第3話 今の自分を変えたくて

 翌日、学校の昇降口でいつも通り靴を履き替え、いつも通りに教室へ向かおうとした誠二は、一階廊下の掲示板に昨日まではなかった張り紙が加えられていることに気がついた。

 画用紙に手書きの丁寧な文字が並んでいるだけの、簡素なポスターだった。


 『演劇部 部員募集中!

 皆さん、演劇に興味はありませんか?私達と一緒に舞台に上がってみませんか?

 初心者大歓迎!興味がある方は1年A組畑沢由紀か、顧問の村上むらかみ恵梨香えりかまで!』


 「顧問までもう決まってんのか」

 村上先生は誠二の隣のクラスの担任で、現代文の先生だ。年齢は二十代の後半に差し掛かるくらいだったと記憶しているが、おそらく東西高校で一位二位を争う若さではないだろうか。誠二は先生方の年齢にそれほど興味はないので、たぶん、という枕詞が外れることはないが、とりあえずそれくらい若い教師のはずだ。

 そんなに早く部としての体裁が整うとも思えないが、きっと由紀は転入初日、ホームルームで自己紹介をするよりも先に部活について先生に相談していたのだろう。

 元々演劇部のない高校で部活を作ろう、と本気で言い始めるくらいなのだから、きっとその情熱が先生を動かすことだってあったっておかしくはない。

 「現に、もう演劇部に入った初心者が一人いるわけだしな……」

 同年代で比べれば相当運動神経の良い敦が何か部活動に入るとすれば、例えばその高身長をフルに活かしたバスケ部やバレー部あたりがいいかなどと誠二は思っていた。

 野球で培った脚力に強肩も持ち合わせた彼であれば陸上競技も練習すればなかなかの物になるだろう。それがまさか演劇部とは。

 誠二がいくら考えたところで、最終的に何をするか選ぶのは敦だ。どうこう言っても仕方がないからと脳裏のもったいないオバケを振り払って張り紙に目を戻す。

 「よう大原、お前何見てるんだ?……演劇部?興味あんの?」

 掲示板の前に突っ立っていた誠二に声をかけたのはかつて同じチームで野球をやっていた橋本だ。率直に言ってしまうと特別に親しいわけではないが、悪い奴でもないから、もし誠二が野球部に入っていたならそれなりに仲良くやっていたのだろう。

 「いや、うちのクラスの転校生が作った部活だから気にはなったけど、入る気はないかな」

 「へぇ~、自分で部活作ろうってのはすごいホスピタリティだな」

 「バイタリティじゃなくて?」

 おもてなししてどうするというのか。

 「それよりまだ部活入ってないんだったら、野球部来るのも考えておいてくれよ。大原なら今の三年の先輩が引退したら、すぐにエースだって狙えると思うしさ」

 まぁ、考えとく、と、誠二は気のない返事で返した。もう一度野球を始める気はない。嘘つきめと心のなかで自分を詰る。

 ──野球じゃないなら、お前は何ならやるんだ、大原誠二。




 「で、実際どうなんだ演劇部」

 昼休み、誠二の席の机と隣の席の机を向かい合わせた敦に、誠二は自分の弁当箱の蓋を外しながら尋ねた。

 駄弁りながら昼食を取るべく誠二の元に集まったのは敦と由紀と綾。四人も集まったならば教室からは飛び出して中庭や屋上で食べても良いところだが、東西高校には友人数人で集まって昼食を取るような立派な中庭はない。

 屋上は開放こそされているが、体育会系の部活のメンバーがたむろしていることが多いので、別にそこまで行かなくてもいいだろう。

 特に野球部には先輩まで含めて顔見知りがそれなりに多いから、顔を合わせると橋本のように誠二や敦を勧誘しようとしてくるのが面倒だ。

 「どうもこうもねぇだろ、まだ正式な部活ですらないんだから」

 「あれ、そうなのか?勧誘のポスター貼ってあったから、もう活動始まったんだと思ってた」

 敦の今日の昼食はアルミホイルに包んで持参のおにぎりがふたつ。両親共働きの彼は登校途中にコンビニで昼食を買ってくることが多いようだが、今日は親のどちらかが準備してくれたのか、それとも自分で用意することにしたのか。

 由紀の昼食は誠二と比べるとやや小ぶりな弁当だ。

 彼女の母親は生まれつき脚が不自由で台所仕事が辛いということもあり、由紀は幼い頃から父親に家事を一通り教え込まれていたということらしい。つまり、おそらくは由紀が自分で作ったお手製の弁当だろう。

 比較するようなものではないが、専業主婦歴二十年以上の誠二の母の弁当と比べても、見劣りするとは思わない。

 綾は東西高校の昇降口近くにある購買部で売っているサンドイッチ。漫画のように昼休みになった途端に生徒達が殺到するというわけではないので、昼食を選ぶ余地くらいはあるはずだが、綾は大体レタスとハムの味気ないサンドイッチを食べていることがほとんどだ。安いからなのか、食に興味がないのか、ただこれが好きなだけなのか。

