十、衝戟

 木陰に鈴虫が高鳴く戌の刻ごろ。千歳は八木邸に戻った。脇玄関の戸を引くと、既に夜着をまとった雅が出迎えた。

「お仙さん、今日はあちらさんに泊まらはるんと違うたん?」

「すみません、賑やかしい場所ではどうにも」

 座敷に用意された膳はいずれもおいしかった。しかし、話し相手に付けられた、歳三の馴染みである花君太夫付きの振袖新造と上手くしゃべれず、厠と言って逃げて来たのだ。

 実際、宴席の笑い声や音曲の音の中で寝られる気はしない。ひとりで帰ると言う千歳を角屋の者が心配して、下男に提灯を持たせて送ってくれた。千歳は寸志を渡すため、二階に上がる。三畳敷きの納戸部屋には雨漏りを受けるための大きな桶が置かれ、断続的な水音を響かせていた。

 千歳が懐紙に包んだ小銭を下男へ渡している間に、雅が階段の間に床を述べてくれた。しばらくすると、芹沢とその仲間がふたり、それぞれ芸妓を連れて上機嫌に帰営した。

 千歳は厠に行くため、八木一家が床を述べる奥の間を通り抜けた。勇之助が付いてくる。

「ウチも行く」

「怖いの?」

「怖ないよ。そやけどな、寝る前には行かなあかんてな、母ちゃんが言わはんねん。行きたないしな、怖ないけどな、母ちゃんのために行くねん」

 懸命に主張する勇之助がかわいい。

「だったら私、後で良いや」

「嫌やー!」

 帰ろうと見せると、袖にすがられ、思わず笑う。

 歌を歌っていろと言う勇之助のため、千歳は厠の前に座り、雨を見ながら『通りゃんせ』を歌った。すると、そんな怖い歌は止めろとわがままが入ったので、手毬唄に変えた。歌は好きだった。


「あいつが帰って来た? 嘘だろ?」

「いや、それらしい人影が見えて」

 八木邸の偵察から戻って来た敬助が歳三に告げた。芹沢たちがいつもどおり各自の部屋へ戻ったかを確認していると、女の子の歌い声が聞こえたのだ。稽古を積んだ芸妓の歌い方ではない。

 見てくると言う歳三を敬助は諌める。ここで動き回って、芹沢たちに気付かれたくはない。千歳の部屋は二階だから、問題はないはずだ。

「クソッ、なんで帰って来たんだよ、あいつは!」

 花君にはよく言ったつもりだ。新造に千歳を相手させて、寝かせろと。

 歳三は前川邸の裏門を出て、長屋門越しに八木家の母屋の様子を伺った。二階の千歳の部屋に明かりはない。北庭へ周る。手前の間では、芹沢が情婦を抱き寄せ戯れていた。奥手の間では、あぐらをいて耳掃除をする源三郎、庭に向けて置かれた文机に登る勇之助と、それを叱る雅。為三郎が風呂から出て来た。

 千歳の姿はない。歳三は十を数えて、やはり千歳の気配を察せられないことを確認し、前川邸の副長部屋へ戻った。

 

「芹沢一派は皆、帰営した。八木さん一家はここの部屋に寝ている。計画どおりいこう」

 歳三の指示に原田が口を挟む。

「さっき、角屋で聞こうと思ってた。あの仙之介坊の部屋は?」

「二階だ」

 歳三は言い切った。今夜、あの娘が斬り合いに巻き込まれて死ぬとしたら、それはあの娘の天命だ。

 総司も嶋原より戻って来て、皆で着替え始めた。濃紺の筒袖に、黒い稽古着の袴。頭は頭巾で隠す。

「盗賊みたいだな」

 総司はそうこぼすと、昼間、芹沢に借りた道具で手入れした刀を腰に差した。


 夜半。階段の間で寝ていた千歳は、物音に目覚めた。複数人の足音が響く。

「勇之助?」

 急病でも出たのだろうか、布団から出ると、「この卑怯者が!」と芹沢の地を這うような低い叫び声が聞こえた。刀を打ち合う音がする。

 もしや、賊でも入ったのではないかと、千歳は土間に降りて脇玄関のつっかえ棒を手に取り、雅たちの寝る部屋を通り抜け、縁側に出た。

 血の匂いが一気に鼻についた。奥の部屋に寝ていた妓が騒ぎに気付いて叫ぶ。千歳は思わず雪隠の方へ後ずさったが、すぐに雅たちの眠る部屋の障子を開け放った。

 眠る源之丞を起こそうと床に手を着いたとき、芹沢が障子ごと部屋に倒れ込んで来た。ふたつの影がその倒れた背中を刺す。雅や源之丞は目覚めるも驚いて身動きが取れない。勇之助の泣き声が上がった。

