人は差別しないでいられるのか


 これまで我々は、社会が如何にして差別を生み出すのか、差別は社会にとってどのような機能を果たしているのかを考えてきた。


 今回はよりミクロに、我々個人が何故差別をしてしまうのかに迫っていこうと思う。バイアスやヒューリスティクスといった用語は極力使わないつもりなので、安心して欲しい(気になる方は是非認知心理学の本を!(行動経済学本にも割と書かれている))。



 まず前提として、我々は二つの思考を使い分けている。ひとつがはやい思考、システム1であり、もうひとつがおそい思考、システム2である。


 誤解を恐れずに言えば、前者は直感や瞬時の価値判断、後者は計算や慎重な判断において用いられる。前者は燃費が良くコスパが素晴らしいが、後者は燃費が悪くコスパも大したことはない。前者は自動で用いられるが、後者は意識的に用いることしかできない。


 もう少し具体的に言おう。九九や友人との談笑、表情、なんとなくの好き嫌いといったものはシステム1による。システム2は、考えるだけで頭が痛くなるやつだ。勉強なんかは最たるものだろう。疲れるが、比較的合理的に判断してくれる。もっと短く言えば、システム1は瞳孔が開かないが、システム2は瞳孔が開く。


 システム1は効率的だし、大抵の場合ベターな判断を下すものの、たまに大きく誤る。そしてシステム2を意識的に使用しない限り、誤りに気づくことはできない。よしんばシステム2を使用しても、誤りを見逃してしまうことがある。


 偏見が生じる要因の一つがここにある。偏見は自動的なものなので、システム1の働きが大きい。システム1はたまに大きく誤るが、それでも大抵の場合は正しい。つまり、偏見は多くの場合は有用である。怪しい人を避け、暗がりを避け、カルト宗教には手を出さず……といった行動は、基本的にはシステム1に基づいている。実際、あまり深く考えての行動ではないであろう。深刻には考えているかもしれないが、それとは別である。難しい計算問題を解くように、論理的かつ正しい前提のもと考えたかが問題だ。


 いわゆる第一印象も、偏見以外の何者でもない。その人について大したことを知っているわけでもないのに、どんな人なのか考えているのだから、これを偏見と言わずになんと言おうか。


 例を見れば分かるように、偏見を利用するのは効率的なのだ。少ない判断材料から、ある程度妥当性がある結論を導き出すことができる。面接なんかで服装が見られるのは、効率的にその人の社会性や真面目さを判断できるからかもしれない。その程度もできないようでは、営業なんて任せられないし、トラブルメーカーになるであろう、という理屈である(もっとも、学生の身である私には推測することしかできないが。そう、これこそが偏見である)。


 もちろん、偏見が有害となる場合もある。差別や偏見の弊害については世間で十分に騒がれているので、わざわざ例を挙げるまでもないだろう。


 ただし、数多く騒がれているからといって、それが必ずしも大問題だというわけではない。殺人やテロは、稀な出来事であるけれども、報道は声高々と繰り返しなされる。するとシステム1はことあるごとにその記憶を引っ張り出し、重要かつ確率の高いことだと考えてしまう。人は知らないことを起こらないものだと考えるから、他の危険には目が向かない。今まさに考えている事象以外の全てが背景と化すのだ。実際には背景の方が遥かに広く、量も膨大であるにも関わらず。


 加えて、人は小さな確率を過大評価し、大きな確率を過小評価する(ただし100%は過大評価する)。金額と確率をかけるだけで不利だと気づくだろう宝くじが売れる理由でもあるし、勝てそうな訴訟でも和解が成立しやすい理由でもある(厳密にいえば、利益か損失かで勝手が違うのだが割愛する)。


 人は少しでも危険がある、となれば不安になるし、大抵の場合安全だ、となっても不安になるのだ。逆にちょっとした安全装置でもあるとないとでは大違いに思えるし、大抵の場合危険となれば、少々の危険度の差は気にならなくなる。これもまた、ある種の偏見と言えるだろう。


 するとどうだろう。問題点ばかりを言い立てて偏見を悪だと訴えるのは、偏見に基づいて偏見を非難しているのと同じになる。これは字面だけ見れば滑稽かもしれない。しかし、大抵の場合妥当な基準に基づいて、大抵の場合妥当な基準を批判していると考えれば、聞くべきことであるのは事実である。


