第四話
風切り羽が天を穿ち甲高い鳴き声が青に広がる。飛んでいった鳥が木に着地すると待ち伏せをしていた野良猫に捕まり、赤に染まる。
わたしは野良猫を、悪魔だなんて思わない。ともすれば、鳥は天使なんかじゃない。そこには自然で生きる動物故の行動原理があるだけで、不条理なことは何一つ起きていないからだ。
もしその場にノコギリを持った人間が現れて、鳥の頭と猫の胴体をくっつけるような真似をしたのなら、その人間はきっと悪魔だ。利己的な思考に支配された肉体は、もはや人間ではないのだから。
その光景を見て、すぐに助けに行くような人がわたしのお姉ちゃんだった。ノコギリを奪い取って、捨てる。猫も鳥も無傷で逃げて、誰も血を流すことはない。
だからお姉ちゃんは天使と呼ばれた。周りはそんなお姉ちゃんが大好きだった。
けど、わたしはお姉ちゃんを天使などと思ったことは一度もない。
お姉ちゃんは優良な人間の皮を被った悪魔だ。
お風呂場でうっかり鉢合わせた時、お姉ちゃんは顔を真っ赤にして目を逸らすが、何度もわたしの裸体を盗み見る。それは常識的な姉妹間での振舞いとは大きくかけ離れていた。
クラスの男の子でもそんな反応はしないのだから、お姉ちゃんはそれ以上にわたしを意識しているということになる。
後ろから抱き着いたり、布団の中で指を絡ませたりするとお姉ちゃんはすぐに甘い息を漏らす。利己的な行動原理。肉欲に支配された視線。お姉ちゃんがわたしを『そういう目』で見ていることは明らかだった。
「
わたしが窓の外を眺めていると、同じクラスの女の子が遠くから駆けてきた。
「藤宮さん。悪いんだけどこのプリント視聴覚室まで持って行ってくれない? 先生に頼まれちゃったんだけど私これからご飯食べなきゃいけないの」
「え? もうお昼休み終わっちゃうよ? 今から食べるの?」
「いいよね藤宮さん」
質問には答えてくれない。
「うん。いいよ、視聴覚室ね」
「本当? ありがとー助かる!」
その子は束になったプリントをわたしの腕に乗せ、一つ笑みをこぼすと遠くに走り去っていった。
わたしが今いる場所から視聴覚室へ向かうには旧校舎まで行ってそこから階段を三回も登らないといけない。プリントを落とさないようしっかり両手で抱きしめて、わたしは片足を引きずりながら視聴覚室を目指した。
左足がバランスを取ってくれない分いつもは両手で補っているのだけど、その両手は今はふさがってしまっている。歩くだけでも困難を極めた。あまり発達しきっていない筋肉が悲鳴をあげ、すでに右足のふくらはぎがパンパンに腫れあがっていた。息は荒く、何度も休憩を挟みながら階段を登った。
ようやく視聴覚室へ着くころには昼休みは終わってしまっていた。早く教室へ戻らないと。そう思って駆け足で階段を下ると、左足が吸い込まれるように空中に投げ出され、わたしは背中を打ち付けながら転げ落ちていく。壁に激突してなんとか停止するも、咳き込んでなかなか立つことができなかった。
結局授業には遅刻してしまったけど、先生には怒られなかった。さっきの子が先に説明していてくれたらしい。放課後、伝えておいてくれてありがとうと言おうと思ったのだけど、その子はすぐに部活へ行ってしまって声をかけられなかった。
わたしは部活には入っていないので、今度はしっかりと靴を履いて帰路に就く。
家のドアには鍵がかかっていた。まだ誰も帰ってきていないらしい。裏口から入り、カバンを部屋におくとわたしはお姉ちゃんの部屋に向かった。
戸を開けるとお姉ちゃんの香りがふわりと鼻先をただよう。ピンク色の布団に飛び込んで、顔を埋めた。
夕方になると先にお姉ちゃんが帰ってくる。布団に埋もれたわたしを見て、お姉ちゃんは困ったような顔をするが、その頬は若干に赤く、口元は綻んでいた。
それからわたしはお姉ちゃんとお母さんと一緒に晩御飯を食べた。鮭の塩焼きだった。
お風呂はお母さんが必ず最初に入ることになっているのでわたしとお姉ちゃんはリビングでテレビを見ながら待つことにした。
「この曲知ってる。クラスの男の子が歌ってた」
「そうなの? へー、私は初めて聞いたなぁ。でもいい曲だね。あとで買おうかな」
「買ったら一緒に聞こ。お姉ちゃん」
「うん。そうだね」
ソファに座りながら身を寄せる。また夜が楽しみになった。
そんな時、お風呂のほうから物をひっくり返したような大きな音が聞こえた。水音と足音が同時に廊下を渡り、曇りガラスに人影が映ったかと思うとバスタオルを巻いたお母さんが息を荒くしてリビングに入ってきた。
「ど、どうしたのお母さん」
あまりの血相だったので、お姉ちゃんもびっくりして目を丸くしている。
「トリートメント使ったの、誰?」
「えっ」
わたしが声を漏らすと、鋭い眼がこちらに向く。
