第三話


「起きてるよ、お姉ちゃん」

「よかった。寒くない?」

「丁度いいくらい。へーき」


 群青色の綺麗な瞳が月光の下で映えていた。黒く長い髪は艶があり、風が吹くと一本一本が絹糸のように夜景に溶けていく。


 お姉ちゃんはわたしの隣に腰かけて、窓から見える星空を眺めた。


「靴をなくしちゃったんだって?」

「違うよ。置いてきたんだよ」

「それはどうして?」

「大事に育ててたカエルが死んじゃったから、お墓にしようって思ったの。そうすれば安らかに眠ってもらえるでしょ?」


 するとお姉ちゃんは星空から目を離す。光輝く星々よりも、それらが照らした先にある小さなものに目を向ける。道端に空き缶が落ちていれば拾っていくし、泣いている子がいればすぐに駆けつける。お姉ちゃんは昔からそういう人だった。


「お姉ちゃんも嘘だって思う?」

「思わないよ。大丈夫。日陰は優しい子だもの」


 白く細い指がわたしの髪を撫でていく。指先が何度もつっかかり、そのたびにわたしの髪がほどけていく。頭が軽くなっていくようだった。


「でもね日陰? カエルさんたちも大事だけど、それで悲しむお母さんのことも考えてあげなきゃ。せっかく買ってもらった靴なんだし。お墓は、また別のものを用意してあげようよ。もっとちゃんとしたの。カエルさんたちも日陰が怒られてたら、眠るにも眠れないよ」

「・・・・・・わかったよお姉ちゃん。靴は明日取りに行くね」

「日陰はいい子だね」


 お姉ちゃんの手がわたしの首筋に触れる。さっきお母さんに引っかかれた場所に当たってじわりと染みた。


「戻ろ? お母さん、もう怒ってなかったよ」

「ほんと?」

「うん」


 差し伸べられた手を掴んで、立ち上がろうとする。前のめりになる上体に感覚のない左足がついてこない。体勢を崩しかけたところで、お姉ちゃんが肩を貸してくれる。


「ほら、乗っていいよ」


 そうしてわたしはお姉ちゃんの背中に乗った。長い髪が鼻先を掠めてくすぐったい。わたしをおぶったお姉ちゃんは落ちないようにゆっくりと歩いてくれる。揺れる心地が、小さい頃を思い出して瞼が重くなる。


