第22話 アクセル

 4月12日。月曜日。また一週間、授業の日々が始まる。

 空蓮の学業の進捗はというと、最近は時間を有効活用する方法に長けてきた。生物や歴史の授業なんかは、高校の範囲から入ってもある程度まで事前知識無しで理解できる。国語の授業もそうだ。現代文においては、漢字もあちらの世界に存在するので付いていくのに申し分ない基礎知識は存在する。

 問題なのは古文漢文や数学、物理や化学といった知識の積み重ねが必要になる教科である。放課後にはこういったジャンルの勉強を優先して行うべきだろうという判断に至った。

 さて、勉強の話が続いたが、高校の授業にはこれら以外にも、生徒たちの鬱憤を晴らしてくれる救世主が存在する。皆が待ち望んだ月曜四限目の授業。それは、体育であった。


「吾輩が! この授業を担当する! 権田ごんだ健之助けんのすけである! 男子陸上部の顧問をしている!」


 筋骨隆々を絵にかいたような身体でA組の面々の前に仁王立ちするのは、体育教師の権田健之助であった。陸上部員からはゴンケンのあだ名で親しまれていると専らの噂だ。


「本来! 男子と女子は別々で授業を行うが! 今日は! 女子の先生が急遽お休みを取られたので! クラス全体で体力測定を行う事になった!」


 文節ごとの圧力が凄まじい先生だ。居眠りしていても内容が頭に入ってくるだろう。


「しばらくは! お前たちの健康のためにも! 体力テストが多くなる! つまらんかもしれんが! 我慢してくれ!」


 かなり変わった喋り方をするが、生徒たちに寄り添う事には慣れている、良い先生のようだ。


「なぁ空蓮、あの先生ゴンケ――」

「喋るなーーーーっ!」


 空蓮にギリギリ聞こえる程度の小声で何か言いかけた獅子であったが、ゴンケンの凄まじい勢いに身体が凍り付く。


「人が! 説明している時に! 喋るなーーーーっ!」

「す、すみません……」

「よろしい!」


 どうなる事かと空気が一瞬ひりついたが、ゴンケンからのお叱りは一言だけであった。


「では説明を続ける! 今日の体力測定は! 走り高跳びだ! バーは二本用意したので、男女で分かれて計測を行う!」


 今現在、空蓮たちは男女を分けた出席順で並び、運動場に体育座りをしている。本来であれば体育の際には男女が完全に別の場所で授業を行うので、異性の体操着姿を目にする機会はあまり多くない。思春期の男子にとっては少々刺激が強いのだろう、あからさまに鼻を伸ばしている人間も複数人見受けられる。

 空蓮もなんとなく女子の方を見やると、これで何度目だろうか、また有栖と目が合った。が、やはりすぐに逸らされてしまう。


「人手が足りていないので! お前たちにもバーの管理を手伝ってもらう! 男女それぞれ、まずは出席番号後ろから二人ずつ! バーの横にスタンバイしてくれ!」


 ゴンケンに言われると、列の後ろの方から四人が立ち上がる。出席番号順に後ろからということは、その中に好本さんも含まれていた。

 バーの横に立つと、彼女の可愛らしさがより際立つ。下手をすれば、女子のバーよりも彼女の方が低くなってしまうのではなかろうか。

 四人のスタンバイが完了すると、ゴンケンは走り高跳びの跳躍の解説と、計測の説明を始める。はさみ跳び、背面跳びなどのメジャーな跳び方を一通り披露し、計測係にも操作の流れを説明していく。最初はそれぞれ平均より少し下の高さから始め、徐々に高さを上げていくシステムのようだ。

 この時代においては、どうやら走り高跳びの体力測定はメジャーらしく、皆すんなりとゴンケンの説明を受け入れている。が、空蓮にとってはこちらの世界の体力測定など初めての経験である。ゴンケンの身体の動きを目でしっかりと追いかけていた。どうやらモンスターの攻撃を避ける際の動きが応用できそうなので、一安心である。


「それでは! 測定を始める! 先頭から順に、位置についてくれ!」


 このクラスにおける先頭というと、獅子と夏弓である。獅子の運動神経については言わずもがな、部活動を全て見学に行ったくらいやる気のある男である。身体の大きさは走り高跳びにおいては不利に働く可能性もあるが、彼の筋力があれば総合して平均以上の成績を出すだろう。

 気になるのは、夏弓の方である。普段はお転婆を隠して委員長を取り繕っている彼女であるが、運動神経の方は如何なのだろうか。


「それでは、始め!」


 ゴンケンの合図とホイッスルの音で、二人は走り出す。綺麗な助走を付けて、両者ともに初期設定のバーを楽々と飛び越えてしまった。


「ほう……よし! 両方とも十センチ上!」


 ゴンケンの判断に合わせて、バーを調節し、再び跳んでを数回繰り返す。何度か繰り返すうちに、二人とも簡単に平均以上の記録を叩き出してしまった。天は岩淵夏弓という人間に全て与えてしまったのだろうか。ドジっ子要素を含めて。


