第六話

 二十三時。家中の光が消えて物音が影を潜める。廊下は冷たく、足裏がくっつく音がひたひたと聞こえる。ドアは軋まない。代わりに床に落ちたお菓子の包装袋を踏んで、乾いた音が部屋に響く。


 それに気づいて、盛り上がった布団が床にずり落ちた。暗闇の中、群青色の瞳がわたしを見据える。まだ微睡の中にいるのか、瞼はあがりきっていなかった。


「日陰?」

「ごめんねお姉ちゃん、なんだか眠れなくて」


 わたしが言うと、お姉ちゃんは隣を空けてくれる。持ってきた枕を置いて頭を乗せると、お姉ちゃんも起こした半身を寝かせた。


「怖い夢でもみたの?」

「そういうんじゃないんだけど、体が熱くて」

「あはは、あるよねそういう時。なら布団取った方がいいかな」


 布団を一枚投げて、薄い毛布だけになる。体のシルエットが凹凸により浮き出ていた。枝のように貧相なわたしの体とは違い、お姉ちゃんの体にはメリハリがある。山あり谷あり。登っていくものもあれば落ちていくものもある。しかしそれは、平坦ではいられないのだろう。体付きで損をするなんて変な話だけど、綺麗な鳥がすぐに絶滅してしまうのと原理は同じであった。


 だから棚橋も、惹かれてここに落ちたのだろう。


「日陰、相変わらず体温高いね」

「そうかな」

「うん。けど、いいことだよ」


 向かいあって話すと、熱い息が鼻先を掠める。


「今日はごめんね。びっくりしたでしょ? 本当はすぐに日陰に教えたかったんだけど、付き合ってるって実感がなかなか沸かなくて躊躇しちゃった」

「今はあるの? 実感」

「えー? うーん」


 お姉ちゃんは困ったように笑って、結局答えを曖昧にした。


「日陰はいないの? 気になる男の子」

「一人もいないよ。仲いい人も全然」

「そっか。でも、いつかできるよ、日陰なら。こんなかわいいんだもん」

「かわいい、のかな」

「うん。日陰は自慢の妹だ」


 誇らしげに微笑んでわたしの前髪をすくうお姉ちゃんは、いつもより大人びて見えた。大人は嘘を吐く。大人は殻を被る。大人はひた隠す。お姉ちゃんは、大人びて見えた。


 明かりを消せば何もかもが隠れると思っている。布団にくるまれば見えないと思っている。密閉すれば熱は逃げないと思っている。崩れかけの傲慢はなによりも隙だらけで滑稽だ。


 カタツムリの殻は硬いものだと思って小石を投げたら簡単に割れた。中から灰色の内蔵が飛び出して、本当の姿を曝け出したまま死んでいった。幼少期に見た、そんな光景を思い出す。


「目元が似てるって言ってたね」

「あー亮介くん? どうなんだろうね。毎日見てるからよくわからないや」


 亮介くん。その響きに胸が跳ねる。ダンスのように優雅ではない、電気を流されたかのような跳ね方だった。


「まあ、二重なのは一緒だね」


 お姉ちゃんと顔をぴったりくっつける。確かにわたしとお姉ちゃん、どちらも二重だった。


「姉妹だからかな」

「そういえば声が似てるとも言われたことあるよね」

「あったねそんなこと。私たち双子じゃないのに、意外と似てるところあるのかも」

「嬉しい」


 わたしが本音を漏らすと、お姉ちゃんも顔を綻ばせる。


「好きな食べ物とかも同じだもんねー。それは同じ家で育ったからっていうのもあると思うけ――」


 途中まで続いたお姉ちゃんの話は、わたしの唇によって遮られた。


 跳ねる体を、腕で抱きとめる。大きな魚でも獲ったかのように落ち着かない。いつのまにか毛布はどこかへいってしまっていた。


 唇を離すと、お姉ちゃんは目を丸くして固まっていた。


「似たもの同士」


 唇を指でなぞる。


「わたしたち、同じだよね」

「なっ、なっ……ひかっ」


 お姉ちゃんが金魚のように口をパクパクさせている。わたしはもう一度その唇を覆った。馬乗りになって、お姉ちゃんを逃がさない。重力と意思が同じ方向に向いて、ベッドが軋む。


