第40話 好本真理

 屋上を後にした空蓮は、真理の待つ図書室へと向かう。今まで何度か訪れた部屋だが、今日も相変わらず閑散としていた。


「好本さん、お待たせ。遅くなってごめん」

「ううん。誰も来てないから、大丈夫だよ」


 これが図書室の実態である。上等な本が沢山揃えられており、本好きの人間からしてみればここに住んでもいいと言わせるくらいの空間なのだろうが、そのような高校生は滅多にいない。その寂しさを象徴するかのように、傾いた日差しが窓から差し込んでいた。

 カウンターに座る真理の横に、空蓮も腰を下ろす。読書にふける彼女の隣で、空蓮は今日も教科書を取り出す。登校三週目にして、この風景も日常になりつつあった。

 図書室の利用者は一向に訪れず、時折ページをめくる音とシャーペンを走らせる音だけが聞こえる中、しばらく続いた沈黙を破ったのは真理の方だった。


「ねぇ、指宿くん……」

「ん? 何?」

「あ……あ、えっと……」


 見ると、彼女は空蓮の方は見ずに、ずっと本の文章を目で追いながら話しかけていた。が、何か話を振ろうとした割には、何も言葉が続かない。


「その……あ……」


 徐々に赤面してくる真理。彼女の脳内はこうだ。どうしよう、しれっと下の名前で呼ぶつもりだったのが、いつもの癖で指宿くんと呼んでしまった。

 偶に口から「あ」と零れるのは、空蓮を呼ぼうとしているためだ。獅子に貰ったアドバイスを早速実践しようとしているのだろうが、いざ本番となるとやはり緊張がまさってしまう。


「ん……?」

「あ……あ……有栖ちゃんって、指宿くんの事、好きなのかな⁉」


 一瞬、空蓮は聞き間違いかと耳を疑う。一体どこからそのような疑問が浮かんだのか、彼には到底理解できていなかった。

 真理としても、本来このような話題を振るつもりは毛頭なかった。ただ、口から出てしまった「あ」をどうにか処理しようとした結果、先ほどの獅子との会話を引きずってしまったのだろう。


「あ、有栖が……?」

「あっ……いやその……」


 聞き返す空蓮に対して、真理は横目で彼を見ながら、ばつが悪そうに言う。その反応に、聞き間違いでない事を確信したのだろう、空蓮は一瞬考えるが、すぐに思わず笑みが零れた。


