七、御霊

 新撰組隊士の多くは前川邸に宿営している。歳三が「勝手に前川邸へ立ち入らぬこと」と定めたのもそのためだ。ならば、八木邸に住まうのは誰かというと、八木源之丞一家とその家人、千歳、それから、芹沢の仲間だ。

 八木家に来て三日目。千歳は初めて芹沢と顔を合わせた。芹沢は他の志士と交わり、そのまま外泊することが多く、どうやら帰営することは少ないらしい。けれども、ただ今の芹沢の様子から思うに──

「絶対、絶対飲み歩いてるわ!」

「仕事終わりに引っ掛けて何が悪いべ」

 いつの間にか戻って来た芹沢が、障子の縁に腕をもたせかけて言った。再び固まる千歳を横目に、瓢箪の口を開ける。

「文の類いには触るなよ」

「はいっ。申し訳ありません!」

 千歳は布団を畳むと、行李が積み上げられた部屋の隅に寄せた。行李からは、着物などの布があふれているが、それは千歳の手に負える範囲ではない。

 芹沢は縁側にあぐらをかき、瓢箪を傾けながら千歳を見ている。

「んで、坊主。名前は?」

「さ、酒井仙之介といいます!」

 千歳は直立して芹沢に向かい合う。

「おう、仙之介か」

「芹沢先生、ですよね……?」

「『壬生浪士組筆頭局長』を忘れちゃいけねぇよ。それと、志士ってのはなぁ、飲み歩いたりはしねぇもんさ、仙之介。何でかわかるかい? 仲間が欲しくて、それを求めるのは順序が違ぇんだよ。前川邸のやつら、いっつもベタベタして、そうだろぅ? 志士ってのはなぁ、孤独ーなもんよぅ。決してなぁ、自ら交わりにはいかねぇもんさ。そんでも、本当に有能な奴ならなぁ、こっち来て話お聞かせくださいって、必ずお呼びがかかるんでぃ。だから、俺ぁ、行くんだよ。今日も嶋原さぁー。あーあ。忙しいったりゃ、あーりゃしねぇよ」

 かったるくしゃべりきると、芹沢は縁側に寝転がった。呆気に取られる千歳を芹沢が見上げる。

「なんだ。働けよ? 仙之介!」

「は、はい!」

「……そんで、お前さん。なんで会いに来たよ、土方に」

 雨空を見上げて尋ねる芹沢の質問に、千歳は拾い上げた本を持つ手が震えるのを感じた。

「俺の部屋、掃除に来るってこたぁ、しばらくはここにいるつもりだろ?」

「……はい。しばらくは」

「ふうん。そんで、剣術やってたんだって?」

「はい」

「どこの道場だ」

 芹沢はあくまで淡々と会話を続けてくる。

「……あの。あんまり、自分のことは話すなと」

「土方かい? 気にすんな、詮索したりしねえよ。話のタネだ」

 千歳から何かを聞こうとしてるのではなく、ただ話をしたいだけらしい。千歳は戸惑いながらも、話しだした。

「……小さなとこです。若先生が病気してから、畳んでしまったんですが……明練堂といいます」

「明練堂……? 確かぁ、本郷にあったかい?」

 芹沢が身体を起こして聞いた。千歳が思わず一歩を踏み出して、知っているのかと尋ねると、腕を組んで思案し始める。

「俺ぁ、安政のころ神田にいたんだが、うん、明練堂。大先生が人の良い男で、その跡取り息子が──」

「兵馬先生!」

「ああ、佐藤兵馬と言っていたな。一度だけ立ち会ったが、腕の立つ良い若者だった」

 千歳は胸が熱くなるのを感じた。縁も所縁もない京都に来て、自分を知る者はおろか、親しむ人を知る者さえいないと思っていた。それが、自分の師匠と剣を交え、その腕を称する者がいるとは。

「地震があってからは、俺も里に帰ったんで、それっきりだが。そうか、畳んでしまったか。惜しいなぁ。それで、具合はどうなんだい?」

 その言葉に、千歳は静かに泣き出した。

「お、お? どうした、いきなり」

 芹沢が近寄り、屈んで千歳を伺うが、千歳は首を振って泣き続ける。

 安政の大地震のとき、箪笥の下敷きになった五歳の千歳を助けてくれたのが、兵馬だった。その地震で、移転先である森下の新道場が焼失した。大先生も転んで腰を痛め、師範を引退した。門下生の多くが去り、出稽古先も減った。