 お姉ちゃんは目をギュッと瞑り、わたしの肩を掴んだ。抵抗するような素振りではあるが、その力はか細く抱き寄せているようにも感じた。


「お姉ちゃん、わたしのこと好きでしょ?」


 体を離して問いかけるも、お姉ちゃんの口元は輪郭が波打つだけで確かな返答は期待できそうになかった。


「知ってるよお姉ちゃん。わたしのことそういう目で見てるの。わたしに触られるの好きなんでしょ? 前わたしが寝てる時にギュッて抱きしめてきたよね。あれ、起きてたよね? 寝相じゃないよね? だって顔真っ赤だったもん。息も荒かったよ」

「何言ってるの、日陰。そんなわけないでしょ? 私たち姉妹なんだから」

「そう? でもわたしはお姉ちゃんのこと大好きだよ。お姉ちゃんとしても好きだし、そういう目で見てるよ」


 淡々と告げると、お姉ちゃんの息が止まり、喉が鳴った。


「大丈夫だよ、お姉ちゃん。わたしたち姉妹なんだから、好き同士になるのは当然だよ」

「・・・・・・違うよ日陰。私、日陰のことは確かに好きだけどそういうんじゃなくて。それに私には亮介くんが――」


 人の言葉を途中で遮断するなんてできっこないって思ってた。だって声は空気の振動だ。止めるには空気をなくすか、その人の首を跳ね飛ばすしかない。だからお姉ちゃんが変なことを言うようなら、わたしは台所の包丁でこの首を切り落とすしかない。けどそんなことできっこないし、したくもない。


 お姉ちゃんはこのベッドのシーツを前に気に入っていると言っていた。そのシーツを汚すわけにはいかないのだ。お姉ちゃんが悲しむようなことはわたしも嫌だ。


「亮介くんが、好きなの」

「そんな顔で言われても、納得できないよ」


 お姉ちゃんの頬は上気し、口からは可視できるほどに粘ついた吐息が漏れていた。


「ダメだよお姉ちゃん。そんなのズルだよ」

「ズル? どういうこと?」

「わたしだけがオカシイなんて、そんなのズルだよ。わたしたち家族でしょ? 姉妹でしょ? 似た者同士でしょ? ねぇ、どこにもいかないで、お姉ちゃん」

「日陰・・・・・・」


 わたしが甘えるような声を出すと、お姉ちゃんの抵抗が弱まる。


「わたし、自分のこと天使だなんて思ったことない。でも、お姉ちゃんのことを天使なんて思ったことだって一度もないんだ」

「な、にを」

「お姉ちゃんはわたしと同じ、悪魔だ」


 頭を掴んで、唇を重ねる。今度は長い、長い交わりだ。息苦しいのか、お姉ちゃんの鼻息が顔に当たる。


 わたしはキスなんてどういうものか知らないけど、唇同士を重ねて身を悶えさせるような行為を姉妹間でするのは異常だということは知っていた。だからこの行為による心地よさや得られるものなどどうだってよかった。


 わたしはお姉ちゃんを床に放り投げた。部屋が揺れて、おそらく一階へも響いただろう。


 わたしは追従して、唇を奪った。もし音に気付いたお母さんがここへやってきて、わたしとお姉ちゃんの惨状を見たらきっといつものように怒ってくれる。怒るということは、この行為が尋常ではないということだ。


