の包みはほとんど歳三が持っている。仙は古着屋で購入した浴衣の紙包みを持つだけだった。

「あの、本当に……やっぱり、自分で持てますから……あの……」

「ああもう、俺が持つって言ってんだから、任せておきゃ良いんだよ」

「でも……すみません」

「全く……」

 三度目の申し出に、歳三は荒々しく答えた。会話がないまま、西洞院の堀を渡った。

 十三歳と言えば、舞妓の年齢だと歳三は考えを巡らす。舞妓たちは何を話題にしているか。まだ、色気より食い気の年齢だ。甘いもの──そう、甘いものだ。

「善哉、食べたんだって?」

「え! いや、その」

 仙はまごまごとして、肯定を見せない。

「山南さんが一緒に食べたと言ってたよ」

「……す、すみません」

「そうか。後で礼を言っておく」

「え……?」

「なんだ」

「その……怒らないんですか?」

「なんで怒るんだよ?」

「だって……大福なんか、食べてくるなって」

「あれは……まあ、深い意味はない」

 気が抜けたのか、仙の歩みが遅くなり、歳三との間が空いた。振り返る。

「……おい」

「はいっ」

「もう少しだな、速く歩けねぇのかい? 真っ暗になっちまうだろ。それとも、荷物が重いのかい?」

「す、すいません」

「……ああもう、いいよ。そっちも貸せ」

 数歩詰め寄り、仙の手にある紙包みを取る。細い腕だった。旅で痩せたのか、それとも、十分に食事をとれずにいたのか。顔色の悪さも食にあるはずだ。

「……好きな食べ物は?」

「好きな……?」

「何かあるだろ。何が好きなんだ?」

「……桜餅、です」

「そうか。じゃあ、しばらく待たないといけないな」

 今はまだ秋。町家の軒先に置かれた桔梗の鉢植えからは、鈴虫の鳴き声が聞こえている。堀川に至ると、山の端に見えていた夕焼けの赤も、見えなくなっていた。

「甘いものは好きか?」

「ええ……」

「そうか」

 ならば、京都は良い場所だ。種々の菓子屋がある。茶道の半生菓子から、手頃な豆菓子まで。

 志都とは満開の桜の下で花見団子を食べたことを思い出す。

(そのあとから避けられ始めて、あの試合は四月……?)

 思わず計算する。

「……春生まれか?」

「え?」

「いや、いい」

 敬助に諌められたことを思い出す。大人は子どものために動くものだ、誰の子であろうと関係ない。そう思い定めた歳三だったが、娘の答えは、予想と合致していた。

「……早い方の生まれだそうですけど」

 冷や汗が流れる。ため息をついて、少し歩みを緩めた。

「……お前、名前はなんてんだ? 仙之介じゃなくて、母さまに呼ばれてた方」

「……あ、えっと」

「……それが、仙なのか?」

「いえ、違います……」

「じゃあ、なんだ」

「話しても、追い出されませんか?」


 一、自分の身の上に触れぬこと


 律儀な性格であることがわかる。言い付けを守る娘だ。

「しないよ」

「……とせ、です」

 か細い声が聞こえ、歳三は振り返る。

「うん?」

「千歳です」

 薄闇の中で、懐かしい顔が歳三を見ていた。

「そうか。俺ぁ、歳三っていうんだ。歳が三つで歳三だ」

 歳が三つ。逆さまにして、三歳。志都は三歳さんと呼んで、歳三を子ども扱いした。


 夜。歳三は八木邸の千歳を訪れ、土間を上がった階段の間で新しい半紙を渡した。

「追加だ。破るなよ」

 千歳がうなずいて、受け取った。


 一、土方副長と呼ぶこと

 一、おかみさんの言うことは一番に聞くこと

 一、勝手に出歩かぬこと

 一、勝手に前川邸へ立ち入らぬこと

 一、自分の身の上に触れぬこと

 一、日暮れ前に帰ること


 本当は新撰組になど置きたくはない。けれども、歳三もこの寂し気な娘を追い出せるほどの鬼にはなりきれなかった。

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