こうして、この世に巨悪は出現した。

 突然のビックマム襲来に精神が疲弊してしまったが、今日はまだ眠るわけにはいかない。

 いつの時代も高校生は忙しいのだ。

 YouTubeで好きな配信見たり、ガチャ回したり、マンガ見たり、ゲームしたり。ああ忙しい忙しい。


 しかし、今日に限っては本当に忙しい。自室で明日までに終わらせなければならない古文の課題が出ている。

 これは絶対に仕上げておかなければならない。なぜなら古文を担当しているのは二宮先生だからだ。やらないという選択は死に直結する。


 ちなみにだが、急遽鷺宮家に転がり込んできたので自分の部屋はない。

 しかしそれでは色々と不便なので、普段使っていない和室を貸し与えられている。

 本来は客人を通したり、大勢で囲んで食事をする時に使ったりする部屋らしいが、それ以外の用途はほとんどないので実質空き部屋だ。

 12畳ぐらいのスペースの中央に高さの低い大きな長テーブルがぽつんとある殺風景な部屋で、他には仏壇と物置となっている大きな押し入れぐらいしかない。寝るときには押し入れから布団を取り出して寝ている。


 別に大きな不満はないが、強いて言えば広すぎるのか、構造上の問題なのか不明だがとにかく寒い。空調設備はないので耐えるしかない。


 文明の利器である電子辞書を頼りに毛布にくるまりながら課題に取り掛かっていると、コンコン、とノックする音が響く。


「兄さん、ちょっといいですか?」


 鷺宮の声がドア越しに聞こえる。


「こんな遅い時間にどうした?」


 鷺宮は和室の引き戸をゆっくりと開けて顔をのぞかせる。

 風呂上がりなのか、上気して火照った肌にしっとりと濡れた髪。それがまた一段と鷺宮の魅力を引き立てている。


「明日の英語の時間に英単語の小テストがありますよね? 私、学校に単語帳を忘れてしまって」

「ああ、そういうことか」


 意外なことだが鷺宮は時々学校に忘れ物をする。その度に俺の部屋を訪ねてくるのでもう慣れた。

 こういう少々抜けているところが世の男性の男心をくすぐる。。

 いとこじゃなかったら俺の健全な精神もこの魔女に蝕まれていた可能性すらある。

 助かったぜ……。


 いや、待てよ?

 いとこだから俺は自然と鷺宮をそういう対象として見ることはできない。

 これむしろマイナスじゃね……?


 確かに友達にお前の妹美人だよなって言われても全く嬉しくない。むしろ整ってんじゃねえよと思う。つーかそいつCV.二宮陸だな。余裕で脳内再生できたんだが。


 やはり自分の近くにあるものは身近すぎて楽しめないのか?


 ──遠くにあるものは美しい。


 そんな言葉を聞いたことがある。


 だとすれば俺はなんて不幸な男なんだ……。

 綺麗なものがこんなにも近すぎるなんて!! こうなったら──


「……あの、兄さん? どうして急に遠ざかるんですか?」

「うーん、やっぱ鷺宮は遠くで見ても綺麗だけどやっぱ近くで見た方が綺麗なんだよな……例外か?」

「きゅ、急に何言うんですか!?」

「いや、率直な感想なんだが」


 カバンから英単語を取り出す。


「はいこれ」

「ありがとうございます」


 と、いつもならこれで終わるはずだが予想外の言葉が続いた。


「でも、私が借りてしまうと兄さんが英単語の勉強できませんよね」

「え? まあ、そうだけど」

「なので──」


 と、鷺宮が俺の部屋に一歩踏み込む。

 シトラスの香りがほのかに鼻腔をくすぐる。


「兄さんの部屋で読ませてもらいます。構いませんよね?」

「え?」


 突然の提案に戸惑う。


「いや、でもどうせ俺勉強しないだろうから別に……」

「構いませんよね?」

「……はい」


 人形のように整った笑顔で圧をかけられる。

 当然、勝てるわけもない。


(綺麗な女性の作り笑顔ってなんか怖いんだよなあ……)


 なにかこう、追いつめられているような感覚。

 そういえばどこかで似たような経験を……あ、なんだ、おばさ──めぐさんのことですね。


 先ほどの惨劇を反芻しながら課題の続きに取り掛かる。

 鷺宮はテーブルの向かいに正座して単語帳を読んでいる。


(相変わらずの姿勢の良さ。おそらく猫背の俺より座高高いだろうな……)