 偏見を抑えるには、やはりシステム2を利用するしかない(もしくは極力何の意見も持たないかで、こちらの方が遥かに楽である)。システム2を使うときは、エビデンス(科学的根拠を指す。よく誤解されるが、専門家の意見や形だけの論文は含まれない)に基づくのが一番だが、そうでなくても客観的に思える基準を定めて、可能なかぎり事務的に考えるべきである。上手くすれば、ある特定の偏見を少なくすることは可能であろう。


 文字で読むと簡単そうに見えるが、これが非常に難しい。というのも、人はそう易々と自分の意見を変えたがらないからである。


 先に述べた殺人やテロの例から分かる通り、人は頭の中に浮かびやすい事柄を重視する。そのため、自分の意見というものは当然重視される。そして大抵の場合、論理的にも強固である。前提や仮定さえ事実なら、自分の意見に論理的におかしなところは見受けられない。となれば、他の意見に耳を傾ける必要はないし、そもそもわざわざそんな物を気にしようとすら思わない。


 これは一部の頑固者のことを指しているわけではなく、私を含め、人のシステム1に共通する性質である。個人的な例を挙げれば、私は人が限定的合理性を持っているという意見に賛同しており、人を完全に合理的だとか非合理的だとする意見に対しては、それが「法則を導くための仮定でない限り」決して耳を貸さない(鉤括弧内に耳を貸さないと経済学は殆ど勉強できない)。何故なら、現実を説明できるし、行動経済学的にも、社会学的にも、まったくもって妥当だからだ。このように、人は誰であってもそれなりに頑固なのである。まぁ、私は特に頑固な気がするが。


 また人は損失を利益よりも重大に捉える。保有効果と言われるが、自分のものというだけで自分にとってその事柄の価値が上がるのだ。これは直感的にわかるだろう。愛着みたいなものだが、そんなものは抱かないであろう金銭についても保有効果は働く。人は損失が嫌いな生き物だ。


 だとすれば、今まで多くの時間を投資して身につけてきた自分の考えをそう簡単に捨て去るわけにはいかないだろう。意見を変えることで数値的には僅かなメリットを得られるとしても、損失の感情的なデメリットを上回ることはできない。人は根本からして保守的なのだ。

 


 さて、本話タイトルの問いに戻ろう。人は差別しないことが可能なのか。


 結論から言えば不可能である。行動経済学のミクロ的な視点からみれば、人類共通の社会的な正しさ(共通の敵)を作ることによる、道徳の大統一は非常に困難だ。人は保守的である。


 ただし差別の程度を緩めることなら可能であろう。月並みなことを言えば、システム2をフル活用して偏見を取り払い、相互理解を推進することが一つの策である。そしてもう一つは、道徳の大統一と似ているがミクロ的な発想に基づく策である。それは些か逆説的で、人によっては時代逆行と捉えるかもしれない策である。これ以降は完全に私の意見なので、次回に回そうと思う。

 これまで私達は、差別の定義、機能、弊害、その必然性を追ってきた。見出した結論は、我々人類が差別や偏見のない平和な世界とは無縁な生物であると示すかのような無慈悲なものである。


 しかし全て、観念の遊戯と言われても仕方のない程度には、現実から遊離している。たしかに全てを闘争と捉えれば何でも説明できるかもしれないが、それは何も言っていないのと同じである。私の扱い方が粗雑なだけで、実際の社会学でもこうした使い方はされないだろう。


 現実は決してそう単純なものではない。


 量子力学が確率の世界であることからわかるように、今の人類にとっては、この世界は「神がサイコロを振る」世界である。社会学や行動経済学から得られた知見は、それを現実に落とし込み、利用してこその知見だ。何の役にも立たないのであれば、観念の遊戯以上の何物でもない。次回は、あくまで私なりの落とし込みを行なっていきたいと思う。



【まとめ】


・人間の思考にはシステム1とシステム2がある。

・システム1は自動的で素早く効率的な思考であり、システム2は能動的で遅く慎重な思考である。

・偏見は多くの場合実際に有用である。

・人は小さな確率を過大評価し、大きな確率を過小評価する。

・それでも偏見は時に大きな誤りをもたらす。

・システム2のみが偏見に対抗できる。

・人は損失を利得より重視する。

・人は自分の意見を変えたがらない。

・現実は複雑である。

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