社会的な正しさは如何にして形成されるのか


 前回の内容を軽く振り返っておこう。

 闘争によって連帯が生まれ、社会が維持される。社会的な正しさは、闘争を動機づけることで連帯をもたらし、社会を維持する機能を果たす。大まかには、こんなことを書いたように思う。


 今日は、同じことを別の方面から書くことになる。前回は闘争から連帯を説明したが、今回は連帯から闘争を説明してみたい。



 社会的な正しさとは、つまりは道徳である。道徳は何故守られるのだろうか? 我々は何故道徳を守るのだろうか?

 実際に道徳が形成される過程に立ち会うことはできないので、道徳が守られる理由から、それに迫っていこう。


 まず思い浮かぶであろう答えが、道徳を守らなければ処罰されるからである。この処罰というのは、暴力や暴言に限らず、他人からの不信感といった形でもあり得るだろう。

 こうした感覚から分かることは、社会が個人よりも遥かに強い力を持っている事実である。「社会は個人では絶対に手に入れられない恩恵をもたらし、個人では絶対に課されないであろう処罰を課す」。それこそ、神のように超越的な存在だ。


 しかし、「我々が道徳を守るのは処罰を恐れるからだけではない」というのも事実である。たとえ誰に見られているわけでなくとも、多くの人が路上にゴミを投げることを躊躇するだろう。たとえ絶対にバレないとしても、それなりの人が他人を騙すのは気がひけると考えるだろう。

 この場合、道徳を守らなくても社会による処罰はない。であれば、道徳が実際に多くの場面で守られる(本来なら守るべきことだと信じる)理由はなんであろうか。

 答えは以下のようになる。「道徳に違反したという事実は、自らがその社会に所属しているという感覚を損なうことになる。それは耐え難いので、人は道徳を守るか、そうでなくとも道徳を破ったことを(時には自分自身にすら)隠すだろう」と。括弧の中は,非道徳的なことをしたら、何かしら理由付けをしたくなる心理を表している。この嘘は、貴方のための嘘なのだ、と言った風に。


 この答えが人を納得させるには、人々が社会への所属を絶対的に望んでいるという前提が必要である。そして、あくまで社会学においての話だが、人は社会への所属を絶対的に望んでいる。それどころか、我々は社会なくして何もできないとすら言って良い。


 まず第一に、人は自己アイデンティティ、自分自身についての見方や感覚というものを、大抵は他の人からどのように扱われたかという点において判断する。他者という参照点がなければ、自分が(比喩的な意味で)どの位置にいるのか分からないのである。

 貴方は今、どれくらい頭が良いだろうか。どれくらいの友人がいるだろうか。身長は高いだろうか。運動はできるだろうか。こうした疑問に応える時、我々は他者(場合によっては昨日の自分)と比較する。絶対的な基準を自ら決めることはないし、決めたとしても、我々はそれに意味を見出すことができないだろう。

 個人は社会のパーツであり、社会なくして自らを見出すことができない。だからこそ、人は社会に所属しようとするのである。


 第二に、人は社会からもたらされる観念によって、端的に言えば言語によって思考する。

 言語とは、ある個物をより大きなグループの中の一つとして捉える一般化の産物である。自分の筆箱の中にある炭素の芯を押し出すペンと、友人の筆箱の中にある炭素の芯を押し出すペンは、同じシャーペンという言葉で表すことができる。だから友人にシャーペンを貸して欲しいと頼んだ時、望んだものが借りられるのだ。当然、筆箱やペンも一般化された言語の一つである。極論を言えば固有名詞すら一般化といえるだろう。何故なら、どの角度から見ても、いつ見ても、石狩川は石狩川だからである。実際には全く同じものではないというのに。

 個々人の前に現れるものは、全てが唯一無二の個物であり、一般化の余地も必要もない。

 しかし社会が存在することで、我々は事物を一般化し、言語として観念を共有できる(もしくはする必要が生じる)。同じ一般化された観念、言語を社会全体で共有することによって、我々は意思疎通が可能になり、社会の維持が可能になる。

 我々は社会で共有された観念によって思考するため、一人きりであっても、社会から逃れることはできない。社会によって共有された観念は、我々に社会への帰属を否が応でも迫る。


 第三に、社会に強い所属感を持つことで強い感情エネルギーが得られる。感情エネルギーの代表的な例としては、スポーツチームやその応援団、学祭の盛り上がりなどがイメージしやすいだろうか。絆の力だったり、団結心だったりも感情エネルギーに含まれるといって良いだろう。より抽象的に言えば,以下のようになる。「人は群衆の一部である時、自分が強くなったと感じ、(道徳的に)正しいことをしていると感じるようになる」。実際に、群衆は個人ではなし得ないことを可能にするし、群衆の中には自分と同じ意見を持つ人が集まってその道徳的な正しさを補強するだろう。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、ファッションの流行に乗るとか、分からない時はとりあえず隣の人を真似るとか、身近なところにもこうした作用は存在する。


