八、美しさ

 夕食後、饅頭をひとつ持って訪ねて来た敬助は、千歳が『たま真柱みはしら』を首を傾げながら読んでいるのを見て、簡単な解説をしてくれた。

 天皇が治める現世は顕界けんかいといい、そのすぐ側には大国主命おおくにぬしのみことが治める死後の世界──幽冥界がある。

 魂が顕界にあるうちは、肉体を伴い天皇に仕える。死後、肉体は土に還り、魂のみとなって幽冥界へ行き、大国主命に仕える。死後の世界でも仕えるべき相手がいて、守られているため、死ぬことは怖くないのだ。

 魂がどこに行くかを知って、死への恐怖がなくなれば、倭人が生来持つ「大倭心やまとごころ」が定まる。そうして、自然なる倭人としての心のあり方、「真道まことのみち」を知るための学問に専念することができる。真道とはすなわち勤王の道だ、と敬助は言った。

 千歳には思想がわからない。ひとまず、死は悲しいものではなく、魂のある世界が変わるだけであること、死後も今の自分が生きている世界──顕界の様子を見守ることができること、そのため、親しんだ人の側にいてくれることと理解した。

 その夜は、良く寝付けた。明けても秋雨は降り続いていた。夜着一枚では明け方は肌寒い。

 千歳は雅より昨日もらった若草色の細い縞模様の振袖を着て、芹沢よりもらった漆塗りの小さな厨子の観音扉を開いた。志都と兵馬の位牌が並ぶ。

「お母さま、兵馬先生、おはようございます」

 手を合わせ祈った。

 芹沢の父は神社に勤め、彼自身も白袴をはいたことがあるそうだ。芹沢の目には昨日、もしかすると本当に志都たちの御霊が見えていたのかもしれない。そう考えると、千歳はより強く祈ろうと思うのだった。


 襷を掛け、乾拭きをする。二階の廊下、階段。表玄関の式台を拭いていると、雅に声をかけられた。

「おおきに、お仙さん。働きモンやなぁ。ちょっと休まはり。土方はん、訪ねて来てはるし」

「副長が……?」

「縁においやすえ」

 奥の間を抜けると、歳三が縁に腰を下ろして、庭に落ちる雨を眺めていた。千歳はその背中を見つめる。

 死して後も魂が側にいてくれるのは嬉しい。けれども、側にいてくれるのならば、それは、生きていて目に見える存在であってほしいと思う。

(──土方歳三。私の父さま……?)

 初日には、自分の存在が歳三を驚かせてしまっただろうが、これから、少しずつでもわかり合えたら良い。四条大橋から共に帰ったときの歳三は、優しさを向けていてくれた気がした。

「お待たせいたしました、すみません」

 襷を外し、歳三から少し離れて縁に座る。歳三が下駄を脱いで、千歳と向き合った。

「お手伝いしてたのか?」

「はい、お掃除していました……」

「そうか、良いことだ」

 千歳はうつむきながら、小さく首を振った。歳三は重ねて二、三の質問をして、本題に入った。夕方から嶋原で宴を行うので千歳も来るようにとのことだ。

「えっと、嶋原……?」

「あー、この近くにある花街 かがいだ」

「カガイ、ですか」

 歳三は言葉に迷った。売らないでくれと泣いて懇願した娘だ。建前上、嶋原は芸を売る妓──太夫や天神などと呼ばれる芸妓が在籍する街だが、時代の流れの中で、身体を売り物にする女郎を置く店も増えてきている。そのようなところに連れて行かれるのは気分が良くないだろう。

「そうだな、まあ、料亭の町だ。総司を迎えに来させるから、一緒に来なさい」

「……行っても良いのですか?」

「皆に軽く挨拶だけするんだ。そうしたら、別室に膳を用意させているから食べて、そこに泊まりなさい。良いな」

 どうやら、新撰組の皆が集まるらしい。そこに自分が行って挨拶させられるとなったら、つまり、歳三は自分を我が子とはまだ認められなくとも、ここに置くことは承知してくれたということではないか。千歳は安堵をにじませて、うなずいた。

