六、酔人

 志都は、赤毛を気にしていた。髪に合わせたように、目も明るかった。明練堂の広い敷地の草むしりや畑作りは志都の仕事であったため、肌は日に焼けていた。赤らんだ肌に明るい目がよく映えた。

 三、四歳ほど年上の彼女は、存命ならば、三十二、三歳のはずだ。けれども、歳三の夢に出てきた彼女は、出会ったころと変わらない。島田を高く結い上げて、甘えたような声を出す。


『三歳さん、三歳さん』


 乾燥にあかぎれた小さな手が、歳三の両頬を包む。


『三歳さん。あの子、千歳というの。呼んでやっとくれんさい』


 志都のお国言葉だ。「しておくれなさい」を「しとくれんさい」と言う。父が何某家かの江戸屋敷に勤めていたのを浪人したと話していたが、どこであったか、思い出せない。

 どこであったか、考えるうちに意識が夢より浮上してきて、「三歳さん」との呼びかけを最後に、歳三の目は見慣れた天井を捉えた。

 雨が降っているらしい。しめやかな雨音に混じって、瀬戸物の触れ合う軽やかな澄んだ音が、土間から聞こえた。

 顔を洗おうと、行李から手拭いを出すと、敬助が目覚め、今日は早いのだなと話しかけた。いつもは、敬助の方が先に目覚めるのだ。

 副長同士、相部屋である。六畳間に四、五人詰め込まれる平隊士に比べたら、八畳間をふたりで使えることは、十分な待遇だった。南には庭もある。局長である近藤は北隣の八畳間を使っていた。


 千歳の寝所は八木邸母屋の二階だった。納戸として使われる三畳間の箪笥の間で布団を敷いていた。虫籠窓の側に文机と位牌の壇を置き、傍には燭台を立てた。窓から東を見れば、八木邸の門と、その向こうに前川邸の屋根が見える。

 千歳は窓明かりのなか、普段は見ることもない鏡に見入っていた。

 似ているか。いいや、ちっとも。そう考えながら、歳三の顔を思い浮かべる。

 千歳と志都は、そっくりだった。赤毛も、明るい目も、眉の形も、輪郭も。鼻だけは違って、志都は真っ直ぐに通った鼻筋をしていたが、千歳の鼻は眉根から緩く曲線を描き、上を向いている。けれども、この鼻が歳三と似ているわけではない。敢えて歳三との共通点を上げるとしたら、色の白さだが、色白な人くらい、いくらでもいる。

(兵馬先生も、色白かったもん)

 ため息をつく。階段を昇る足音が聞こえ、鏡を箱に戻した。

 雅が声をかけ、障子を開けた。

「お仙さん、おはようさん。朝はどないしょ? うちの人らと一緒でも良えけど、お部屋、持って来よか?」

 千歳が答えを選びかねていると、雅は優しく笑って、

「持って来た方が良さそやね」

と立ち上がった。

「あ……私、自分で運びます」

「ほんま? ほな、お手伝いしてもらいましょ」

 階段を降りて、すぐ右手の奥の間では、八木家の当主である源之丞と、ふたりの息子が既に食べ始めていた。軽く会釈をして、土間に降りる。

 息子のうち、兄の方は十四歳くらいで、雅によく似た優しい目尻をしている。弟の方はまだ寺子屋に通っていないくらいだろう。源之丞譲りの凛々しい眉を寄せ、箸で煮豆を捉えようと躍起になっていた。

(親子はどこかしら似通ったとこがある。私は……?)

