社会的な正しさは何のためにあるのか
前回まで我々は、差別の性質と社会の性質を明らかにしてきた。今一度振り返ってみよう。
・差別とは、区別のうち、生活全般にかかわる不利益を強制する行為を伴い、社会的に正しい理由がない場合を言う。
・社会は、限定的合理性を持つ個人によって構成され、非合理的な基盤、平易に言えば信頼によって支えられた集団であり、その中では、感情が決定的要素となる。
解決すべき疑問は、「社会的な正しさとは何か」である。それが何のために存在し、いかにして作られるのか。差別の定義上、避けては通れない問題であろう。今回は、社会的正しさが何のために存在するのか、と言う点を考えていこうと思う。
その前に、以後社会集団という言葉をゲシュタルト崩壊しかねない程に用いるので、簡単に振り返っておく。
個人は複数の社会集団に同時に所属しており、時と場合によって、その時なにを意識しているのかによって、連帯を感じる集団は異なる。これを念頭に置いて、読み進めて頂きたい。
さて、前回の差別を社会集団間の闘争と捉える——階級闘争的な——解釈に則って考えてみよう。
ある集団が他の集団に対して、「あなた達の行動は非道徳的だ(社会的な正しさに反している)」と訴えるのは何故だろうか。絶対的な道徳がないとすれば、それは非難者の属する社会集団において、非道徳的だということに他ならない。
非難される側の集団にとっては、まったく道徳に反さない行動であった可能性が十分にある。その場合、両者は闘争状態に陥るだろう。しかし、それぞれの集団の内部では逆に連帯を強める。ランドル・コリンズはこうした逆説を、著書の中で、「闘争と連帯とは同じコインの両面である」と言う表現で述べている。
しかし、非難する側も非難される側も、同じ社会集団に属しているかもしれない。
身近な例で言えば、歴史オタクとアニメオタクであっても、同じオタクとしての仲間意識を持つことができる、と言った感じだろうか。もちろん、陽気な奴も陰気な奴も同じ若者である、といった理解でも構わない。
先程述べた通り、社会集団間の闘争はそれぞれの社会集団の内部では連帯をもたらす。若者は、大人によって一まとめに括られて非難を受けた時、団結して対抗するかもしれない。オタクに対する非難があった場合、あらゆる分野のオタクが団結して対抗するかもしれなあ。
しかし、社会集団の内部で社会集団間が闘争を起こした時、それは大きな社会集団に崩壊をもたらす事となる。歴史オタクとアニメオタクが闘争状態に陥った時、果たして、同じオタクと言う意味で団結できるだろうか、と言う事である。放っておけば集団は分裂してしまうだろう。この世に存在する社会集団が無数にある以上、二つなどという分かりやすい数に分裂するわけもない。社会は極限まで分裂し、何れは個人になってしまう。
しかし現実にはそうなっていない。社会集団はある程度の連帯を維持している場合が多い。テロリストによって外国で日本人が殺されたとなれば、日本人の多くは憤りや不安を覚えるだろう。これも連帯である。
「闘争と連帯とは同じコインの両面である」という言葉を考えれば、この理由が分かる。連帯をもたらすのが闘争だとすれば、日本人は他の集団と闘争することで連帯を維持している。それは外国かもしれないし、国内の犯罪者かもしれないし、もしくは社会集団ではない何か——自然災害や生活環境の悪化——かもしれないが、まとめると「社会的な正しさに反するもの」のことである。結局は、何らかの外敵を用意する事によって連帯を維持している。(“道徳的”なことをいえば、いわゆる絶望とか悲しみとかを外敵にして集団を団結させようと多くな人が望むかもしれない。それが極めて難しい理由については、次回以降でいずれ)
こうした視点から差別を捉える時、その機能が明らかとなる。差別とは、連帯の弱まった社会集団の中から、一部を外に放り出し、これを闘争の対象とする事だと捉えることが出来る。そうすれば、再社会集団は再び連帯を強め、自らを維持することができる。
大きな社会集団の中では、内部では数々の闘争が発生していることが多いだろう。しかし、ほんの一部を闘争の対象として社会から外すことで、これに対する意見では一致することができる。
最も顕著な例が犯罪者であろう。政治的にどんなに立場が違おうとも、大抵の場合は犯罪者を非難するし、自らの属する社会集団から犯罪者が出ればこれを排斥する。この点において両者は一致し、同じ社会的正しさ、道徳的価値観を共有する社会集団の仲間だと意識することができる。
こうした犯罪の持つ機能から、社会学者によっては、犯罪は社会の維持にとって必要悪であると考える人もいるらしい。私にはなんとも判断がつかないが、そうした機能があるという見解は支持している。
ここまでくれば、社会的な正しさの機能も自ずと明らかになるであろう。「社会的正しさは、それを破った個人や集団、あるいは現象と社会集団を闘争させ、社会集団そのものを連帯させる」。社会の維持には、社会的な正しさが必要不可欠なのである。
これは差別や犯罪にのみ現れる特別な現象というわけではない。例えば友人グループの中で遊ぶ機会の減った人が一人いると、疎遠になったと感じることがあるだろうし、仲の良さでは他の人と一段劣ると考えることがあるだろう。これは,友人グループという社会集団における社会的正しさである『一緒に遊ぶ』というものをその一人が破っているためである。闘争というと激しいイメージを抱くかもしれないが——実際激しいものも多いが——必ずしもそうとは限らない。疎遠にする,というのもひとつである。
もちろん、そんなの特に気にしないと言う人も多いだろう。その集団においては、また別の社会的正しさがある。もしかしたら、先程の例とは真逆に、『一緒に遊ぶことを強要しない』なんてものかもしれない。ともあれ、闘争と連帯はとても身近なことである。
色々と論じてきたが、あえて言えば、これは一面的な考えに過ぎない。社会を維持するのはなにも闘争だけではないだろうし、物事をあまりに単純に捉え過ぎていると言われれば反論できない。私個人が還元主義的なアプローチを、つまり出来るだけ大きな一つの要因でいろいろなことを説明するのが好きな性格なもので、かなり偏ったものになっているかもしれない。要するに、これはあくまで極論である。現実の複雑さを反映しているとはいえない。
そうでなくとも、私からもひとつ、社会が闘争によって連帯すると言う考えに対する反論————ないし、補足を行うつもりである。
次回は、社会的な正しさがいかにして作られたのかを述べていくつもりだ。おそらく今回とはまったく逆だが、ある意味で同じことを述べる事になるだろう。「闘争と連帯とは同じコインの両面である」ということだ。
【まとめ】
・他集団との闘争は、自集団の連帯を強める。
・集団内での闘争は、集団を極限まで分裂させる。
・社会的な正しさは、社会集団に闘争相手を用意することでその連帯を可能にし、社会そのものを維持する。
・闘争と連帯は、とても身近な社会集団でもよく見られる。
・「闘争と連帯とは同じコインの両面である」————ランドル・コリンズ著、『脱常識の社会学』井上俊、磯部卓三訳、p39
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