「よし! では次!」


 さっそく空蓮の順番が回ってくる。今の二人の動きもしっかりと観察していた。完璧な背面跳びが披露できるはずだ。

 ただし、ここで大事になってくるのが力の加減である。おそらく空蓮の全力を持ってすれば、魔法を使わずとも日本の高校生の記録ぐらいは優に超えてしまうだろう。そんな力をクラス全員の前で披露してしまっては大騒ぎになりかねない。ここは良い塩梅に力を調整して平均程度の記録を出すのが好ましい所だ。


「始め!」


 ホイッスルの音が鳴り、助走を始める。良いバランスだ。走る速度も問題ない。このまま力を抑えて跳躍し、背中からマットへと飛び込む。決まった。そう思った直後だった。

 カランコロンと、乾いた音が鳴り響く。見ると、バーは空蓮の腰に綺麗に弾かれ、マットを超えて運動場の地面へと落下した。


「あっ……」

「うむ……男子、二十センチ下!」


 やってしまった。完全に力を抑えすぎた。全力を発揮する事には慣れているが、普段わざわざ手加減をするような場面には出くわさない。

 指宿空蓮は考える。自分の名誉のために次はもう少し力を入れるか? しかし、それで最初の手加減が発覚しては面倒だ。ここは覚悟を決めて、今と同じ強さで跳ぶべきだろう。先ほどの加減は身体で覚えた。同じ動きをすれば、怪しまれる結果にはならないはずだ。

 そのまま二回目のジャンプで空蓮の計測は終了した。二十センチ下げるというゴンケンの判断が、先ほどの結果とピッタリ合っていたようだ。

 列に戻ると、獅子が声をかけてくる。


「空蓮、今の本気か?」

「あ、あぁ……走り高跳び、しばらくやってなくて……」

「あーそっか。まぁ確かにしばらくやってないと忘れるよな」


 手加減したと言ってしまうのは危険だ。かといって、剣道部で披露した跳躍を見ている獅子に、「これが本気だ」で通すのも難しいだろう。咄嗟に出た言い訳だったが、どうやらすんなり受け入れてもらえたらしい。

 ゴンケンも、自分が説明しているタイミング以外の雑談にはお咎め無しのようだ。少し話していると、隣のレーンで有栖の番が回ってくる。クラスでも比較的仲良くしている相手だ、気になって彼女のフォームを眺めていると、隣の獅子から忠告が入った。


「なぁ空蓮……狙うのは一人にしとけよ……」

「うるせぇバカ」


 肘でコツンとツッコミを入れる空蓮であった。



 授業も終了間近。走り高跳びの計測は順調に進んでいた。ちなみに、授業の後半に差し掛かったタイミングで計測係は交代しており、男子は獅子と空蓮でバーの調整を行っていた。

 ちなみに空蓮がバーの外側、女子のレーンを見ることができる場所に位置している。獅子が率先して内側に入り、何やら親指を立てていたような気がするが、きっと気のせいだろう。

 授業終了まであと数分、いよいよ最後の計測に入る。ちなみにこのクラスは三十五名しかいないため、この計測は好本さんのみ。獅子と空蓮は仕事が終わったため、なんとなく女子のレーンを眺めていた。

 少々内気な印象の彼女にクラス全員の視線が集まっている。最初は大丈夫だろうかと心配もしたが、あまり緊張している風には見えない。こういう時は、意外と肝が座っているのだろう。


「始め!」


 合図とともに、彼女は走り出す。身体を動かす所は初めて見たが、他の女子と比べてもかなり綺麗な走りだ。印象と違い、運動の基礎は抑えているらしい。

 そのまま深く踏み込み、高く跳び上がる。美しい。身体をひねる彼女の姿は、まるで水面に跳ねるイルカを見ているようだ。

 体勢、跳躍の高さ、どちらも問題ない。が、一つだけ致命的なミスがあった。全く前に進んでいないのだ。このままではバーに触れる事も無く、マットの敷かれていない地面に激突してしまう。

 空蓮は即座にその状態を観察し、計算する。彼女の体勢と現在の高さ、そこから地面に激突した時の被害を、ほぼ経験による直観ではあるが判断する。まずい。このままでは最悪の場合、骨折する。

 視界には彼女の元に駆け寄ろうとするゴンケンの姿が映った。流石の体育教師だ、空蓮と同じ推察に至ったのだろう。だがしかし、彼の動きでは間に合わない。

 どうしたものか。そんな事を考えている余裕すら空蓮には無かった。気が付くと、彼は叫んでいた。


「アクセル!」


 一瞬、運動場に強烈な風が吹く。誰の目にも止まらぬ速さで瞬間移動し、空蓮はお姫様抱っこの体勢で好本真理を抱えていた。


「あっ……えっ……その……」


 置かれた状況を理解し、急激に赤面する好本さん。だが、そんな彼女を可愛いと思う余裕など、今の空蓮には残っていない。

 やってしまった。クラス全員の前で、を見せてしまった。頭の隅々まで、全て綺麗な真っ白になってしまう指宿空蓮であった。

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