止まったままの空

鱗卯木 ヤイチ

止まったままの空

「ふぅ」

 アパートの階段を上り切ったところで少し息をつく。1階分の階段で疲れるなんてもう歳かな、そんなことを思いつつアパートの廊下を歩きだす。エレベーターも付いていない築30年の4階建てアパート。駅から歩いて10分、礼金なしの1K、月々5万5000円。不便に感じるところは特になく、俺にとっては十分すぎる住処だった。そんな住み慣れたアパートもそう遠くないうちに引っ越す予定だ。

 目指す先の家から馴染みあるスパイスの香りが漂ってくる。どうやら今夜の夕飯はカレーのようだ。子供のころから嫌と言うほど食べ続けた料理だが、嫌いにならないのが不思議だ。

「ただいま」

 鉄製の重いドアを開けて家の中に声をかけた。玄関のドアは俺の挨拶に応えるように甲高い声を上げ、ゆっくりと動いてからバタンと閉まった。

「おかえりぃー」

 家の奥から声が聞こえる。その声にワンテンポ遅れて、優子がお腹に手を当てながらゆっくりとキッチンから姿を現した。そんな優子のしぐさに俺の目は自然と優子のお腹に注がれた。

 優子のお腹は以前に比べるとずいぶん目立ってきた。妊娠5カ月。俺と優子の子供だ。間違いなく俺の子供なのだけれども、現実感が伴わない。俺が男だからそう感じるのか……。いや、それだけではないだろう。きっと俺自身に問題があるのだ。

 しかし実感が湧こうが湧くまいが優子のお腹はさらに大きくなっていき、5カ月後には子供が産まれる。

「……どうしたの?」

 玄関に立つくしたまま優子のお腹にぼんやり視線を送る俺に、優子が不思議そうに声をかける。

 ……そうだな、考えてどうなるものでも仕方ないか。

「いや、ごめん、何でもないよ。……今日はカレー?」

「うん、そうだよ。わかった?」

「いい匂いだ、お腹減ったな」

「だと思った! もう少し待ってね。すぐ準備するから」

 そう言うと優子は急いで、でも慎重にキッチンへと踵を返す。

「急がなくても大丈夫だよ」

 慌ただしく立ち去る優子の背中に声をかける。

「うん、わかった!」

 優子はそう応えながらも、ペースを緩めることなくキッチンへと消えて行った。

 そんな優子のしぐさに俺は口元を緩める。

 悪くない……。うん、こういう生活は悪くない。いやむしろ長いこと憧れていた生活だと思う。寝室で部屋着に着替えながら俺はそんなことを考えていた。

 優子と数年前に結婚し、ふたりでの生活が始まった。そして数か月後には子供が産まれる。本格的に「家族」と言うものが形成されるのだ。これまで俺には縁のないものだと思っていた「家族」。その一員に俺がなろうとしている。

 俺は両親を早くに亡くした。正確には亡くしたらしい。「らしい」と言うのはその当時の俺はまだ3歳足らずであり、正直よく覚えていないからだ。俺を引き取ってくれる親戚もいなかったのか、物心ついたときは児童施設で暮らしていた。別のそれ自体を悲観したりするつもりはない。幸運にも世間で聞くような施設内での陰惨な虐待やいじめといった事とも無縁であり、施設での暮らしもそれなりに楽しかった。先生も優しかったし、一緒に育った仲間達もいい奴らばかりだった。

 しかし、俺には「家族」と言うものがどのようなものかが良くわからなかった。仲間達とも違う「兄弟」。先生とも違う「親」。テレビドラマや漫画や小説などから、ぼんやりとした「家族」のイメージはあるのだが、手触り感のないどこか違う世界の出来事のような感覚だった。

 そんな「家族」と言うものがどのようなものかもわからない俺が「親」になる? 俺が「家族」を作る? 両親の顔もろくに覚えていない俺が? なれるのか? どうやってなるんだ? どうなれば親になったことになるんだ? そもそも「親」とはなんだ? 子供が産まれれば自動的に俺は「親」になり、「親」として完成されるのだろうか?

