第五話

 この間、階段から落ちた時に右足を痛めたらしい。支えが効かなくなったので今日は松葉杖を突いて登校した。だけど今度は手と肩が痛くなった。体が痛まない日なんて、あの日を境にもうどこにもありはしない。


 本当は車椅子を使えばもっと楽なんだけど、わたしの家にそんな金銭的余裕がないことは知っている。一度車椅子についてお医者さんに提案されたこともあったけど、その時にお母さんが渋い顔をしていた。だからわたしは「大丈夫、歩けるよ」って自分の足を叩いたのだ。


 わたしが我慢すればお母さんが楽になる。何か新しいことを始めるよりはよっぽど簡単だ。


 松葉杖を突いての歩行は非常に困難だった。坂道、砂利道。それから狭い道、正面から車が来るたびに横にひょこひょこ移動する。間違えて水たまりに突っ込んだり、手が真っ赤になって休憩したりで時間をかけていたら、すっかり辺りは暗くなってしまった。足元に気を付けながら、上がった息を何度も吐ききる。


 地面が濡れて、雨かな? と思うとわたしの汗だった。


 二時間ほどかけてようやく家に辿り着くことができた。玄関の階段をあがる気力はもうなかったので、松葉杖を風除室の中に投げて四つん這いで歩いた。


「あれ?」


 お尻をついて靴を脱がしていると、見知らぬ靴が一足置いてあることに気付いた。白と赤のスニーカー。靴紐はきつく、かかとが少し擦れている。


「あ、日陰。おかえり」


 リビングに入ると、いつもと違うにおいがした。それはテーブルに置かれたダージリンと洋菓子のものだった。


 わたしを見て最初にお姉ちゃんが挨拶して、そのあと向かいにいる男の人が頭をさげる。


「はじめまして、棚橋たなはし亮介りょうすけです。妹さん? あはは、確かに似てるね。目元とか特に」

「えっと」


 喉に魚の骨でもつっかえたような異物感に二の句が継げない。


「お姉ちゃんの彼氏さんなんだって」


 おぼんを持ったお母さんがにこやかに笑う。釣られたように棚橋という名の男の人も笑い、お姉ちゃんは恥ずかしそうに服の裾をつまんでいた。


「かれし?」

「うん。日陰には言ってなかったけど、一カ月前から付き合ってるの」

「あれ? 一カ月半じゃね?」

「もう、亮介くんは細かすぎるよ。えーっと、うん。そういうわけなんだ」

「どういうわけなんだー」

「う、る、さ、い。家族に彼氏を紹介するのって勇気いるんだから」


 お姉ちゃんの肩が揺れて、談笑の声がリビングに響く。仲睦まじい、幸せそうな光景。テーブルの上に付いた電球が、三人を照らす。その中にわたしはいない。


「けどよかったわ。小春って全然そういう話しないから、ちょっと心配だったのよ」

「そうなんですか? 学校じゃ美人だってすごく有名ですよ。三カ月くらい前にも下級生から告られてましたし」

「その話はいいってばー」


 頬を膨らますお姉ちゃんは言葉とは裏腹に嬉しそうだった。


「亮介くん、唐揚げは好き?」

「めっちゃ好きです!」

「ふふっ、よかった。もうすぐ出来上がるから、今日はうちで食べていって?」

「本当ですか!? うわあ、ありがとうございます!」

「ちょっと、いきなりテンションあがりすぎだって」

「あ、す、すみません。子供みたいに」

「いいのよ。小春も亮介くんに食べていってもらいたいでしょう?」

「それは・・・・・・そうだけど」


 チラ、とお姉ちゃんが棚橋を覗き込む。目が合うと、頬を真っ赤にして目を逸らした。そんなお姉ちゃんを棚橋が追いかけて、結局お姉ちゃんの手に突っぱねられていた。そんなじゃれあいを、わたしは遠巻きに見つめていた。