 きっとそれ相応の重い罰が待っているかもしれない。一緒にお風呂に沈められることだって有り得た。それでもよかった。


「だめ、日陰。お母さんが起きちゃうから」


 けれどお姉ちゃんはいまだにその正体を見せてはくれない。


「なら、逃げてもいいよ」


 わたしはお姉ちゃんから体を離した。


「五秒の間は、何もしないよ」


 するとお姉ちゃんはよろめきながら立ち上がり、出口を目指した。ドアノブに手をかけて、開ける仕草を見せたところで動きを止めてこちらに振り返った。


「あと一秒だよ。お姉ちゃん。どうするの? お母さんに言うの?」

「・・・・・・言えないよ。そうしたら、また日陰がひどいことされる」

「そっか」


 またわたしは、お姉ちゃんと繋がった。立った状態のお姉ちゃんを壁に押し付ける。わたしの左足が平行感覚をなくし、お姉ちゃんに寄りかかった。


 そのままズルズルと落ちていく。わたしが倒れないように、お姉ちゃんは肩を抱いてくれた。キスをしたまま、二人して床にお尻をつく。


 逃げ場がないお姉ちゃんに、何度も口づけを繰り返した。お姉ちゃんは背後にあるドアに体が当たらないように手で体勢を維持した。お母さんが起きないよう、お姉ちゃんはただわたしの唇を受け入れた。


 唇を離すと、お姉ちゃんの溶けた瞳がわたしを見る。何かを待ち構えるような恍惚とした表情は夜闇の中でも艶やかだ。


 妹に見せる顔では決してない。わたしが笑っても、お姉ちゃんは自分が今どういう顔をしているのか気付いていないようだった。


「だ、だめだよ日陰。わたしは亮介くんが・・・・・・」

「うるせえな」


 首筋に手を添えると、お姉ちゃんはピクンと体を震えさせた。


「わたしだよね。好きなの、わたしだよね」


 ドアに手をかけると、ガシャンと大きな音がした。息を飲んだお姉ちゃんが大きく目を見開いてわたしを見る。


 下から階段を登ってくる音がする。お母さんが起きたようだ。


「まずいよ、日陰・・・・・・!」

「ねえ、教えて? お姉ちゃんのほんとの気持ち」

「だから、私は――」


 足音はすでに廊下へと進んでいた。すぐ近くに、お母さんの気配を感じる。


「教えてくれたらどいてあげるよ。ねえ、お姉ちゃんはわたしのことが好きなんでしょ?」


 ドアの向こうから、わたしたちを呼ぶお母さんの声が聞こえる。


「こんなところ見つかったらわたし、お母さんに殺されちゃうかも」

「ちょっと、小春? おきてるの?」


 ドアがノックされる。お姉ちゃんが寄りかかっているので、小さな力ではドアは開かない。


「はやく、お姉ちゃん、わたし、死んじゃうよ」


 振動が鼓動に付いてくる。動かなくなった心臓を電気で無理やり脈動させられたような感覚に手足が冷たくなる。


「死んじゃう」


 骨の髄まで染み込んだ喪失感に手探りで触れると、お姉ちゃんがひどく歪んだ顔をする。歪みを異端と見なすか、それとも崩壊と見なすか。


 どちらにせよ地獄の底へどてっ腹を着くような行く末であることに、わたしは横隔膜の痙攣を止められなかった。


「死んじゃう、死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう!!」


 お姉ちゃんは溢れ出る水を堰き止めるようにわたしの唇に蓋をした。お姉ちゃんのほうからわたしにキスをした。わたしはお姉ちゃんに唇を奪われた。


「ちょっと、小春? 小春?」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」


 まるで互いの息を飲みこむように、空気を循環させた。長い、長いキス。お母さんがドアを叩くたび、わたしを抱く力が強くなる。それはまるで、わたしを守ってくれてるかのようだった。