 歳三は再び外を眺めた。朝より雨足が強まっている。

「どうも天気は良くならなさそうだし、俺も山南さんもいつまで席に残るかわからないから、明けたら自分で帰って来なさい」

「はい」

「じゃあ」

 歳三が立ち上がり、白い傘をさして庭に出た。

「……あ!」

 千歳が思い出したように声を上げた。歳三が振り返る。

「なんだ?」

「あの、芹沢先生から……」

「せ、芹沢……局長から?」

 歳三の声がわずかに上ずったが、雨を弾く傘の音で千歳にまでは伝わっていない。

「はい、位牌を入れる厨子をいただきました。漆塗りのきれいなものを」

「そ、そうか。では、こちらからも礼を言っておく」

「よろしくお願いいたします」

 千歳が下げた頭を上げると、もう歳三の背中は遠くにあった。垣根に植えられた萩の花が、雨に弾かれ上下に跳ねていた。

 掃除を終えて自室に戻ると、部屋では水音が響いていた。布団の上に水たまりがある。驚いて顔を上げると、天井の梁を伝って雨が入ってきていた。先日の台風で屋根が痛み、雨漏りしやすいと雅が言っていたことを思い出した。

 雅がすぐに来てくれた。雨が止んだら大工に来てもらうということで、千歳の寝床は一階の土間を上がってすぐの間、階段の傍に変わった。襖一枚を隔てて、八木一家が寝る部屋だった。


 相変わらずに雨が降り続く昼、総司が芹沢を訪ねてやって来た。刀身の錆を防ぐ丁子油を借り受け、縁側で刀の手入れをする。手許に目を落としたまま、にこやかに尋ねた。

「お仙くんも、今日の宴、来るんだってね」

「はい、初めだけ同席します」

「そっかぁ。こっちには慣れた?」

「はい」

「僕ねぇ、お布団が慣れないんだよね、未だに。掻巻かいまきじゃないと、肩の辺りが落ち着かないというか。あと、お味噌とか、桜餅が違うのもなぁ」

 総司が駄々っ子のように不満を述べる。

「桜餅、違うんですか?」

「うん。桜色のおはぎを塩漬けの葉っぱで包んでるの」

「桜色のおはぎ……? 普通のは売ってないんですか? 上新粉の」

 江戸の桜餅は、小判型に薄焼きした生地でこしあんを包み、さらにその上から塩漬けした桜の若葉を巻き付ける。一方、上方では引き割りのもち米の中にあんを入れて蒸し上げ、桜の葉で包んだものが食されるのだ。ちょうど桜餅の季節に上京した総司曰く、諏訪あたりを最後に江戸の桜餅は見かけなくなったという。

「残念。私、好きなのに」

「ね。さ、できたできた。芹沢先生ー、ありがとうございますー」

 総司は刀身を上から下まで見渡したあと、良しと微笑んで鞘に納めた。部屋の中で書き物をしていた芹沢が縁側に出て来る。

「総司。お前ぇ、剣の者が丁子油買えねぇなんたぁ、情けねぇぞ」

「すみませんー。今度お給金入ったらとびきり良いものを補充しますー」

「どれどれ。……うん、美しいもんだ」

 芹沢は総司から刀を取り、抜いた。よく研がれた刀身には曇りひとつない。芹沢の鋭い目が一層、強く光っているように見えた。

 一通り検分すると、芹沢は縁を降りて草履を履いた総司に刀を返した。総司が受け取って、笑う。

「芹沢先生、この前、美しい者から死んでいくって言われたけど、僕、どうせ死ぬなら、美しい方が良いかなって思うんですよね」

 佩刀して、白い傘をさす。雨の中に足を踏み出して、振り返った。

「じゃあ、お仙くん、酉の刻に迎えに来るね」

 手を振って走り行く総司を見ながら、芹沢が千歳に尋ねる。

「迎え?」

「はい。嶋原まで連れて行ってくださるって。先生、今のどういう意味ですか?」

「うん?」

「美しい者から死んでいくって」

「ああ、うん」

 芹沢が総司の残していった道具で、鉄扇を手入れし始めた。興味を持った千歳がのぞき込むと、芹沢はよく見えるように半身に開いてくれた。

「人生美しく生きようと思うと、障害だらけよ。汚れなきゃなんねぇこと、目をつぶらなきゃなんねぇこと、いっぺぇあんだ。そんなことに直面すると、美しさを望む奴は死を選ぶのさ。だから、死んでいくんだ。総司はどうせ死ぬなら美しい方が良いと言うが、俺ぁ違うなぁ。泥にまみれても生き抜いた奴が美しい奴よ。自分のために死ぬ奴ぁ、俺ぁ好かんねぇ」