「半分以上もなくなってた。あれ、いくらすると思っているの?」
お母さんの視線に気づいて、お姉ちゃんもわたしを見る。その顔には冷汗が伝っていた。
「やっぱり日陰なのね。いつもいつも、いつもいつもいつもお母さんに迷惑かけて! いい加減にしなさいって言った言ったかじゃない!」
呂律すら怪しい甲高い声。お母さんの顔は真っ赤で、それがお風呂の温度によるものじゃないことは一目瞭然だった。
お母さんの手には、カミソリが握られていた。銀色の刃がわたしの喉元に照準を合わせるのが分かった。
お母さんはわたしをマイナスにしようとしていた。それでプラスになればいいのだけど、わたしはその答えを知っている。
だからそうなる前にごめんなさいと口を開こうとしたのだが、
「ごめんなさいお母さん!」
それより先にお姉ちゃんがわたしの前に立ちふさがる。
「私なの! お母さんのトリートメント、使っちゃったの私なの!」
「小春が・・・・・・?」
「キャップを開けた時にひっくり返しちゃって。すぐに拾ったんだけど中身がいっぱい出ちゃって間に合わなかったの。ごめんなさいお母さ――」
言い終わる前に、鮮血がわたしの視界で散った。夏の夜空に打ちあがる花火のようだった。
赤いものが伝っていく指を押さえながら、お姉ちゃんは苦痛の表情を浮かべた。シャンプーのシトラスな香りと、鈍い鉄の香りが混じる。
「次から気を付けなさい」
「はい・・・・・・お母さん」
お姉ちゃんの謝罪を聞き届けると、お母さんは足跡をそこらじゅうに残しながら浴室へと戻っていく。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
切り口は深い。お姉ちゃんの手の甲には粘土に爪を突き立てたような溝ができていた。血は依然として止まらず、床に赤黒いものが溜まっていく。
「うん、平気だよ。日陰」
額に冷汗を浮かべたお姉ちゃんは、それでも笑顔を崩さない。
「お姉ちゃんは悪くないよ。だってトリートメント使ったのはわたしだもん。お姉ちゃんが怒られることなんてないのに」
「いいの。日陰が傷つくところを見たくないから」
「ごめんなさい・・・・・・お姉ちゃん・・・・・・」
「謝らないで、日陰。たまには妹を守ってあげられるお姉ちゃんでいさせてよ」
お姉ちゃんは優しい。人を思いやれる。自分を犠牲にしてでも誰かを守ることができる。
そこだけ切り取れば、それは本当に天使の所業なのかもしれない。
「お姉ちゃん、手出して」
お姉ちゃんに庇ってもらったことはこれが初めてじゃない。わたしがお母さんの大事なお茶碗を割っちゃった時、わたしが冷蔵庫のケーキを食べちゃった時。数えきれないほどに、お姉ちゃんはわたしを助けてくれた。そのたびにお姉ちゃんは怪我をして、青痣や切り傷を体に増やした。
だからわたしも、これははじめてじゃない。
わたしは血塗られたお姉ちゃんの傷口に舌を這わせた。傷口に侵入させるように押し付けて、隙間を埋めていく。今度は撫でるように、優しく。それから子猫のように、細かく小さく舌先でくすぐる。そうするとお姉ちゃんは恍惚な表情を浮かべ、熱い息を漏らす。時折痛そうに唇を噛むが、それでもお姉ちゃんは手を引っ込めることはしなかった。
「どう? お姉ちゃん」
「・・・・・・うん、ちょっとは痛くなくなった」
「そっか」
わたしが舌を離すと、お姉ちゃんは切なげな声をあげる。
「どうしたの? お姉ちゃん」
「なんでもないよ、日陰。ほら、口元汚れてる。拭いてあげるからこっちにおいて」
お姉ちゃんに口に付着した血を拭ってもらうと、お母さんがお風呂からあがった音が聞こえた。立ち上がるお姉ちゃんの顔色は、いつもと同じ、普通のものだった。
「あがったら部屋で待ってるから、さっきの曲聞こうね」
猫と鳥を逃がし、ノコギリの盾となり身を裂いた天使の羽は赤く濁っていた。何故ならそこに必要な善悪はなく、ただひたすらに心地よい木枯らしを感じていたいだけだからだ。寒々しいそれに混じる鉄の香りを歓びとし、天使は笑う。
それでも地上に降りれば血の染み込んだ羽を仕舞い、人のフリをした。悦楽を隠し、平和と平等を謳う。黙示録のラッパのように鳴り渡り、その音色は奈落の呻き声よりも低く蠢く。
それに気付かない地上の人間が吐き出す白い息で天使は汚れた羽を洗い、さも善良な存在であるかのように振舞った。
「あ、でもどうしようお姉ちゃん。遅くに音楽流したらお母さんに怒られちゃう」
けど、見えてる。
見えてるよ。
背中に、ほら。
「大丈夫だよ日陰。イヤホンあるから、片方ずつ付けて聞こ?」
「うんっ、そうだね。お姉ちゃん」
赤黒い、悪魔の羽が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます