第15話 全ての輪がつながるとき

 高校を卒業して軍での年季奉公を終えるまで、岬さんは戦争に送られないか心配しながらも、独力で学業を続けて待っていてくれた。改めて就職した僕は、夜間の大学に入った。

 お互い社会人となった僕たちは、やがて、お互い結婚を誓い合う関係になる。

 僕は彼女のルーツとなった杵築家のある土地を訪ねて、そこに新居を定めることにした。杵築家の人たちは快く僕たちを迎えてくれたし、地元の人たちも見ず知らずの僕たちを、まるで子供時代から知っていたかのように受け入れてくれた。

 結婚や引っ越しを控えて大わらわの毎日となったが、そんな中でも僕が岬さんと真っ先にやったのは、その土地の氏神を訪ねることだった。知り合うきっかけとなったあの事件で、土地の神社や祠といったものがどれだけ人を強く結びつけているかを知ったからだ。

 ただその時、僕が岬さんに内緒でやったことがある。絵馬の奉納だ。下手に見られたら、何をお願いしたのか聞かれるに決まっている。

「どうしたの、才くん?」

 社殿や拝殿、境内の灯籠や大きな銀杏の樹に気をとられていた岬が振り向した。そのときにはもう、僕は5月の眩しい空を見上げている。

「あ、別に……」

 もちろん、見られて困ることは書いてない。だが、岬は悪戯っぽく笑いながら、拝殿の前にずらりと並んだ絵馬を眺めて回る。

「ふ~ん……怪しいなあ」

 いや、何も書いてないから困るのだ。そもそも絵馬というのは、神様への願いを込めて、馬の代わりに絵を捧げるものだから。


 《どうかヨウコに会わせてください……せめて、もう一度だけでも》


 もちろん、叶う願いじゃないってことは分かってる。岬さんを生涯の伴侶に選んで、いくら何でも、それは許されない。

 だが、あの絵馬を神社に残してきたことで、心のどこかに引っかかっていた想いに区切りをつけることができたのだった。


 さて、そんなある日のことだ。

 杵築家の蔵の虫干しを手伝うことになった僕たちは、古い書物だの写真だのをひっくり返して整理することになった。

 そのとき、岬さんが遠慮がちに「あのね」と語り始めたことがある。

「私、隠していたことがあるんだけど、聞いてくれる?」

 この手の話はろくでもない秘密であることが多い。僕は少々、怯えた。

「あ……うん」

 じつは高校生の頃に向坂……さんと何かあったとか?

「子供の頃から、人に見えないものが見えたり、会いたくない人と会わずに済ませたり、そういうことができたの……おかしいでしょう?」

 そのとき、忘れかけていた妖狐のヨウコとの半年間が、いっぺんに蘇った。

 笑ったり、僕をからかったり、ちょっと拗ねたり、だだをこねたり……。

 だが、追憶にふける僕を現実に引き戻したのは、岬さんの不可解な一言だった。

「だから、才くんにも妹さんにも、ちょっと失礼なことを」

 結婚を約束してから、僕は「才くん」と呼ばれるようになっていた。そこのところに引っかかりはない。戸惑ったのは、何が失礼だったのか心当たりがなかったことだ。

「ええと……いつの話?」

「学校に、よく遊びに来てたでしょう? 妹さん。図書館にも」

 そういえば、そんなことがあった気がした。だけど、確かあの時、ヨウコの姿は誰にも見えなかったはずだ。

「すっごく可愛いのに誰も問題にしてなかったから、私、いつもの幻見てるんじゃないかと思ってたの。でも、いっぺんコンビニで見たから、そうでもなかったみたいだし……あ、今、どうしてるの?」