 「東ヶ丘西高校の校則だと、部員五人に顧問の先生一人集まって、それで生徒会と先生の承認がいるんだって」

 「余程変な部活じゃなければ弾かれることはねえだろうから、人数さえ集まれば問題は無いと思うけどな。村上先生が顧問になってくれるって言ってたしよ」

 由紀と敦が昼食を口に運ぶ合間に説明をしてくれる。誠二も箸でつまんだ唐揚げを口に運びながら、相槌で返した。

 「俺、そもそも部活が成立するのに五人要る、ってのが初耳だったよ」

 生徒手帳を開けば書いているのだろうが、自転車通学とアルバイトに学校の許可が必要くらいの内容だけ把握した後は、誠二は真面目に読んだことはなかった。きっと大部分の生徒が似たようなものだと思いたい。

 「村上先生って、演劇の経験とか……あるの?」

 綾が由紀にそう訊いた。綾は人見知りするタイプだと誠二は思っていたが、フレンドリーな由紀とはいくらか話しやすいのかもしれない。

 「やったことはないみたいだけど、舞台を観たりするのは好きなんだって。ちなみに学生時代は陸上部だったらしいよ」

 「ああ、すっごい体育会系っぽい先生だもんな……」

 村上先生の特徴はと言えば、まず声がでかいこと。村上先生の授業中の発言を聞き逃すのはそれこそ居眠りでもしていない限り簡単ではないだろうと誠二は自信を持って言える。

 次に扉の開閉や、黒板に字を書く時の力がやたらと強い。村上先生の力が強すぎて寿命が短くなった哀れなチョークが東西高校にはきっと何本も存在しているのだろう。

 そして体育の教師でないにも関わらず、彼女は常にジャージを着ている。一応二十代半ばでその飾りっ気のなさもどうなのかと思わないではないが、流石にプライベートではまた話は違ってくるだろう。きっと。

 「で、部員があと三人必要なわけか」

 「そういうこと。流石に三年生が新しく部活に入ることはないだろうし、一年二年も部活に入ってなくて暇な人は限られてるから……たった三人と言っても難しいよねえ」

 由紀の言う通り、満を持して受験生という肩書を得た三年生は今入っている部活動の最後の大会に向けて全力を注ぐか、既に大学受験に向けて勉学に本腰を入れているか、もしくは何も考えていないかのどれかだろう。

 そのどれであっても、今更部員の勧誘に応えてくれるとは考えにくい。よしんば応えてくれたとしても、来年には卒業している三年生を含めて部員が人数ギリギリであれば、二年生になった時にまた部員探しに奔走する羽目になる。

 ──もしかしたら留年するかもしれないが。

 一年生や二年生にしても、四月ならまだしも五月ではもう部活を決めている学生が大半ではあるだろうから、やはり難しいか。

 「他の部活から引き抜くとか?」

 「何を見て引き抜けば良いのかわかんねぇよ」

 そうだよなぁ、と敦の返しに対して答えて、誠二は手元の箸に視線を戻した。

 部活自体の成立がまでが遠いほどに人数が足りずに困っているのであれば、誠二が入部するだけでも友人の助けにはなるだろう。

 だが、名前は貸せても、実際に戦力になれるかは別だ。どれだけ人数が少ないと言っても、足手まといでは居心地も悪い。

 初心者であるという条件は敦も同じだが、どうして敦があっさりと演劇部に入ることを決められたのかが、誠二にはよくわからなかった。

 「そうだ西之木さん、西之木さんって部活入ってなかったよね?」

 「う、うん……でも、わたしも演劇はぜんぜん……」

 「初心者でも大丈夫。私だって高校演劇初心者っていうか、高校演劇経験者の高校一年生なんていないからみんな同じだよ」

 その由紀の勧誘に誠二はどんな理屈だ、とは思ったが、よくよく考えてみれば自分もあくまで中学を卒業する頃まで野球をやっていたというだけで、高校野球は未経験だから由紀の言うことも間違ってはいないな、と思い直して黙ることにした。

 「そ、そうなの?それなら……ちょっと、考えてみる」

 普段、学校では自分や敦くらいとしか話さない、このおとなしい女子が演劇に向いているとはいまいち思えない誠二ではあったが、向き不向きについて人のことはあまり言えないかと心のなかで綾に謝っておくことにした。




 「あっ」

 「おっと……西之木?」

 放課後、部活も塾も何もない誠二は何か暇つぶしにでもと図書室に立ち寄り、新書サイズの気軽に読めそうな小説を適当に二冊ほど借りて図書室を後にしたところ、たまたま廊下を歩いていたのであろう綾と鉢合わせて思わずお互いに声を上げた。