「ははっ、それはあり得ないよ」


 おかしそうに笑う空蓮の反応に、真理はようやく顔を対面させる。眼鏡の奥の瞳は丸く見開いていた。


「そ、そうなの……?」

「うん。それって、恋愛対象としてって意味だよね。好本さん、どうしてそう思ったの?」

「それは……二人の様子を見てて、なんとなく……」


 何かあった事には間違いないが、有栖が自分の事を好いているというのは空蓮にとって考えられない話だ。立場が立場なだけに、そのような感情を抱く事はあり得ないだろう。

 だがしかし、真理に何か悟られているのは対処したほうが良いのかもしれない。二人の関係性を深堀りされては、今後の生活に支障が出る可能性も考えられる。


「そっか、なんとなくか……どうしてそういう風に見えたんだろうね」

「なんていうか、二人の距離が急に縮まったような気がして……」


 それとなく、真理の抱いた印象に探りを入れていく空蓮。やはり昨日の今日で有栖の態度が変わったのが原因なのだろう。


「なるほどね……急かどうかは分からないけど、ここ数日で距離が縮まってるのは確かかもね」

「そ、そうだよね……」

「うん。でもそれは、上城戸や好本さんとも、一緒だと思うよ」

「え……」


 再び真理は瞳を丸くする。言葉での反応は少ないのに、驚いたのが非常に分かりやすい。


「そんなに驚かなくても……ほら、昨日の勉強会の時とか、好本さんの意外な一面も見れたし」

「それは……そうなのかな……」

「うん。だから有栖とだけじゃなくて、皆と徐々に仲良くなってると思う」


 空蓮の言葉は嘘偽りの無い、自分を客観視した上での感想であった。こちらの世界に出てきた当初は、まさかこんな風に学園生活を送るとは微塵も思っていなかったのだ。


「そっか……皆と……」


 何やら安心したかのような表情になる真理。彼女はそのまま、別の質問を続ける。


「それじゃあ……あ……」


 一瞬言葉に詰まるも、今度はすらりと、続きの言葉が繰り出された。


「空蓮くんは、好きな人っている?」

「僕か……」


 その質問に、空蓮は天井を仰ぎ見る。真理にとっては勇気を絞りだした質問と、下の名前で呼ぶという行為なのだが、彼はその点には一切気づいていないらしい。

 あちらの世界の風景が脳裏を過ぎる。好きな人という話なら、名前が挙がるとすればあちらの世界の人々だろう。そういう意味では正しい回答は「いる」なのだが、あちらの世界の存在を秘匿しなければならない以上、悩ましいところである。

 少し考え、彼の口から出た答えは素っ気ないものであった。


「いいや、いないよ」

「そう……そっか」


 ほっとしたような表情を浮かべる真理。しかし、空蓮はその様子もやはり気に留めていない。今しがたの回答について、思考を巡らせていた。

 恋愛対象としての好きとはどういう事か。様々な要素が混ざりあってなされる感情だが、その分かりやすい最終地点はおそらく結婚であろう。そういう意味では、あちらの世界に生きる空蓮アイザックにとって、こちらの世界の人間に対して恋愛感情を抱くというのはあり得ない話である。

 こちらの世界の人間にとっても、それは同じことではないだろうか。彼は昨日の問答を思い出す。紗月であれば、「全然あちらの世界の人とも結婚できますッスよ?」とでも言い放つのかもしれない。だがしかし、彼女はあちらの世界の事情を全て知った上で、その世界のAIに対して人権を尊重するという稀有な例の人間だ。一般的な人間があちらの世界の人間、もといAIに対して同じような感情を抱けるとはとても思えない。それが故に、空蓮もふとした瞬間に、こちらの世界との壁を感じてしまうのだ。

 思考が終わり、空蓮は再び隣に座る真理に目をやる。何故だろう、彼女がどう思うのか気になった。特別視しているわけではない。ただ、一般的な人間のサンプルが偶然目の前にいるだけだと自分に言い聞かせる。一般的な人間なら、バーチャル世界のAIに対して、どういう感情を抱くのか。その確認がしてみたい。

 冷静に考えてみれば、自分の正体に踏み込まれてしまう危険のある行為である。だがしかし、空蓮の中にはその危険を冒してでも彼女の考えが聞いてみたいという好奇心が、無意識のうちに存在していた。


「ねぇ好本さん、VRって分かる?」

「え、うん……バーチャルリアリティ?」

「そう。じゃあ、AIって分かるかな……昔からあるトップダウン型AIじゃなくて、人間の脳を機械的に再現したボトムアップ型AIってやつなんだけど……」

「分かるよ。一般教養程度には」


 科学が発達しているからといって、この二種類のAIの差が一般的に理解されているかというと非常に怪しい。しかし、あれだけ本を読んでいる真理であれば分かるかもしれないという予感が的中した。

 簡単に説明すると、トップダウン型AIは大量のプログラムの集合によって知能のように見せかけられた物であり、ボトムアップ型AIは人間の脳を機械で再現した、空蓮のような存在のことを言う。


「よかった。別に大した意味の無い質問だから雑談程度に聞いてほしいんだけど、聞いてもらえるかな?」

「うん!」


 普通の高校生なら退屈しそうな話題だが、好奇心の塊である彼女にとっては心躍るような話題なのだろう。その瞳はキラキラと輝いている。


「そうだね……まず、ある一つのバーチャル空間があって、その中ではボトムアップ型AIで作られた人間たちが、自分は普通の人間だと思い込んで生活しているとする」

「なるほど」


 この仮定は、今の時代においても一般普及している物ではない。アイザックのような完璧なAIが生活しているバーチャル空間は、大手企業や研究機関所有の大規模サーバーでしか扱われない技術だ。


