部屋とマクラと私

むふー。とあふれ出す笑顔のまま、彼女は薄茶色の海へと飛び込んだ。

しかしそれは本当の海ではなく、汚れたベッドの上に渦を巻くシーツたち。

何回かその反発を楽しんだのち、ひときわ大きな枕へとその小さな顔をうずめた。

「……もうよしましょうよ姫様。はたから見るとただの変な……って痛っ!」

側に打ち捨ててあったゴミを、その反論の源へと投げつける。

「ズァン……じゃないズパ。お主は黙って見張りをしておれと言ったではないか!」

すべらかな、足元まで届く金色の髪を振り乱しながら、彼女ーネネル姫ーはお供のズパへと怒りをの矛先を向けた。

「つーかちょっとボクには無理ですよこんな場所。何百年も洗ってないような寝具しかないし、おまけに床はゴミだらけだしで」

「それに関しては我慢しろと何度も言ったではないか。風呂が誰よりも嫌いなアイツのことじゃ。寝床がこういう状態なのは予想していたであろう? それにお主もラッシュと契約をしたではないか」

「いや、まあ……そうですけどね、とはいえラッシュとは寝食を共にするとまでは言ってません……って姫様ァ!」


ネネルはまた、ラッシュの使っていたであろう汚れまみれの枕に顔をうずめていた。

「これが……あいつの匂いなのか」

「いやいやいややめてください姫様、それ匂いじゃなくて臭いですよ! そんなに深呼吸したらいくらマシャンヴァルの人であったって即死しちゃいますから!」

だがネネルはそんな必死の忠告にも耳を貸さず、時にはシーツを、そして枕へと、まるで花畑でたわむれるかのようにその悪臭を放つベッドへと、また小さな身体を預けた。


「だがなズパ。お主にはこれでも感謝しておるのだぞ。今までこの安宿へは変装でもせんことには訪れることが出来なかったしな。それがどうじゃ。お主の水紋の力を使えば、瞬きもせぬ間にここに着けるのじゃからな、これを最高と言わずして……」

「とはいってもこのチカラも多用はできませんぜ姫様。ボクだってまだ身体は完全に回復しちゃあいないんです。この距離……せいぜい姫様を連れて行くのがやっとこさですし」

「ああすまぬ。今日だけじゃ我慢してくれ」


本当ですか? とズパのシャボン玉のような丸いため息が、ズパの口らしき穴からぽわっと浮かび上がった。


「……苦しいのだ」

「え、今なんて?」


「あいつを……ラッシュのことを思うと胸の奥がこう、ぎゅっと握られるほどの痛みがするんじゃ。わかるかズパ。妾がこの世界に生を受けて何千年も経つが、このような不可思議かつ耐え難い痛みは生まれてはじめてなのじゃ!」

「姫様、それってもしかして……」

「だが奴には一向に近づくことなどできるわけがない。そうしている間にも妾の胸は鼓動と共に大きく張り裂けようとしているというのに! じゃが……」

泣き出しそうな顔を、シーツであわてて隠した。

「ラッシュが欲しいのじゃ。なにか……アイツのかけらでもいいから。それを妾はずっと抱き留めていたい。だからこそ見つけたのがここなんじゃ。確かにお主にはうずたかく積まれたゴミの臭いしかせんであろう。じゃが妾にはこれこそが千年の薫香のごとき……いや、永遠に香る薔薇に勝るとも劣らない香りとすら感じられるのじゃ。そう……ここに埋もれていればこの胸の痛みは、ほんのわずかほどでも癒されることができるのじゃ」


うげえ、とズパはうんざり顔の仕草をしようとしたが、急いで素の表情の見て取れぬ顔へと戻した。

「この枕、妾の寝室へ持ち帰ることは可能か?」

「そりゃいくらなんでも無理ですよ……」

「なら、もう少しこの場に居させてくれ……」


そう言ってネネルはラッシュの枕を抱きしめたまま、すうすうと深い眠りへとついた。

「はあ……なんでまた姫様、こんな男を好きになってしまったんですか」

しかしネネルは夢うつつのままズパには答えず、寝言のような、しかし強い願いのような言葉を彼へと向け、また眠った。


「なぜ……あいつはラッシュなのじゃ?」と。

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