 膳を揺らさないよう握り締め、軋む階段を昇った。


 麩と蕪菜のすまし汁を飲みながら、千歳は京都に来てからずっと消えなかったある疑念を考え出した。

 志都は千歳の父に関して、一切を語っていない。歳三の名を初めて耳にしたのは、明練堂から逃げ出した千歳を連れ戻さんと、女将が浄土寺まで追って来たときだ。

 女郎屋の男衆を携えて浄土寺へ乗り込んできた女将は、千歳は兵馬の子であり、兵馬亡きあと、その身の振りを決めるのは、兵馬の養母である自分だと息巻いて、和尚に千歳の引き渡しを求めた。

 怯える千歳を背中に隠した和尚は、熊手を振りかざしながら低くうなったのだ。


『この子は、石田村の歳三なる男の娘で、兵馬殿の子にあらず!』


 証拠を求める女将に和尚が突き付けた遺言書には、確かに兵馬の筆跡で、千歳の父が歳三であることが記されていた。その後、千歳は父に会いに行きたいと何度も訴えたが、和尚は認めなかった。


『迎えに来んかった父親なん、忘れんやれ』


 桜の散るころだった。あれから、半年。京都の秋雨は止まなかった。軒先の樋に落ちては音を響かせる雨垂れを、千歳は窓にもたれて眺めた。

「仙之介はん。──仙之介はん!」

 為三郎が開け放した入り口に立っていた。

「あ……僕?」

 気付くのが遅れたのは、考え事のせいだけではない。「仙之介」と呼びかけられることに、耳が慣れていないのだ。

「ごめん、なあに?」

「母ちゃんが呼んだはる」

「わかった」

 千歳が立ち上がると、為三郎は傍に避け、道を開ける。興味が抑えられないという顔で千歳を見ていた。

「仙之介はん、土方はんの甥っ子やてほんま?」

「ううん。甥っ子なんかじゃない」

 俯き加減に答えると、為三郎は、

「ふぅん、そうなん? 総司はんが言うたはったで?」

と重ねて聞く。背は既に平均的な大人くらいはあるだろうが、そのひょろっとした身体とは対照的に顔立ちは幼い。

 千歳は総司による甥っ子説にはそれ以上触れず、雅の居所を尋ねた。

「北の縁で針したはるわ。なあ、いくつなん?」

 為三郎は、階段を降りる千歳のすぐ後ろを着いて来る。

「十三」

「同い年や!」

「背、高いね」

 一段上の為三郎を見上げて言うと、サッと背を向けて縁へ向かった。軽い後ろ髪が揺れる。

「妙な人や……」

 為三郎は南の主玄関へ出て、上がり框を文机に、文字らしきものを書き付ける勇之助を構いに行った。


 縁側では、若草色の振袖を肩揚げしながら、雅が待っていた。

「ああ、お仙さん。おおきに。座らはって」

「はい」

「あら、良えんよ。そない固くならはって、足も崩さはり?」

「失礼します」

 正座から腰を浮かし、横座りに崩すと、雅が微笑んだ。

「昨日は大変やってんね。ずっと、祇園さんの下で待ってはったんやろ?」

「ええ」

「副長はんが迎えに行かはったんやて?」

「はい」

「ほんに、無事で良かったわぁ」

 雅は続けて、こちらの料理の味には慣れたか、布団の寝心地は悪くないか、先日の台風によって屋根が痛んだために雨漏りしやすいが問題ないか、細々と尋ねる。千歳は雅のことを、芝居に出てくるお母上さまのように優しい人だと思った。