 地震以来、明練堂の暮らし向きは急に悪くなってしまった。そんな中でも、優しかった大先生。志都、兵馬。彼らは、もうこの世にはいない。

「どうしたえ、恋しくなったのか。仕方ねぇ奴だなあ。え? ひとりで街道を上ってきた勢いはどこに行っちまったよ」

 穏やかな声で慰める芹沢に、千歳は懐から小振りな位牌をふたつ取り出して見せた。和尚が作ってくれた位牌だ。芹沢が膝を着き、千歳の両肩に手を置いて言う。

「……そうかぁ、孝行なもんだ。ちゃんと連れて来たのか」

 芹沢の大きな硬い手が頭を撫でた。千歳はその手の下で返事もできず、泣き続ける。

「こっちが、母ちゃんかい? 仙之介、偉いぞ。父ちゃんと母ちゃん、一緒に来たんだなぁ」

「父さまじゃ……」

「うん?」

「父さまじゃないんです……父さまじゃないから、道場にもいられなくて……父さまじゃ、ない……!」

 千歳の絞り出した訴えに、芹沢は目を見開いた。

「……するってぇと、まさかお前ぇ、土方の──」

「……わかりません」

「全く、土方もひでぇ奴だなぁ! 父親かもしれねぇと訪ねて来たお前ぇを八木の女将さんに預けて、自分は外回りにかまけるたぁ。俺から言ってやろうかい?」

 千歳の肩に置かれた芹沢の手に力が入るが、千歳は大きく首を横に振った。

「良いんです! 今は……あまり、今は知りたくない」

「知りたくねぇたぁ……」

「父さまじゃなかったら、私、私は……」

 縁も所縁もない土地で、誰ともつながらない者となってしまう。そう口に出せるほどの言葉を、千歳は持ち合わせていなかった。

 それでも、気持ちは痛いほど芹沢に伝わった。

「……偉いなぁ、仙之介。ずっと寂しかったろう、よく頑張ったよ」

 芹沢の手が髪を撫でるごとに、千歳は自分の身体が小さくなっていくような感覚を味わっていた。

 そうだ、自分は寂しかった。母が亡くなり、師範が亡くなり、断片しか得られなかった父の姿を求めて、中仙道を歩いた。その相手も、自分を我が子とは認めない。

 ここ数年間、ずっと押し堪えてきた分の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちてきて、千歳は立っていられなかった。畳に伏して泣く千歳の背中を、芹沢は優しく撫でた。

「親ってのは勝手なもんさ。勝手に産み落として、先に死んじまう。そして、いくつになっても、恋しいものよ。俺だって、今でも母ちゃんに会いてぇよ。泣くこたぁ、なぁんにも恥ずかしいことじゃあるめぇ」

 この大男の年は、三十路も半ばのころだろう。太い眉に鋭い目をした新撰組筆頭局長が、母に会いたいと言った。ならば、まだ子どもでしかない自分が泣き崩れても、今は許されるような気がするのだ。

 しばらくして、芹沢は本の山からある一冊を引き抜いた。露草色の表紙には『霊能真柱たまのみはしら』との題字がある。

「仙之介、平田篤胤ひらたあつたね先生は知ってるか?」

「国学者の……」

「ああ。その平田先生が『幽冥界ゆうめいかい』ってことを言っているんだが、わかるか?」

「ユウメイ……?」

「幽冥界たぁ、死んだ魂があるところよ。すぐ近くにあって、そことは、祈ることでつながれる。お前ぇさんが寂しくて泣いたときにゃ、魂はきっとお前ぇさんの許に来てくれる」

 芹沢は開いた本を指差しながら言った。優しく微笑まれた顔は、酔った浪人のものではなく、立派な師匠のものだった。

 千歳が大きくうなずくと、芹沢は千歳の頭の上に手をかざした。

「目ぇ閉じて、祈ってみろ」

 千歳は言われた通り、目を閉じて深く呼吸を繰り返しながら、志都と兵馬を思い浮かべた。涙の中で、芹沢の優しい声が響く。

「ああ、お前ぇの母ちゃんが見えるよ、兵馬もいらぁ。愛されてるなぁ、仙之介」


 申の刻になって、雅は土間を上がり、二階へと昇った。芹沢に慰められたあと、千歳は部屋に籠もったきり静かなままなのだ。呼びかけ、障子を開く。

「お仙さん。お夕飯作り、手伝うてくれはる?」

「はい」

 窓脇の文机に向かって読書していた千歳が振り返り、返事をした。紙切れを挟んで栞として本を閉じ、文机の上に置くと立ち上がる。

「なんや、少ぅし元気にならはったように見えるわ」

 その言葉に、千歳は歯を見せて微笑んだ。右にだけ八重歯が目立った。

 部屋で夕飯を食べていると、芹沢が来て観音開きの厨子をくれた。位牌がふたつ並ぶ大きさだ。少し埃を被った漆塗りの厨子は、文机の右端に置くことにした。

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