 誠二がちょうど扉を開けたところに綾がいた形になるから、危うくぶつかってしまうところだった。なにぶん綾の身長は誠二の肩より少し高い程度しか無いから、考え事なんかしていた日にはぶつかるまで気づかないなんてこともあり得る。

 「中途半端な時間に残ってるな。今日日直だったっけ?」

 「それも、あるけど……」

 誠二は図書室の扉を閉めながら続きを促す。図書室では静かにというのは全国共通の暗黙の了解だろう。扉を開け放したまま図書室の前で話すこともない。

 「演劇部、活動場所どこかな、って……」

 綾がややうつむき気味に言った台詞に、思わず誠二の口から、えっ、と素っ頓狂な声が飛び出す。

 「やるの?演劇」

 「う、うん……おかしいかな」

 「いや、おかしいとかそういうことは……」

 適当な言い訳で繕おうと思ったが、少なくともそこそこよくしゃべり声もでかい敦と比べると、目の前のどもりながら話す小柄な綾が舞台に上る姿は尚の事想像できず、言葉に詰まる。

 「……うーん、ごめん。おかしいというか、本当にできるのかなとか、そういうことは正直思った」

 「だよね、うん……わたしもそう思う」

 沈黙が流れる。訊いてきたのは綾だが、だからと言ってもう少し答え方があるだろと誠二は焦った。微妙な空気が自分のせいであると思うと、焦りは更に加速する。

 ──でもやってみたら案外イケるかもしれないし!とか言ってみるか?そんなふざけたフォローがあるか。

 「なあ、敦にも訊いてみたかったんだけどさ、西之木はなんで演劇やってみようと思ったんだ?」

 そうして、誠二は話題をずらしていくことにした。フォローするのは諦めたとも言う。

 とはいえ、それを訊いてみたかったのは本当だ。敦には『野球を辞めてやることが無くなったら寂しかったから』と言われていたが、だからって演劇になるか?というのが誠二にはどうしても解せなかった。

 最も、敦が語ったのが心の底からの本音であれば、何か打ち込めさえすれば演劇でなくても良かったのかもしれないが。

 「野々村くんは、わからないけど、わたしは……」

 「……一応、言いたくなければ言わなくてもいいからな?」

 言い淀んだ綾に、誠二が付け加えた。半分は好奇心みたいなものだから、相手にそれに付き合わせる必要はない。

 だが綾は首を振る。誠二とは中学一年生からの付き合いだが、この少女がはっきり意思表示するのを見るのはいつ以来か。

 元々の出会いは、美術の授業でたまたま隣の席になり、お互いの似顔絵を描けと言われた時だった。誠二自身の絵心が壊滅的だったのを差し引いても、なかなか上手に描いてくれたのが印象に残っている。

 それ以来、彼女とは度々話すようになった。誠二以外に話せる友人が少なかったのだろうが、少し──いやかなり口下手なだけで、誠二も話していてそう悪い気もしなかった。

 「その、人と話すのが苦手なのとか、そういうところ、少しでも直したくて……今まで部活とか、入ったことなかったし……初心者でも大丈夫っていうなら、いい、機会かな、って、思って……」

 つまるところ自分を変えるきっかけとして、演劇を始めるというところか。誠二はあまり考えたことのなかった内容ではあるが、だが納得ではある。

 「なかなかの荒療治じゃない?」

 「う、うん。でも……このままじゃいけないって、ずっと、思ってたから……」

 このままじゃいけない。

 それは誠二も、野球を辞めてから何もしていなかった自分自身に対して感じていたことではある。真剣に勉強して少しでも良い高校に入ろうとしたわけでもなければ、高校で野球以外のものに打ち込むわけでもない。

 何かを本気でやろうとする友人を見る度に、友人達は立派に見えたし、対して自分のことは情けなく思えた。

 不器用ながら自分を変えたいと行動する綾だって、例外ではない。

 自分が初心者であることを、「今までやったことないものに挑戦してみるのもいい」というプラスの考え方に変えられる敦が、格好良く見えたかもしれない。

 「まあ、どのみち始めるなら今がチャンスだよな。初心者歓迎なんだし……いいきっかけかもしれないよな」

 その台詞は綾に向けたものと言うよりは、誠二自身に向けて言い聞かせたもののように、誠二には感じられた。

 「演劇部の活動場所だよな。場所は知らないけど、掲示板に勧誘のポスター貼ってたし、それ確認してみよう」

 だが、何もしていない自分を少しでも情けないと思うのならば、そして由紀という一人の友人が演劇部の人数が足りないと困っているのなら、細かい理屈はいらないのではないか。

 初心者の誠二に何ができるかはわからない。だけど、一人だけ置き去りにされるのも、少しだけ悔しいと思った。

 何かに付けて言い訳をして、何もしないでいるより、何も考えずに友人達と肩を並べて走ってみるのも良いのかもしれない。

「……俺も、ちょっと興味出てきたし」

 綾が眼鏡のレンズの向こう側に、ささやかに喜びの色を見せたのは気づかないふりをした。

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