「あんな、無理に話してくれはらへんとええんやけどな」

 雅が手許の針に視線を落として言った。千歳は少し身体を固くする。

「……なんでしょう」

「京都に来はったんは、どうしてなん?」

「理由……ですか?」

「へぇ」

 千歳は口を引き結んで答えない。答えたくないのではなく、何と言えば良いのかがわからないのだ。雅が質問を変える。

「副長はん、あんさんの父さまなん?」

 千歳は首を左右に振るが、それが否定ではなく、不明の意であることは、雅に伝わった。

「……ああ、もう。嫌やわぁ、ウチったら。妙なこと言うたなぁ。忘れたってや」

 雅が明るい声色を出し、振袖を裏返した。玉結びをして、糸の余りを切る。小気味好い鋏の音がした。

「さっ。丈合わせできたえ。為に思うてとっておいたんが役立ったわぁ。あん子、あっちゅう間に大きゅうなって」

「でも……」

「ええんよ。勇坊が大きゅうなるまで、まだあるし。着たったらへんと、着物も埃、吸うてまうばかりやさかい」

 雅は千歳を立たせて、振袖を羽織らせた。袖丈も着丈も、ぴったりの長さだった。「良えなぁ」と言われて、千歳は赤らんだ。褒められることには慣れていない。

「──あの、えっと……何かお仕事……ありますか?」

 千歳が羽織った振袖の襟を握り締めて尋ねた。その意図が、着物をもらったお礼であることは、雅にも察せられた。

「お仙さん、ありがとさん。そやけど、ええんよ?」

「家事ならやってきました。お手伝いできたら……」

「ほんに? 偉い子やなぁ。しっかりしたはるわ。ほな、どないしよ。あ、お掃除、できはる?」

 千歳がうなずくと、雅は揃えた手を頬に寝かせて千歳を褒める。上の息子なら、尻を叩いてようやくお遣いに出るというのに。

「流石やわぁ。ほんなら、この廊下、お願いしたってもよろしい? 雪隠から、芹沢せりざわ先生のお部屋の前まで」


 乾拭きをしていく廊下は、雨で湿気を含み、雑巾の滑りを悪くした。雪隠、風呂場の前を終わらせ、庭に沿って直角に曲がった廊下を行く。芹沢局長の部屋だ。

 局長といえば、近藤勇とは一昨日会った。芹沢は、その近藤よりもさらに上、筆頭局長の位置にある新選組の総領だという。

 障子は開け放たれていた。千歳は雑巾を片手に、部屋をのぞく。酷く乱雑だった。敷いたままの布団の周りには、あちらこちらに開いた本が伏せて置かれているし、文机には書状やら名刺やらが山になっていて、硯箱の蓋は閉まりきらずに浮いている。

 その荷物の山の向こう、右手の床の間に、漢詩が書かれた掛軸があった。部屋に踏み入らないよう、上体だけを傾けて読み取る。


──────────


両人対酌山花開

一杯一杯復一杯

我酔欲眠卿且去

明朝有意抱琴来


──────────


「両人、対酌すれば、山花さんか開く。一杯、一杯、た一杯。ふふふ。『いっぱい、いっぱい、またいっぱい』」

 その響きの良さに、千歳は音を繰り返した。初めて読む詩だが、李白だろうなと思った。楽しそうに酒を飲む絶句は、李白と相場が決まっている。

「我、酔う……酔ひて──」

「なんだ、お前ぇ」

「ひゃっ!」

 飛び上がって振り返ると、恰幅の良い大男が顎を突き上げて、千歳を見下ろしていた。芹沢だとわかった。

 芹沢は、固まる千歳の左手に雑巾が握り込まれているのを見て、掃除かと言うと部屋に入る。厳つい赤ら顔で、脱いだ羽織を投げて寄越した。

「掛けとけ」

 西側の壁に立つ衣桁が指差された。失礼しますと足の踏み場を探りながら、千歳は部屋を進む。その顔を芹沢に唸りながらのぞき込まれ、思わず引っ込めた足が本の山を崩した。

「す、すみません!」

「お前ぇ……」

 しかめっ面が近付く。千歳はこれから落ちるであろう芹沢の雷に怯え、既に震えていた。しかし、次の瞬間。意外にも芹沢は大きく笑ったのだった。

「お前ぇか!」

「え、え?」

「江戸から土方に会いに来たって言う坊主は。おうおう、遠くからよく来たな」

 荒々しくも千歳の肩を叩き、芹沢は部屋を出て行った。手には鉄扇を持ち、拍子を取りながら歌う小唄が妙に上手かった。

 唖然とした千歳は、芹沢が視界から消えたときに思わず言葉がこぼれた。

「お……お酒くしゃい」

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