 ここ最近同じようなことばかり考えている。優子の妊娠がわかった時はもちろん大喜びをした。でも優子のお腹が大きくなればなるほど、俺は不安になり、そして怖くなってくる。親のことを知らない俺が親になれるのかと。俺に子供を育てることが出来るのかと。俺に子供を愛することが出来るのかと。そしてこんな俺に育てられた子供は幸せなのかと……。

「そろそろご飯できるよー」

 キッチンからの声に俺は我に返る。こんな事をいつまでも考えても仕方がない。そもそも考えてもどうにかなるものでもないのだ。そう、考えても仕方が無い……。だがしかし……。

「あぁ、今行くよ」

 俺は優子に余計な心配はさせまいと努めて平静に返事をする。本当に大変なのはお腹に命を宿す優子の方なのだ。俺がいつまでもウジウジしていたら駄目だ。そう自分を鼓舞し、ダイニングルームへと向かう。

 でも、俺の心の奥には色々な物を混ぜ込んで溶け切らない澱のようなものがつもり、積み重なっていた。



 青と白。

 目の前に広がる風景。

 果てなく広がる青い空。逆説的だがスカイブルーを体現したような青色だった。

 その中に点々と白い雲が散りばめられている。

 またこの夢か……。思わず漏れた言葉は声に出したものなのか、頭で考えただけなのか判然としない。ただこれが夢だと言うことはわかっている。昔から何度も見ているこの夢。空の明るさ、雲の形。空の色、雲の位置。どれをとっても寸分違わずいつも同じだった。

 幼い頃はそれこそ毎日のようにこの夢を見ていた。しかし成長するにつれこの夢を見る頻度は自然と減っていった。しかし、ここ数カ月くらいにまたこの夢をよく見るようになった。

 夢の中の俺は誰かの視点を共有していた。その人物の目を通して俺はこの空の風景を眺めている。視線は空に常に向けられており、他所を見ることは無かった。空を見続けていても雲が流れることもなければ、日が暮れることもなかった。それでもその人物は飽きずに空を眺め続けていた。

 空を眺めているうちに、不意に吸い込まれるような感覚に陥る。上下の間隔が無くなり、自分がどこにいるのかもわからなくなる。本能的な恐怖を覚えた瞬間、割れんばかりの音が響く。その音が外から聞こえるものなのか、自分が発するものなのかもよくわからなかった。すると空の景色を遮るように複数の影が現れて俺に近づいて来た。しばらくすると浮遊感を伴って俺の体が宙に浮いた。先程とは異なり、不思議と嫌な感じはせず、なんだか心地よい気分だった。どこからか声のようなものが聞こえたが何を言っているのかがわからない。そのままの状態がしばらく続くと、世界は何度か明滅を繰り返し、そして最後は完全な暗闇へと沈んでいった。



 ゆっくりと目を開けると、隣で寝ているはずの優子の顔が目の前にあった。

「……またあの夢を見たの?」

「……ああ」

 優子が俺の額に手をやる。少し冷たい手が心地よかった。

「起こしちゃった?」

 優子は黙って首を振るがきっと起こしてしまったのだろう。冷たい手が何よりの証拠だった。うなされる俺を見ていてくれたに違いない。

「……なんだろうね、その夢。青い空と白い雲……」

「わからない……。でも、不快と言うわけでもないんだ。途中少し怖くはなるのだけど、全体的には心地よいと言うか、安らぐと言うか……」

「でも毎回同じなんて不思議だよね。雲の形や位置まで同じなんでしょ? 私も同じ夢は見ることもあるけど、そこまで同じなのはないなぁ」

「記憶力の違いじゃない?」

 俺は目を細めて冗談交じりに言う。すると額に置かれた手が少し離れたかと思うと、俺の額をピシャリと打った。

「あいた」

「もう! 心配してるのにぃ。 知らない!」

 優子はむくれた様にそう言うと、俺に背を向けて布団を被ってしまった。

「冗談だって」

 大して痛くもない額をさすりながら俺は言う。むろん優子が本当に怒っているわけではないのはわかっている。ただ不安なのだ。優子も、そして俺も。この夢を再び見始めたのはここ数カ月の事。そう優子の妊娠がわかった頃から、またこの夢が始まったのだ。