 唇が痛くなってきたのでわたしが先に体を離すと、お姉ちゃんも上体を横に投げる。すると支えをなくしたドアが開いて、寝間着姿のお母さんがわたしたちを見下ろした。


「なにしてるの? こんな遅くに」


 まずはじめにわたしに目が向いた。けどそのすぐ後に、お姉ちゃんが割り込んでくる。


「変な声も聞こえたんだけど」

「ごめんなさいお母さん。ちょっと恋バナで盛り上がっちゃって、ほら。今日の影響で日陰も彼氏が欲しいって話になって、ね?」


 わたしは肯定も否定もしなかった。そうするとお姉ちゃんの顔がみるみる青くなっていき、慌てて弁明を追加する。見ていて面白かった。


「もうこんな時間なんだから、いい加減に寝なさい。明日寝坊しても知らないわよ」

「はい。起こしちゃってごめんなさいお母さん」


 お母さんはため息をつく。だがそれ以上は特に言及せず、ひたひたと一階へと降りていった。


 それを見送ったお姉ちゃんは深く息を吐き、胸を撫でおろす。


「お母さんあんまり怒ってなくてよかっ――」


 わたしはどうやら、お姉ちゃんが喋ってる途中に唇を奪うのが好きらしい。


 息を吸えずにゆるかに絶命するよりも、さっきまで言葉を発していたものが雷に撃たれて物言わぬ黒焦げの灰になるほうがより鮮明に死ねる。即死した人間が生前何を考えていたのか、想像するだけで背筋が震えた。


 理不尽な感情の圧迫死というものに、わたしはひどく興味を抱いたのだ。


 わたしは、オカシクなってしまったのだろうか。元々オカシかったのだろうか。


 まるで湿地の森から降り注ぐヒルのように、お姉ちゃんに吸いついた。   


 虫のように脊髄反射と本能だけで生きられたら幸せだ。虫が知能を得るのは難しいだろうけど、わたしたち人間が理性を捨てるのは、きっと簡単。


「ありがとうお姉ちゃん、わたしを守ってくれて」


 抱きしめると、お姉ちゃんの手にも力がこもる。嫌がってるフリばっかりで、体と吐息がついてこれていない。


 それから数十回にも及ぶ口づけを交わした。その中の一度二度は、お姉ちゃんの方からしてくれた。けど、きっとお姉ちゃんは気付いていない。だってこんなにとろとろなんだから、思考も融解しているんだろう。


 やっぱりそうなんだ。お姉ちゃんも、わたしのことが好きなんだ。


 床に触れる背中が冷たい。お姉ちゃんと触れ合う肌が熱い。


「日陰・・・・・私は・・・・・・」

「うん。分かってるよお姉ちゃん」


 オカシイのはしょうがないよ。


 地上に生まれたわたしたちが、深海で生まれた奇妙奇天烈な魚を指差して嗤うのは仕方がない。この世には変な生き物がたくさんいる。自分を変だと自覚して生きている。


 蚕のような小さな虫だって、きっと生きている途中で自分が糸を吐いて死ぬだけの生き物だと気付くはずだ。食べる寝る歩く。そんなことができない自分の存在をオカシイと思うはずだ。けどそれでも、糸を吐くのをやめない。これ以上続けたら空っぽになってしまうと分かっていながらも、やめられないのだ。


 だって、そういう風に生まれてしまったんだから。


 お姉ちゃんは口数も少なくなり、もはや抵抗はしないに等しい。足をくねらせ、息には甘いものが混ざっている。


 けど、お姉ちゃんは蚕とは違う。だって意思がある。理性がある。姉として妹を性的な目で見てはいけないという固定概念を持っている。


 そうやって制御された結果、家族として大切な絆を失ってしまうのなら、それはやっぱり間違ってる。だからわたしが、道を示さないといけない。


 大丈夫、わたしは得意だ。昔からそういうことばかりやってきた。


 カタツムリの殻を破るのも、カエルを引き裂くのも、カゲロウの薄い体を散らすのも、あまりにも簡単だ。必要なのは力じゃない。


 わたしはお姉ちゃんの耳を強く噛んで、滲んだ鉄の味のする汁を歯に染み込ませた。


 お姉ちゃんはわたしの口元を見て、小さな声を漏らした。それが悲鳴だったのかは分からない。もしかしたら風船を割った時に鳴る、破裂音と同じようなものかもしれない。


 そこに感情はなく、大きな穴が空いたから、中にあるものが逃げていく。ただ原理があるだけの機械的な音。


 ならきっと、嫌がるような声も抵抗するような声も、説き伏せるような涙声も、全部全部、風船が割れただけで、お姉ちゃんがわたしを拒絶したわけではないのだ。


 相思相愛。


 いや、違う。


 この暗い部屋に愛などない。


 ただわたしは、お姉ちゃんと同じでありたいだけなのだから。



 

 

 

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