「それで……この世界に人間と見分けがつかないアンドロイドを作って、その中にAIを入れたとして……これは人間だと言えるかな?」

「なんだか哲学的なお話だね」


 確かに、当事者以外の人間からすれば、そういう質問に映るのが自然だろう。案外、そういう拗らせ方をした高校生として普通の話題なのかもしれない。


「これは人間だと言えるか、か……」


 復唱すると、彼女は読んでいた本をパタンと閉じて少し真剣に考える。が、その回答はすぐに出てきた。


「うん。それは間違いなく人間……だと思う。人間であってほしいって思うかな……」

「そっか……それは、どうして?」


 今出た回答だけで、空蓮にとっては少し意外な物だった。自分のような存在を人間と認めるのは、組織の人間くらいのものだと思い込んでいたせいだ。


「どうして、か……今の例で説明するのはちょっと難しいかな……空蓮くん、シミュレーション仮説って分かる?」

「シミュ……え、何?」


 思いもよらない専門用語で反撃されてしまい、空蓮は面食らう。彼女からの呼び名が変わっている事には、相変わらず気づいていないらしい。


「シミュレーション仮説。簡単に説明すると、この世界そのものが、シミュレーション……つまり、VRの中の世界であるとする仮説のこと」

「あぁ、そういうことか」


 それはつまり、空蓮アイザックにとって実際に立たされた立場ということになる。非常に分かりやすい。


「この仮説が、どうやっても否定できないことは分かる?」

「うん」

「それじゃあ……例えば今この瞬間に、そのシミュレーションをしてる外の世界の人がやってきて、私を連れて行ったとして……人間扱いされるのと機械扱いされるのと、どっちがいいかな?」

「それは……えっ……いや、人間だけど……」

「だよね」

「うん……」

「自分自身のことを人間だと思い込んでいるんだもの……自分が一番外の世界の、本当にシミュレーションじゃない、現実の世界の人間だっていう確信がないのに、一つ下の世界から出てきた人間を機械扱いするなんて、すごくおこがましい事なんじゃないかな」

「そ、そっか……」


 空蓮は彼女の展開する理論に、心底驚いていた。理論の内容自体が意外だったわけではない。普通の高校生である彼女から、その理論が出てきた事が意外だったわけでもない。ただその思考が、紗月と全く同じ視点に立っている事に驚いたのだ。


「だから、私が人間である以上、シミュレーションの世界から出てきた人間がいたとしたら、その人も人間だって認めてあげたいな」


 その言葉は、さらに空蓮の心に追い打ちをかける。今度は自分の心の動きに驚く。今の彼女の発言が、純粋に嬉しかった。何の事情も知らないはずの彼女に、お世辞でもなく自分は人間だと認められた事が、嬉しかったことに驚いた。

 指宿空蓮はくすりと笑って勉強の手を動かし始める。


「そっか……なんていうか、それは……いい考え方だね」


 心の揺れを必死に胡麻化し、空蓮は優しく、彼女の回答を、そして自分という存在を肯定する。


「うん……でも、なんで……」


 なんでそんな質問を。そう言いかけて、彼女の脳裏には獅子の言葉が過ぎる。


『人と人って、きっとそれぞれ一番いい距離感があってさ……その幅を確かめながら、落としどころを見つけていくのが、友達になるって事なんじゃないか?』


 ここがその一番いい距離感なのか、彼女には分からない。それでも、その幅を確かめる挑戦はできる。


「距離感、か……」

「ん? どうかした?」

「ううん、何でもない! 面白いお話だったよ。ありがとう、空蓮くん!」

「どういたしまし……あれ?」


 三度目にして、ようやく呼び名の変化に気が付いたらしい。


「えっと……真理……?」

「あ、やっと気づいてくれた」


 そう言って、ニコっと笑う彼女の顔を、窓から入る春風がそっと優しく撫でていた。

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