 なんだ。


 なんだこれ。


「日陰も、はやくカバン置いてきなさい」

「・・・・・・・・・・・・」


 部屋までの道のりがひどく遠く感じる。疲労の溜まった足が階段を踏み外して体が一回転する。物音がすればすぐにお姉ちゃんが駆けつけてくれるはずなのに、今日ばかりは来てくれなかった。リビングから聞こえる笑い声と食器の音がそれをかき消しているのだ。


 わたしは必死に感覚のない足を持ち上げて、なんとか自分の部屋へと辿り着く。電気も点けないまま、部屋の真ん中に立ち尽くした。


 膝は揺れ、すぐに支えを放棄する。冷たい木板に頬を叩きつけ、うつ伏せに倒れ込んだままわたしは呻いた。


 なんで、お姉ちゃんに彼氏ができるんだ。


 どうしてそんな幸せそうに笑うんだ。


 別に誰がいつどうやって幸福を手にしようがわたしには関係ない。けれど、お姉ちゃんがさも当たり前のように当たり前の恋愛をして当たり前のように彼氏を家に呼び当たり前のように青春を謳歌して、ごく普通の女子高校生として楽しんでいるのが不可解で仕方がなかった。


 お姉ちゃんはいつだってわたしのそばにいてくれた。それは家族愛を超えた肉欲によって生まれる焦燥から熱を求めたに他ならない。


 お姉ちゃんはわたしのことが好きだ。性別をも超え、血縁すらも軽視し、常識的な観点から逸れた劣情をわたしに送り続けた。お姉ちゃんも大概に頭が狂っている、純一無雑な心なんて持ち合わせていない地獄の住人だということにわたしは心底安堵していた。


 微量に含まれた狂気こそが、わたしとお姉ちゃんを繋ぐ家族としての絆だったのだ。


 それなのに。


「なんでお姉ちゃん、今さら普通のフリをするの?」


 同年代の男子を好きになるなんて、まるで地上の健常者じゃないか。


 リビングに戻ると、お姉ちゃんと棚橋の距離は近づいていた。お母さんがお姉ちゃんのどういうところを好きになったのかという質問をすると、棚橋は照れながら優しいところと答えた。


 初々しいわね、とお母さんが二人を見て微笑む。


「・・・・・・日陰ちゃんだっけ? もしかして足がよくなかったりする?」


 壁によりかかりながらわたしが歩いていると、棚橋が立ち上がった。お姉ちゃんが頷くと、棚橋はわたしの腕を自分の肩に乗せて補助をした。お姉ちゃんのものよりも大きく硬い体が、わたしの低い背丈を押し上げる。


 眠っている芽を、土から掘り起こすような残忍さがあった。


「私は、こういうところ」


 お姉ちゃんは照れくさそうに、棚橋の手をとった。わたしが席に座っても、お姉ちゃんはわたしを見てはいなかった。


 ただ棚橋と見つめ合い、ちょこちょこ体を触りながら微笑んでいる。


 テーブルに置かれた唐揚げは、微塵も味はしなかった。


 無味無臭の無価値な時間が無機質に過ぎていく。


「亮介くんのそういう気遣いができるところ。私は好きだな」


 ・・・・・・へぇ。


 わたしは小皿に置かれたレモンをとって、握りしめた。黄色い汁があふれて、散って、手を伝っていく。鋭いにおいが鼻をついて、しなびた唐揚げの衣を潤していく。


 肉を噛み切ると、赤い血肉が露出した。白い身に紛れた赤いものがわたしを覗き込んでくる。


 わたしはその唐揚げを箸で刺し、穴をあけ、壊した。レモンの汁と肉汁が泡を立てて湧き出てくる。斬り裂いて、衣を剥ぐ。


「どうしたの日陰? 生焼けだった?」

「ううん、大丈夫だよお母さん」


 わたしは真っ白な部分をお母さんに見せて口に放り、皿に残った僅かな赤を慈しむように押し潰した。


早く、目の前から消えてくれ。

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