 この夢が何かを暗示しているか、それとも……。

「……優子、心配してくれてありがとう。……おやすみ」

「……おやすみ」

 か細い声で応える優子の後ろ姿を暫く見つめて、俺は再び目を閉じた。



「ねぇ、この色はどうかなぁ?」

 休日の昼下がり。優子が本を見ながら俺に尋ねてくる。

「あぁ、いいんじゃない?」

 投げやりに俺が応えると、優子は口を尖らせて抗議をしてきた。

「もう、ちゃんと考えてよぉ。私達の家の事なんだよ」

「わかっているけど……」

 机の上に積み上げられた分厚い本の束を一瞥して、俺は何度目かのため息をついた。これらの本は新築住宅のサンプル本だった。外装では屋根や壁の色、デザインはもちろん、玄関のタイルの形やドアの種類、カーポートや外灯、郵便受けのサンプルまである。内装に至ってはキッチンや風呂場、トイレの種類、部屋の扉のデザインや各部屋の壁紙の種類などと言ったものが本の中に所狭しと並べられている。それが数冊あるのだ。この本を見て、屋根やら壁やらをどのようにするか一つ一つ決めていかなくてはならないのだ。最終的にはハウスメーカーに出向いて決定となるだが、ハウスメーカーで相談しながら一からやっていては時間がいくらあっても足らない。なので事前に家でサンプル本を見ながらある程度の方向性を決めておくのだ。俺たち(主に優子だが)がやっているのはまさにその作業だった。

「あー、注文住宅がこんなに面倒だとは思わなかった……」

「色々選べて楽しいじゃない。私は好きだよ。見ているだけで夢が膨らむし」

「色々にも限度があると思うけどなぁ……」

 俺はまた本をちらりと見て嘆息した。

 そもそも家なんて大それたものを買うつもりは俺の人生計画には全く無かったのだ。ただ子供が出来たことを契機に今住んでいるこの場所が手狭である事を優子が言い出し、もう少し広い場所へ引っ越そうという話になった。でもどうせ引っ越しにお金をかけるなら自分たちの家を持ちたいと優子がさらにハードルを上げてきた。

 確かに高校を卒業してからこれまでの十数年間、俺は真面目に仕事を続けており、職場での覚えもめでたかった。収入は安定しており、無駄遣いもほとんどしていないので貯蓄はそれなりにある。しかしそれでも家を買うとなるとまだ不安はあった。

 最後の決め手になったのは優子のご両親だった。決断するならば早いほうが良い、金銭的な面でもサポートはすると言われ、もはや後には引けなくなった。

「へぇ、子供部屋のページもあるんだ。あ、これ可愛いなぁ。これなんかもいいなぁ」

 サンプル本を見てはしゃぐ優子。本当に楽しそうだ。しかしこの苦行のどこが楽しいのか……。まぁ、本人が楽しんでいるならば良いのだけど。俺からするとそんな優子を見ている方が楽しかった。

「ほらほらー、見てこれ。可愛い部屋だよ!」

 優子がサンプル本を俺の鼻先に突き出してくる。

「おわっ! わ、わかった、わかったから。見るよ、見るから、もうちょっと離し……?!」

 サンプル本を押しのけようとした時、視界の隅にソレが映った。

「きゃっ、何?」

 俺は優子からサンプル本を奪い取り、ソレを凝視する。片隅の小さな枠だったが確かにソレはあった。血流が速くなるのを感じる。耳元でリズムを刻むような低い音が鳴り響く。そのリズムに合わせるように俺の身体が弾むように動く。リズム音は世界の全てを支配しようとするように徐々に徐々に大きくなっていった。ついにリズム音は最高潮に達し、そして爆ぜた。世界は暗闇に包まれる。何も見えず、何の音も聞こえない。自分が立っているかも寝ているかもわからない。どれくらい時間が経ったのか。何も見えない世界に白いものが浮かぶ。それはあの夢の中の雲だった。

 その時、俺はこれから何が始まるかを理解した。そう、あの夢がまた始まるのだ。



 青と白。

 目の前に広がる風景。

 果てなく広がる青い空。その中に点々と白い雲が散りばめられている。

 俺はあの夢の中にいた。しかし俺は空を眺めてはいなかった。俺は部屋の片隅にじっと佇んでいた。俺の目の前には1、2歳くらいの幼子がひとりベッドに寝ころんでいた。幼子はベッドに寝転んだままじっと天井を見続けていた。