 お前はどうだと答えを求められて、千歳は首を左右に傾けて、回答の放棄を示した。芹沢が笑う。

「まぁ、大人の世界ってモンよ、坊主」

 千歳が考える風を見せて、こめかみに人差し指を当てた。

「美しい人生ってなんでしょうねぇ。幸せな人生とも、また違う気がするし……」

「お前ぇさんも、美しく生きてぇかい?」

「……いえ、私は。美しさが何かを知らない人間には、手を出しえないものだと思いますから」

「ほほーん。わきまえた子だねぇ」

 美しさとは、思想だ。思想のない自分には、関わりのない話だと思った。


 雨足は弱まることもなく、夕刻に至る。千歳は総司に連れられて嶋原の大門をくぐった。すぐに、きれいに着飾った禿かむろと呼ばれる童女がふたり寄って来て、どこへ行くのかと総司の袖を引いて尋ねて来た。客引きだ。

 千歳は総司の陰に隠れた。総司が角屋だと答えると、禿たちは興味を失したように、「また来たってや」と総司の袖を離した。

 千歳は嶋原が遊郭の一種であると理解した。雨音に混じって、笛や鼓の音が方々から聞こえる。赤く塗られた格子の中では、大きな蝋燭が煌々と並び、大きく襟を開けて髪飾りを豪勢につけた妓が、道行く男たちに声をかけた。

 総司は店に並ぶ妓には目もくれず、人を斬るときの刃筋の立て方について語っていた。語るというより、ほぼ独り言のようで、千歳の相槌など聞いていなかった。

 千歳の手の中に、ある感触が蘇る。骨に当たるまでは、衝撃も摩擦もなく、スッと刀は入っていくのだ。男ふたりを斬りつけた、生々しい感触だった。

 千歳は急に不安になった。歳三がここに自分を呼び出したのは、このまま千歳を嶋原に置くつもりだからではないだろうか。千歳の足が止まった。前を行く総司の背中は、すぐに人の間に見えなくなった。

 立ちすくんでいると、道の上の人々が左右に割れて、奥へと進む太夫道中に道を譲った。太夫は美しかった。露払いの禿も、太夫の傍に立つ千歳と同じくらいの少女──振袖新造の娘も、皆、美しかった。

 千歳は傘を握る自分の手を見た。洗濯や掃除であかぎれた、傷とシワの多い痩せた手である。太夫の手は帯の下に隠れて見えないが、きっと白くて柔らかだろう。

 自分を買う店があるとしたら、下等な女郎屋に決まっている。どうせ売られるのなら、何もわからない七、八歳のころに売られたかった。十三歳の、芸もない自分に与えられる仕事・・など、知れている。千歳は涙を堪え、道中見物の人を掻き分けながら、大門の方へ向かった。

 大門では、先程の禿たちが武家姿の客を新たに引き留めていた。彼女たちも、引いて来た客の数によって夕食の量が決まるのだろうかと勝手に想像し、千歳は哀れんだ。

 千歳の視線に気付いた禿の一方が、「さっきの若さんや」と言った。その声に振り向く、禿に袖を握られていた男は、敬助だった。

「仙之介くん」

 禿から離れ、千歳に近寄る。千歳は顔が隠れるように傘を下げた。

「どうしたんだい? 総司くんと一緒に来るはずでは?」

「み、道に迷ったときは……元の場所に戻るべし!」

 千歳は慌てて言い訳をして、凛々しく作った顔を上げる。しかし、不安と悲しみは隠しきれていなかった。敬助が千歳の肩を抱き寄せて歩き出す。

「夕方の雨は冷えるね。大丈夫、お座敷に行ったら、温かい御膳が待っているから」

 敬助の手は、千歳を安心させた。

 角屋に着くと、総司が玄関の土間で待っていて、逸れてしまったことを何度も謝った。

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