 刺客が芹沢の背中から刀を抜き取り、もう一度袈裟懸けに斬りつけた。血しぶきが千歳の顔にかかり、目を固く閉じたところで、芹沢の絶命間際の声が漏れ聞こえた。

 刺客が庭に降り、走り去る。血の臭いが充満し、芹沢の下敷きになっていた勇之助が這い出してきた。

 千歳は瞬時に湧き上がった怒りに立ち上がった。手にはつっかえ棒しかない。しかし、千歳の足は壊された障子を踏み越え、雨の庭を駆けた。

 雅が呼び止める叫び声が聞こえたが、足は止まらなかった。


『泥にまみれても生き抜いた奴が美しい奴よ』


 千歳は庭を抜け、綾小路に駆け出た。見渡しても刺客の影は見えない。燃えるような身体の熱が治らない。壬生寺の北、千本通の辻に走り出たとき、転んだ。つっかえ棒を握った手が泥水の中で震える。

「芹沢先生──!」

 思わず叫んだ。涙は出ない。強い怒りだけが、千歳を復讐心で支配していた。


「──え、何か?」

 四条大路に面した畑中の柳の下で、総司は急いで着物を着替えていた。血の付いた濃紺の筒袖を風呂敷に突っ込んだとき、声が聞こえた気がした。

「なんだ、早く着替えろ」

「ええ、気が立ってるみたいです。幻聴まで聞こえる」

「落ち着け、総司」

 諌める歳三も、袴の紐を結ぶのに難儀していた。

「原田さんたち、大丈夫かな」

 総司と歳三は芹沢を、敬助と原田は奥の間にいる芹沢の配下を狙ったのだ。

「人の心配してるな、傘は?」

「あ、あった」

「行くぞ」

「はい」

 小走りに壬生寺の方角へ道を下る。その辻では、ひとりの子どもがしゃがみ込んでいた。

「どうしたの? 坊や?」

 駆け寄り、肩に手を当てると、すっかり濡れている。

「え、お仙くん?」

「芹沢先生が──」

 千歳は言いかけて、総司の手が動揺で震えたことに気付いた。血の匂いとも併せて、瞬時にある仮定にたどり着く。

「まさか、土方──」

 千歳の顔は暗がりでもわかるほど、血に染まっていた。歳三は即座に千歳の襟首を掴んで立たせると、引きずるように前川邸の長屋門をくぐり抜け、庭を突っ切って歩く。千歳の足がもつれて、転んでも歳三は足を止めない。

 千歳は芹沢暗殺の刺客が歳三と総司であることを確信し、それに気付いた自分も殺されるのだと思った。先程までの怒りが恐怖に変わる。芹沢を刺したあの刀で、自分も斬られる。

 歳三は邸の東庭にある風呂場に千歳を投げ込んだ。風呂釜に背中を打つけ、うめく千歳に気遣うこともなく、扉を閉めて怒鳴る。

「だから、泊まってこいと言ったんだ! 帰って来やがって! さっさと洗え! これだから、ここに置きたくないと言ったんだ!」

 八木邸での芹沢暗殺の騒動は、前川邸にも報されていた。邸内が騒がしくなる。

「八木邸に賊が!」

「土方副長!」

「あ、山南副長! 来てください!」

「近藤局長は⁉」

「副長!」

「追手は?」

「ダメだ、もう逃げられた!」

 歳三は風呂屋の壁を力任せに蹴ると、風呂場を出て、「今行く!」と雨の中へ再び駆け出した。

 千歳はもう立ち上がるだけの力を出すことすらできなかった。芹沢と歳三はさっきまで同じ席で酒を飲んでいた。新撰組の筆頭局長と副長、仲間ではないのか。

(ここは……なんて場所だ。おかしい。どうかしている)

 吐き気が込み上げ、えずいた。角屋で口にしたものが、風呂場の床に広がる。千歳はぬるくなった湯を湯釜から何度も手ですくい、それを流した。

 食べたものは吐き出せる。しかし、身を流れる血はどうだろうか。

「違う。違う、違う! あんな鬼の血なんか流れてない! おぞましい!」

 千歳は浴衣の上から何度も肌をこすった。

 血は生み出し続けられる。どれだけ大きな怪我をしようとも、生きている限り、血はこの肌の下を流れる。その根源があの男によって与えられたものなど、断じて許されるはずがない。

「芹沢先生、先生──」

 幽冥界を教えてくれた大男の御霊は、その教えのとおり、顕界を離れ、幽冥界へ行ったのだろうか。千歳の涙は止まらなかった。

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