 幼子の眺める先には、様子の変わることのない青い空と、いつもと同じ形をした白い雲があった。ここは子供部屋だった。部屋中に空の風景が描かれている部屋だった。

 幼子はしばらく天井を見続けていた。空に何かを感じたのか、不意に大声で泣き始めた。すると階下から猛然と駆け上がる音がして子供部屋の扉が開けられた。

 扉から入ってきたのは俺と同じか少し下くらいの年のふたりの男女だった。ふたりは慌てた様に幼子に駆けよる。

「どうした、ボウズ。何かあったか?」

 男の方が泣き続ける幼子を覗き込み、声をかける。

「一人で怖かったんだよねぇ」

 女の方も幼子を覗き込み、幼子の涙を拭ってやる。

「そうか、そうかぁ。一人で怖かったかぁ。ほら、大丈夫だぞ。父さんも母さんもここにいるぞぉ」

 そう言って男は幼子を抱き上げ、その胸に抱いてやった。

「おぉ、重くなったなぁ。この間までこの半分もなかったのに。はは、こりゃあと何回抱っこしてやれるかなぁ」

 男は嬉しそうに、そしてほんの少しだけ寂しそうに独り言ちる。

「ほんと、そうね。あっと言う間……。この子が大人になるところを早く見たいような、もう少しこのままでいて欲しいようなそんな気がするわ」

 女はそう言って男に抱きかかえられた幼子の頭を撫でてやる。幼子はいまだしゃくり上げてはいるが大泣きすることは無くなっていた。そしてふたりの男女に囲まれて安心したのか、今にも目が閉じてしまいそうだった。そんな愛息に目を細めるふたり。

 大人になるところを見たい、女の願いは叶わない事を俺は知っている。このふたりはそう遠くない未来に事故にあって死んでしまう。そしてその子は一人残され、児童施設へと送られるのだ。父親と母親の記憶もほとんど持たずに……。

「ボウズはどんな大人になるかなぁ。立派な大人になれるかな? そのうち嫁を貰って子供も出来るのかなぁ。そしたらその子は俺たちの孫だな。孫にはいつ頃会えるかな、ははは!」

 男は愉快そうに笑う。心底楽しそうな男の笑い声。女の慈愛に満ちた顔。それらの全てが俺を苛立たせた。さざ波のように俺の心が細かく揺れ動くと、深く積もっていた澱が雪のように舞い、俺の身体中に広がるのを感じた。

 俺のもとにだけ来なかったサンタクロース。独り教室で食べる運動会のお弁当。親族席のない優子との結婚式。そしてこれから産まれるであろう子供の事。

 気にも留めていないと思っていた数々の過去の出来事が俺の身体中を駆け巡り、俺の心を焦がしてゆく。その焼かれるような痛みに耐えかねて俺は叫んでいた。

「だから無理なんだ! 会えないんだよ! あんた達はもうすぐ死ぬんだ! 死んでしまうだ! だからその子が大きくなるところも、優子にも、俺だってまだ会っていないあんた達の孫にだって会うことはもう無いんだよ!」

 俺は声の限り叫んだ。しかしその声は彼らには届かない。彼らは寝入りそうな愛息を愛し気に見つめているだけだった。

「本当に大人になった俺に会いたいならなんで死んだのさ! なんで俺を独りにしたのさ! ふたりだけで勝手に死なないでよ! 独りにするくらいなら俺も一緒に連れて行ってくれれば良かったのに!」

 俺がどんなに叫んでも、どんなに喚いてもふたりは俺を見ることもせず、ただただ男に抱かれた幼子を見つめ、あやすだけだった。

 俺は床に目を落とした。俺を見てもくれない事が切なくて……。想いを伝えられない事がもどかしくて……。何も出来ない事が悔しくて……。

 リノリウムの床に雫がこぼれ落ち、小さな水たまりをいくつも作った。

「……泣くな、ボウズ。心配するな」

 男の言葉に俺は顔を上げた。男は俺の方を向いてはいない。先程と同じようにしゃくり上げながら寝ようとしている幼子に視線を向けたままだ。でも……。

「これから楽しいことばかりでなく、辛いことや、悲しいこともあるだろう。その時は出来る限り俺たちがお前の助けになってやる。

 ……だが俺たちはいつまでもお前と一緒にいられるわけじゃあない。お前が辛い時に傍にいられないかもしれない」

 男は続ける。

「それでも大丈夫だ! どんな障害でも困難でもきっとボウズなら簡単に乗り越えて幸せになれるはずだ。なぜなら、お前は俺達の子だからな! ハハハッ!」

 男はそう言って豪快に笑った。

「シィー! もう、この子がびっくりしてまた泣き出しちゃうじゃない!」

 女が男を窘めると、男は慌てて声をすぼめ、恐る恐る幼子を見やった。幼子は我関せずと言った感じで寝息を立て始めていた。

 まるで理屈になっていない男の言い草に俺は半ば呆れたが、不思議と先ほどまで俺の中で飛び回っていたたくさんの澱はどこかへと消え去っていた。その代わり、まだとても小さくて弱々しくはあるけれど、不思議な光を放つ暖かい何かが俺の中に灯った気がした。