 家でも気品ある振る舞いをするのは非常に疲れると思うが、本人は無意識でやっているのだろうか。


 無意識でやっているのもすごいが、意識的にやっていてもすごい。

 結論:すごい。


 考える必要なんてなかった。


「兄さん、手が止まってますよ?」

「……え? そ、そうだな」

「私のことは気にせず、兄さんは古文の勉強の続きをしてくださいね」

「お、おう……」


 確かに余計なことを考えている場合ではない。一刻も早く課題を終わらせなければ。



 ◇



 結果として、鷺宮という適度な監視役のおかげもあってか課題は思ったよりも早く終わらせることができた。


「終わりましたか?」

「ああ、何とか終わった」


 鷺宮も勉強は一通り済んでいたようだ。

 


「そういえば兄さん、二宮先生に呼び出されていましたよね。何かあったんですか?」

「……いや、特に何も。まあ遅刻するなって怒られたぐらいだな」


 まあ適当にごまかしておけばいいだろう。

 弟には絶対言うなと先生から厳命されているが、他の人にも他言無用であることは変わりないだろう。


「最近二宮先生に目を付けられていますよね。どうしてなんでしょう?」

「さあ、どうしてだろうな……」


 誤魔化そうとするも、対するは先ほど見たばかりの笑顔の圧力。目が笑ってないないのは気のせいだと信じたい。


(近頃の鷺宮の様子がおかしくないか? 前まで互いに無干渉の関係だったが……)


 学校で話しかけられることなんて今までなかった。

 しかも鷺宮が俺の部屋(正確には鷺宮家の部屋)に入ってくるなんて初めてじゃないか?

 

 何か大きな出来事があったわけではないはずだが……。


「どうかしましたか?」

「いや、今日の鷺宮、いつもと違うっていうか……何かあったのか?」


 すると、少し目を見開いた鷺宮はくすっと笑う。


「いえ、兄さんと二宮先生が生徒と先生の垣根を越えた怪しい関係になったかと……」

「それはまじでない!!」

「ふふっ、冗談ですよ」


 やはり彼女は上品に笑う。


「それではもう夜も遅いので、おやすみなさい」

「お、おう……」


 謎は解けないまま、俺の長いやっと一日が終わった。



 ──翌日。


 教室に入るとすぐに二宮が声をかけてきた。


「なあ山市、昨日姉貴と何があったんだ?」

「えっと……」


 先生の秘密を二宮に言うわけにはいかない。先生に惨殺されてしまう。


「特に何もなかったが。どしたよ?」


 そういえば昨日の別れ際、先生の言動がおかしかったような……。


「昨日姉貴の部屋に行ったら、いつもは不機嫌な姉貴がひどく上機嫌だったんだ」

「それは何より。」

「自分の名前を書くだけですぐに解放してくれたんだ」

「へーそうか……名前?」

「急に書けって言われたんだよ。誕生日とか色々。しかもオレが記入する部分以外隠されていたんだ。一体オレは何の書類に記入したのか気になってな」


それは……一組の男女が法の下で新たな社会的な関係の結ぶ契約に必要なでは?


「それ書くときになんか言われなかったか?」

「いや、特には。法律的に家族に必要な書類って言われたから素直に書いたんだが」


家族に(なるために)必要な書類……。


「いやあ、近頃は何でもかんでも法律で定めないと色々と問題が起こる物騒な世の中ということなんだよな」

「……ソウダナ。ブッソウダヨナア」

「そんな震えてどうした? 顔が真っ青だぞ?」


あれ? もしかしてこれ俺のせい?

俺の一言でこの世に巨悪が出現してしまったのか!?

あの6人組イベントとか起こらないよな!?


「なんでもないことを聞くが……お前今何歳?」

「お! 実は今日オレ誕生日なんだよ! 今日で16歳」

「もって2年か……」

「余命宣告!?」


 は、印鑑は当然姉のやつを使いまわせるだろうし、二人そろって市役所に行く必要ないらしいし……これやばくね?


「残り少ない余生を楽しむといい。恨むなら13年前のお前を恨め」

「13年前に何が!?」

「合掌。」

「オレの身に何が起こってるんだ!? 助けてくれよ!?」

「そんなこと言われてもな……たしか、届け出が受理されるには本人確認書類諸々が必要なはず……お前、保険証とか自分で持ってるか?」

「え? オレの財布に入ってるけど」

「絶対にそれを誰にも渡すなよ! それがお前の命を救う!」

「は? まあ、保険証だし……」

「学生が持ちうる有効な本人確認書類なんてそれぐらいだろうな。今のところ自衛手段はそれ以外ねえな……」

「本人確認? そういえば、海外旅行に行ったときにパスポート取得したけどな。無くすといけないから私が責任もって管理するって昨日姉貴が持っていったけど」

「終わったぁ……」


 かくして、二宮陸の将来は閉ざされた。

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