「あ、ああ、さっさと結婚して、遠くに行った」

 その嘘に、あの時と同じくらい胸が痛んだ。本当は、僕の幸福のために、この世から消えたのだ。でも、それは岬さんが知らなくても、いや、知らないほうがいいことだ。

「そう。会うことがあったら、宜しく伝えてね」

「あ、ああ」

 曖昧に応えるしかなかった。二度と会うことはない。心の中では、そう思っても。

 かなりの荷物が蔵の外に出た。がらんとした空間の中で、岬さんはころりと横になる。その仕草は、どこかヨウコに似ている気がした。

「私ね……才くんが思ってるよりずっと変な子なんだ。だから、あんまり人と付き合わなくって」

 その少数の中に向坂さんがいたわけだ。あれから、僕たちの前には姿を現していない。忙しいのか、忘れられたのか、それとも避けているのか。

「何かテンパっちゃうと、ふっと意識がなくなって、別のところにいたりとか」

 それは知らなかった。ちょっと心配な気がしたが、その経験を聞いて、あっと思った。

「ほら、才くんが神社で倒れたでしょ? 気が付いたら、ご自宅で介抱してたりとか」

 あれは、ヨウコの仕業じゃなかったのだ。

「それに、何だか、向坂さんの告白お断りする前に、事故で死にかかってたような気がしてるの」

 それは、ヨウコの仕業だ。思い出すのがつらくて、僕は話をはぐらかした。

「でも、酔っ払いは意識がなくても、きちんと自宅に帰るっていうし」

「そういえば……そうだったわよね」

  怖い目で睨まれるのは、酒が飲める年になって、僕もそういうことがちょくちょくあったからだ。たまに、岬さんにも呆れられたことがある。

 藪蛇になりそうなので、僕は再び蔵と杵築家の歴史の整理に取り掛かった。

「まず、ルーツは偶然にも、僕の実家の辺りだった」

「信夫ヶ森の宇迦之御魂神」

 岬さんが合いの手を入れながら、古い書物の箱を空けた。糸で綴じられた、分厚い本が何冊も埃をかぶっている。しなやかな指が、その中の一冊を手に取って開いた。

「あ、ここにもある、五穀豊穣を祈り、分社して伏見稲荷を氏神として祀ってきたって」

 やっぱり才媛だ。僕の目には長い波線にしか見えないが、岬さんの目には1字1字がくっきりとした形を取って見えるのだろう。

 だが、結婚前にあまり情けない所も見られたくないので、何もかも分かっているようなフリをしてみせた。

「ウチのほうも山奥の土地だからな、痩せてたんだろ」

 やっぱり才媛だ。僕の目には長い波線にしか見えないが、岬さんの目には1字1字がくっきりとした形を取って見えるのだろう。

 だが、結婚前にあまり情けない所も見られたくないので、何もかも分かっているようなフリをしてみせた。

「で、分社したのが私のひいお爺さん。結婚した相手が、この人」

 写真を見せられて、再び、あっと思った。その女性は、果てしなく似ていたのだ。

 信夫ヶ森の妖狐のヨウコに……。

 その時、僕の頭の中で、全てがつながった。


 第一次世界大戦が終わったとき、狐に化かされたのは、杵築家の曽祖父だったのだ。戦争で疲れ切った彼は妄想に取りつかれ、自転車をかついて村を夜中じゅう彷徨したのだ。幼い狐のヨウコが見たのは、それだろう。

 彼が結婚したとされる相手は、実際にはスペイン風邪で死んでいた。身代わりとなったのが、信夫ヶ森の妖狐だった。それがヨウコの語った、狐の嫁入りだ。

 そう辻褄を合わせると……。

「なあに? 才くん」

 僕を見つめ返す岬さんには、妖狐の血が流れていることになる。憶測だが、それなら同じ妖狐のヨウコが見えても不思議はない。さらに、狐に化かされたお寺のお坊さんの話を考えあわせれば、岬さんの不思議な経験も説明がつく。

 あれは、初めと終わりの閉じた空間……つまり、一種の結界だったのだ。おそらく、岬さんはそれを無意識に作れるのだろう。

 だから、実家に連れて帰ったとき、前日から会うのが後ろめたかった向坂さんは岬さんに遭うことができず、当日も車は、神社にたどり着けなかった。瀕死の重傷を負ったときに会うまいとした僕も、それと同じように記念公園に近づけなかった。

 逆に実家で、岬さんが僕を一瞬で自宅に運べたのも、神社と結界で結び付けたからだ。そういえば、図書館を出たときに姿が消えたような気がしたことがあったが、それも同じ理屈だろう。

 そんな力を持った家系なら、祖父がニューギニアの激戦地から生還できたのも頷ける。彼は、無意識のうちに妖狐の力を使っていたのだ。

 そして彼は杵築家から由良家へと婿養子に入り、高度成長期に都市圏へ出てひとりの娘を設け、夫を迎えて岬さんが生まれた。もし、あの町の地下で、忘れられた戦争が牙を剥かなかったら、僕はどんなに美しい義母を持つことになっただろうか。

 その妖狐の力は、現代の災いを避けられないものだったのか、それとも娘に引き継がれて終わりだったのか、それは僕にも見当がつかない。

「どうしたの? 私の顔になにか付いてる?」

 せっせと顔を拭く岬さんの仕草は、寝起きのヨウコによく似ていた。

 ヨウコは1000年生きて、狐龍になることはできなかった。でも、こんな形で、僕のすぐそばで生きている。

 だって、こうは考えられないだろうか。


 彼女の実家でも、第二次世界大戦が終わる頃まで狐が人を化かしていた。

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ぼくの実家では第一次世界大戦が終わる頃まで狐が人を化かしていた 兵藤晴佳 @hyoudo

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