第二話
マイナスとマイナスをかけてプラスになったことなど一度もありはしなかった。
後退すれば距離は遠のくし、前に進めば景色は色づく。どこまでも下がっていけばまだ見たことのない素晴らしい世界へ行けるなんてことはなくて、俯いてしまえば石ころと虫の死骸しか落ちていない。
けれど黒板の世界では違うらしい。引けば引くほど増えていく。数学は不思議だ。増やすよりも消すほうが簡単なんて、現実では考えられない。
そもそも消失なんて現象は実際の私生活において発生することはないのだ。現実におけるマイナスというのは減る、削れる、廃れる、漏れる、吐く、潰すくらいのもので、もし消えることがあればそれは排出されたものを目視できなかったか、もしくは死んだか、殺したかだ。
マイナスAがマイナスBを殺す。そうすればマイナスBは消失したということになるが、ならどうして残ったマイナスAがプラスに変貌するのか。それはマイナスBを殺したことによって得られた何かがあったということに他ならない。
達成感、満足感、充実感。喜び悦び歓びヨロコビ。後悔。
勉強は将来必ず何かの役に立つ。そういう言葉があった。
だからわたしは理解はできずとも、得た知識の活用法もわからないまま、求められた答えだけを回答用紙に書き連ねた。
そのおかげでお姉ちゃんと同じ学校に行けるようになったのだから、勉強自体はまだ役に立たずとも、勉強ができるという事実は何かを有利にするらしい。
授業を終えて、ガラス張りの廊下を歩く。片足を引きずっていると、周りからクスクスと乾いた声が聞こえる。いつものことだった。
下駄箱を開けると、靴の中でカエルがたくさん死んでいた。学校の池で捕まえて、水槽でこっそり飼っていたカエルだった。マイナス×マイナス、の、十乗。プラスになんてならない。
粘液に塗れた靴を抱えて、わたしは校舎裏の焼却炉に向かった。
一匹一匹、炎の中に放り投げる。
駐車場から合計十個の石を拾ってきて、靴と一緒に重ねて置いた。
校門の裏で、クラスの子たちがわたしを指差して嗤っていた。どうして嗤っているのか聞くと、その子たちは悲鳴をあげながら走り去ってしまった。
家に帰ると、お母さんがテーブルに座って雑誌を読んでいた。どうやら旅行雑誌みたいで、眺めるお母さんの顔には柔らかいものがあった。
「お母さん、ただいま」
「
いつもなら一瞥するだけで反応のないお母さんだけど、今日は返事をしてくれた。お母さんは結構、日によって態度が変わる。
「日陰、その足どうしたの?」
切り傷だらけのわたしの足を見て、お母さんが立ち上がる。
「今日は靴を置いてきたの。帰りにちょっと小石で切っちゃって。でも大丈夫、痛くないよ」
その瞬間。重い衝撃がわたしを吹き飛ばした。
奥歯が取れそうなほどにぐらついて、鼻血が唇の輪郭を伝っていく。
「そんなこと言って、本当はなくしたんでしょ!」
「ちがうよ。学校に置いてきたんだよ」
「嘘言いなさい! 前も同じように体操着をどこかにやったじゃない!」
「あの時は体操着を忘れちゃった子がいて、貸してあげたんだよ」
まだ戻ってきてないけど。
お母さんは馬乗りになって、わたしを何度も叩いた。髪を引っ張られて壁に押し付けられた。首を絞められて、一瞬気を失ってしまいそうになる。
「どうしてお母さんのことを苦しめるの?」
お母さんの涙が、わたしの頬に垂れてくる。赤いものを連れて床に落ちた。
「靴だって安くないのよ。一生懸命働いて、養ってあげてるのに、どうして分かってくれないの?」
「ごめんなさい・・・・・・」
「痛い思いをして産んだのに、なんでこうなるの?
ついにお母さんが泣き崩れて、ボロボロの畳に雫を落とす。化粧が落ちて、目の下が紫色に染まっていた。
「あなたなんて、産まなきゃよかった・・・・・・」
マイナス×マイナス。イコール、マイナス。繋ぎとめるものなどどこにもない。
「ごめんねお母さん。今日はプレハブのほうで寝るから」
庭に置かれたプレハブ小屋はお父さんが釣りにハマった時に作ったものだ。中の物はお父さんが出て行った時にすべて持って行ってしまったので、今はわたしが寝る用の布団しか置かれていない。
立て付けが悪い扉を開けると、土ぼこりが舞って足元をゲジゲジが通っていく。布団をめくるとダンゴムシが丸まって転がり、部屋の隅では羽を失ったカゲロウが足をバタつかせてもがいていた。
「わたしと、一緒だね」
カゲロウを掴んで、外に出してあげる。
「でも、頑張ればまた飛べるよ」
わたしも最初は感覚のない足を動かすのは大変だった。何度も着地を失敗して崩れ落ち、その度に誰かに助けを求めた。足首が炎症を起こしても気付かないから、知らないうちに骨折するなんてことも珍しくはない。
けどやっぱり自分で歩けるようになりたいから、一生懸命頑張った。今はひょこひょこ引きずりながらだけどなんとか歩けるようにはなった。
だから、大丈夫だよ。
布団。もといダンボールに身をくるめて、寝転がる。
夕方になると、部屋の電気が点く。カーテンの隙間から、お姉ちゃんの足が見えた。
換気扇からハンバーグのにおいがする。わたしの大好きな、包み焼ハンバーグかな。添えられたキノコとにんじんがすごく美味しい。たまにお母さんはわたしにも食べさせてくれて、美味しいっていうと嬉しそうに笑ってくれる。もう随分前の話だけど。
夢を見るように、わたしは過去をさまよい目を瞑った。
少しすると、扉がノックされた。
わたしが立ち上がらずとも、扉は外から開けられる。
「日陰、起きてる?」
部屋に入ってきたのは、わたしの大好きなお姉ちゃんだった。
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