 庭から玄関までの短い道のりだけど、わたしは幸せの最中にいた。


 リビングに入ると、テレビを見ていたお母さんと目が合った。


「日陰、冷めないうちに食べちゃいなさい。今晩はあなたの大好きな包み焼きハンバーグよ」


 テーブルの上には湯気を立てたハンバーグがにんじんとキノコを添えて置かれていた。お姉ちゃんを見ると、小さくウインクしてわたしの背中を優しく押した。


 左足を引きずりながらわたしは一生懸命テーブルに向かって走った。一度転んじゃったけど、頑張って立ち上がって椅子に座った。


 久しぶりのご馳走に胸を踊らせて、わたしはナイフも使わずにかぶりついた。


 ご飯を食べ終わって、わたしは最後にお風呂に入る。湯船にはまだ溶けだしたばかりの入浴剤が浮いていた。お姉ちゃんがいれてくれたんだろう。


 しゅわしゅわと沸き出てくる泡が背中に当たって気持ちいい。痣と切り傷だらけの体も微かな艶やかさと張りを取り戻した。


 ボサボサの髪を指で巻いていると、お母さんが使っているトリートメントが目に入る。たしか美容院で買ったいい物だって言ってた。


「ちょっとくらいならいいよね」


 わたしもお母さんやお姉ちゃんみたいに綺麗な髪になりたい。手の平にトリートメントを出して髪を洗う。


 あれ? 泡立たないな。


 足りないのかと思って、もう少し足してみる。それでもなかなか泡立たない。結局半分くらい使ってしまったけど、髪がべちゃべちゃになるだけだった。


 今度きちんとした使い方を聞こう。


 お風呂からあがって、お姉ちゃんの部屋に向かう。わたしの部屋もプレハブ小屋とは別に一応あるにはあるんだけど、勉強机しか置いてないのでいてもつまらないのだ。


「お姉ちゃーん」


 ドアをノックすると、奥から声が聞こえた。開けると、フェイスパックを貼ったお姉ちゃんがいた。


「お風呂長かったね? ゆっくりできた?」

「うん。入浴剤入れてくれたのお姉ちゃんだよね? ありがとう」

「どういたしまして。たまにはああやって溜まった疲れを抜かないとね」


 お姉ちゃんの声はぬるま湯のように心地よい。火傷もしなければ冷めることもないから、聞いていて落ち着く。


「漫画読んでもいい?」

「どうぞー」


 お姉ちゃんは鏡の前でなにやら忙しそうなので、わたしは本棚から漫画を取り出して布団に寝転ぶ。


 漫画は好きだ。わたしの知らないものがたくさん白黒の世界に詰まっている。それは形ある物ばかりじゃなくて、人の想いなど不明瞭なものも含まれる。そういったものに触れた時、わたしの胸は静かに脈打つのだ。


 時計の針とページをめくる音が部屋に響く。お姉ちゃんは机で教科書を開き一生懸命ペンを走らせていた。


「日陰は勉強大丈夫?」

「うん。簡単な問題ばっかりだから」

「そっか、よかった。私は付いて行くだけで精一杯だぁ」

「そうなの? でもお姉ちゃん前のテストの点数よかったよね?」

「必死こいたからね。んーっ」 


 お姉ちゃんは背伸びをして、机の電気を消した。わたしの隣に体を滑り込ませてきて、布団をかぶる。


「そこちょっと退屈じゃない?」

「そうかも」

「でも次の巻からもっと面白くなるよ」

「そうなんだ。楽しみ」

「うん。それ読んだら寝ようね」


 お姉ちゃんと一緒に、漫画を読む。隣同士。体がくっつき合う距離で、同じものを見る。手を繋いだり、おんぶしてもらったりよりもお姉ちゃんを近くに感じる。


 お姉ちゃんはいつもわたしを気にかけてくれる。困った時は助けてくれるし、寂しい時はそばにいてくれる。


 そうやって誰かの為に行動できるから、天使みたいな子だってお姉ちゃんは言われるのかもしれない。わたしにはそんなことできない。いつも自分のことで精一杯だ。


「終わった。このあとどうなっちゃうの?」

「言っていいの?」

「・・・・・だめ」

「そうだよね。ふふっ、じゃあ電気消すね?」


 お姉ちゃんの屈託のない笑顔はまさしく天使かもしれない。わたしは笑うと不気味とよく言われる。なにが違うんだろう。


 明かりの消えた暗い部屋。お姉ちゃんの胸に顔を埋める。指を絡めて、足を交わらせるとお姉ちゃんが小さく息を吐く。


「お姉ちゃん? どうしたの?」

「・・・・・・ううんっ、なんでもないよ。日陰」


 布団の中に逃げ込んだお姉ちゃんの顔を追いかける。見ると、暗闇でも分かるくらいに赤くなっていた。


 違くなんて、ないよね。



 翌日、わたしは校舎裏の焼却炉に来ていた。


「あった」


 靴と小石を見つけ、ホッと胸を撫でおろす。ちょっと湿った靴を履いて、粘ついたものを足裏に受ける。


 それがどれだけ重いものなのかは分からない。わたしの動く足は片方一つしかないから、感じられる思いも半分になってしまう。


 けれど無惨にも体が潰れてしまったカエルや、目の飛び出したカエル。手足のないカエルと縦に裂かれたカエル。そのどれもが悲惨なもので、もう二度と帰ってこない命だということは覆りようのない事実だった。


 ゲコゲコと鳴いていた、元気なあの頃にはもう戻れない。


 わたしはひざまずいて、涙を流した。


 靴が熱を帯びて、わたしの足を覆っていく。それは優しさだろうか。大丈夫だよ、ありがとうと言ってくれているのだろうか。


 池から拾ってきた大きな葉っぱに小石を並べて手を合わせる。


 焼却炉からあがる煙は天に向かって昇っていく。生き物はそうやって星に変わっていくのだと前にお姉ちゃんの部屋にあった漫画で読んだ。


 死んじゃったカエルたちも、光り輝く星々の仲間となって、みんな仲良くしてくれていたらいいな。


 立ち上がって、踵を返す。


 どこかからゲコ、と声が聞こえた気がして振り返る。


 そこには葉っぱと小石しかない。けど、それしかないとは到底思えない。煙は空気となり、それを吸ったわたしの中に、何かが宿る。温かいものに突き動かされるようにわたしの頬を一滴の涙が伝った。


 粘り気のない、透き通った涙だった。


「・・・・・・・・・・・・殺しちゃって、ごめんなさい」

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