「それじゃ下に行きましょうか」

「そうだな」

 女がそう声をかけると、男もそれに従った。

 男は幼子を抱き上げたまま一旦子供部屋を後にしたが、忘れ物を思いだしたように子供部屋の覗き込み、部屋の中を見回した。

 そんな様子に俺は小さく声をかける。

「……いろいろ簡単ではなかったけど、結婚もして俺は幸せにやっているよ。

 ……そして今度、子供も産まれるんだ。うまく親になれるかはわからないけど、何とかやってみようと思う」

 俺がそう言うと、部屋に異常が無いことを確認した男は満足したように大きく頷いた。それから男は子供部屋の扉に手をかける。

「……さよなら、父さん、母さん。いつまでもお元気で……」

 俺がそう告げると同時に子供部屋の扉は閉じられた。

 主を失った子供部屋は日が沈むように徐々に闇に染まっていく。闇が完全に部屋を包み込む直前、階下から暖かな笑い声が聞こえた気がした。誰の声かはよくわからなかったが、それが「家族」の笑い声であることは間違いないと俺は思った。



 気づいたらいつもの部屋にいた。先程座っていた位置と特に変わってはいない。俺はサンプル本を膝の上においた状態で呆けた様に宙を見つめていたようだ。

 左側に優子の視線を感じる。

「……大丈夫?」

 優子が心配そうな表情で俺に問いかける。

「……俺はどうしてた?」

「サンプルの本をじっと見て、そしてほんの少しの間だけボウっとして……。そして泣いてた」

「え?」

 そう言われて目に手をやると、目頭に溜まっていた涙がまた一つ零れた。俺は慌てて涙を拭った。

「……ごめんね」

「……なんで優子が謝るの?」

「だって、そんな壁紙を見せちゃって……」

 優子は俺の膝の上に置かれたサンプル本に目を向けていた。優子も気づいたのだろう。子供部屋用の壁紙サンプルに青空を模した壁紙があったことに。そして俺の様子から青空の壁紙が俺の夢と何らかの関係があることを察したに違いない。

「……優子は何も悪くないよ」

「でも……。」

 泣きそうな声の優子を遮るように俺は続ける。

「優子は悪くないよ。……むしろ感謝している」

「……」

「また、さっき夢を見たんだ、青い空と白い雲の……。子供部屋だった。

 そこには1、2歳くらいの小さな子供がいて……。天井に描かれていた空を見ていて……」

「……」

「……そして、両親にとても愛されていた」

 先程までの光景が俺の目の前に浮かび上がる。父に抱かれ安心して居眠りをする幼子。そんな幼子を愛おしそうに見る母親。幼子のその小さな体では受け止めきれないほどの愛情をその子の父と母は注いでくれていた。

 鼻の奥がツンとして、視界がぼやけてくる。とても我慢がききそうもなかった。そんな様子を優子に気づかれないように、俺は天井を見上げた。

「……だから大丈夫。もう俺は大丈夫」

「……うん。……うん」

 俺は天井を見上げたまま、既に泣き出している優子の肩を抱きしめた。そしてもう一つの手で優子のお腹に手をやる。その手の上に優子の手が添えられた。

「……ひとつ、わがままを言っていいかな?」

「……なに?」

 俺はサンプル本のある個所を指さして言う。

「子供部屋の壁紙はこれにしたいんだ。青い空と白い雲が描かれたこの壁紙に……」

「……っ……」

 優子の返事は聞こえなかったけれども、隣で何度も何度も頷いているのがわかった。

 俺は家族と言うものが、父親と言うものがどのようなものかがいまだに良くわかってはいないけど、これから生まれてくる子供を精一杯に愛そうと思う。俺の父と母がそうしてくれたように……。


 ぼやけたままの天井は次第に色と形を変えていき、スカイブルーの青空になってゆく。そしてその青い空には、白い雲が様々な形に姿を変えながら、ゆっくりと流れていた。

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止まったままの空 鱗卯木 ヤイチ @batabata2021

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