 もし社会的な正しさ、つまり道徳に従わなければ、感情エネルギーを得ることはできないだろう。何故なら、社会集団は強い帰属意識をもたらすものは、「同様の社会的儀礼を共有すること」そのものだからである。社会的儀礼というと重々しいが、これは前回の友人グループの例えをそのまま使うことができる。一緒に遊ぶことが社会的儀礼であるならば、一緒に遊ばないものは徐々に部外者と成り果てていくのだ。これは道徳にも同じことが言えるだろう。

 より激しいものでは、というか、社会学者デュルケームがこの社会的儀礼論を生み出した背景には宗教がある。讃美歌を歌い、食事の前には神に祈る。こうした行為こそが,何も知らないはずの相手を理解したように感じさせ、仲間だと認識させる。そしてこうした行為を共有しないものは異教徒か異端者であり、仲間ではないだろうし、さもなくば敵である。

 人は何らかの社会集団に属することで、正確には,同じ社会的儀礼を共有することで、強度は違えど感情エネルギーを得ることができる。感情エネルギーへの欲求は感覚的に抗い難いものであるし、歴史と今この時の世界は、それが人類共通の理であることを証明し続けているように見える。


 以上の三つの理由から、人は何らかの社会への帰属を望むし、そのためにその社会における正しさ、道徳を守ろうとする。感情エネルギーを得るために、たとえ実際の処罰がなくても、道徳は(自らがその道徳を重視する社会集団に属していると強く意識している時は)守られるだろう。

 社会的な正しさは、抽象化された社会の力そのものである。社会の形成と社会的正しさの形成は、同時並行で進むと考えたい。社会によって共有されることで道徳は初めて道徳となり、道徳があって初めて社会が成り立つのだ。道徳というとなんとなく綺麗なイメージかもしれないが、これは世間一般でいう道徳ではなく社会的な正しさのことである。例えば大きな犯罪集団においては、全体の利益を守るために個人が守るべき掟がある(密売品を安く売り捌いて一人だけ利益を得たりしないことだったり、必要以上に警察組織をしげきしないことであったり)。これも一種の社会的な正しさであろう。


 今この世界には、数え切れないほどの社会集団があり、個人はそれぞれに重複して所属している。故に、異なる社会集団の道徳的な対立がしばしば見られる。

 より厳密で形式的な社会的儀礼が整備される程に、社会的集団の仲間意識は高まり、連帯は強まるだろう。しかしその分、他の社会集団とは隔絶した関係性となり,やがては闘争へと至る。理論上の話ではあるが、法律が厳しいほど、犯罪者が増えるのと同じ理屈であろう。因果関係ではなく、犯罪の範囲が拡大するため、必然的に犯罪者に当たる人数が増える。同様に、社会はそれが仲間とする範囲が狭い程に連帯は強まり、闘争対象は増える。

 よっては連帯は闘争をもたらす。闘争と連帯は同じコインの両面であり、互いを補完しているのだ。差別を闘争の一形態と理解するならば、社会がより連帯を強めるほどに、差別もまた強固なものとなる。



 今日の内容は、自分でも少々分かりにくかったように思う。より詳細に説明することも可能だが、本題である差別から離れてしまうため自重した。

 それでも前回と今回、社会的な正しさについて考えていく中で、差別が社会の中でどういった位置付けの現象なのかが何となく掴めてきたように思う。

 これまでの議論に従えば、差別の定義に「正当な理由」という社会によって異なる変数が含まれる以上、複数の社会集団が存在する限りは定義として絶対に無くならない。

 これは逆説的だが、社会集団を一つにまとめ、闘争の対象を他の社会集団ではない何かに転嫁することで、理論上は差別を無くすことも可能性としてはあり得ると示している。たとえ実際にそこまで行くのは難しくとも、今発生している差別問題の解決に、こうした考え方が活かせるかもしれない。実際、仲の悪いチーム同士に同じ仕事を任せて無理矢理協力させたら仲良くなったというような話もある。闘争対象さえ変えてしまてば、世の中の差別を減らせるのではないだろうか。

 しかしここで、一旦社会学から離れて行動経済学的な視点に立ってみると、残念なことに、それが恐らく想像を絶するほど難しいことが分かってくる。

 次回は、社会ではなく個人の視点から、偏見や差別がなくならない理由に迫っていこう。

 そしてそのまた次回、おそらく最終話であろう話では、まず結論を述べた後、とりあえず目先の差別を解消するための個人的な意見を述べる(勿論、私が属しているとその瞬間意識していた社会集団にとっての差別を解消する方法、に過ぎない)。


【まとめ】


・社会は個人よりも遥かに強い力を持っている。

・人は他人からの扱いによって自分自身についての感覚を身につける。

・人は社会で共有された観念(言語)によって思考するため、社会から逃れることはできない。

・人は群衆の中では強くなった気になるし、道徳的になった気にもなる。

・社会的儀礼こそが、社会集団を連帯させる。

・社会集団のより強い連帯は、他の社会集団とのより強い闘争に繋がる。

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