第24話.志田桜「息子を置いて逃げる親がどこにいる」

【志田桜】


 土色のブヨブヨした肌に、赤みがかった腹。短い足に比べて長く大きな腕が特徴的だ。爪も鋭く、あれで切り裂かれてはたまらないだろう。巨大な下顎にはダラダラと唾液が垂れ流しになって地面に落ちている。そして何よりも、その黒い角が存在感を放っていた。


 角の色が異なる魔物には、手を出すな。


 それは新米組合員が最初に先輩たちから忠告される言葉だ。私たちもトーランドさんやラナールちゃんから厳しく言われてきた。


 角は魔物の魔力生成器官である。普通の魔物は角が白に近い色をしている。それは込められた魔力の質や量によるものらしい。

 黒い角は確か、魔力の多い魔物の証拠。私たちが今まで戦ってきた魔物とは明らかに力の格が違う。


「桜! ぼーっとしないで逃げるよ!」


 立ちすくんでいた私の腕を真太郎さんが引っ張った。そうだ。逃げなくちゃ。勝てるはずないんだから。


「ゴアァァアッ!」


 逃げようとした私たちを見て、鬼は愉快そうにヒョイと何かを投げてきた。

 コロコロと坂を転がったそれは、血塗れの人間の腕だった。


 私たちが恐怖するのが、楽しいのか。腐った根性してやがる。


「ヒィッ!」

「ゴァッゴァッゴアッ」

 それを見て怯える一樹に、手を叩いて喜ぶ鬼。醜悪だ。


「止まるな! 行くよ!」

「はい」


 真太郎さんに急かされて逃げようと走り出す。幸いすぐに襲いかかって来ないようだから、今ならまだ逃げられる。


「ま、待って……う、うご、動けない……」

 一樹がガチガチと歯を鳴らしている。腰を抜かしてしまっているようだ。


「一樹! 無理にでも走れ!」

 真太郎さんが一喝するが、一樹は全く足に力が入らないようだ。こんな状態の時は一人では本当にどうしようもないことを過去の経験から知っている。


 だから一樹の腕を引っ張って無理矢理立たせようとしたけれど、一樹の装備が重いこともあって中々一人の力では厳しい。真太郎さんは私たちが逃げるまで鬼に背を向けたりはしないだろう。


「か、母さん、俺を置いて逃げ――」

「――そんなことできるはずがないでしょう!」


 息子を置いて逃げる親がどこにいる。


「ゴァァアァ!!」

 鬼がこっちに向けてドタドタと不器用に走り出す。駄目だ。間に合わない。


「『ファイア』」

 真太郎さんの火球による牽制も、鬼のブヨブヨとした土色の肌にはまるで意味を成さない。


 息を吐き、覚悟を決める。戦うしかない。一樹が逃げるまでの時間を稼げさえすればそれでいい。


「一樹、逃げなさい!」

「桜、君も――……いや、そうだね。親としての務めを果たそうか」


 私の表情を一瞥して、真太郎さんは鬼に向き直った。そうだ。答えは決まっている。息子を守るには戦うしかないのだ。


「『回術』」

 魔法を真太郎さんの腕にかける。シュウッと音を立てて真太郎さんの腕の腫れが引いていく。


 『回術』は回復系魔法の中でもかなり強力な部類に入る。細胞に魔力を与えることで活性化させ、自然回復力を極限まで高めることが可能だ。何でもありなわけではないがその他にも色々と応用は効く。

 だが一瞬では骨折した骨を軽く修復することと、内出血を解除することくらいしかできない。


「真太郎さん、どいてください! 私が受けます」


 鬼は完全に一樹に狙いを定めている。怪我をしている真太郎さんじゃまともに鬼の攻撃をいなせないだろうから、私が止めるしかない。


「でも――」

「っ、いいから! 邪魔!」

 無理矢理押し退ける。


「ウガァアァアッ!」

 直後飛び込んできた鬼の爪を、頭上でメイスを使って受ける。


「『回、術』!」


 鬼の爪を受け止めた瞬間、その重みに耐えきれず前腕の尺骨と橈骨が折れ、筋肉が切れる。踏ん張ったせいで恐らくアキレス腱も切れた。各所から血が噴き出たが、血小板を活性化させることで無理矢理血を止め、瞬時に筋肉や血管、骨を修復する。


 この『回術』という魔法はとても便利だ。普通の人なら単に傷を治すくらいしかできないだろうが、医学知識のある状態なら使い勝手が大きく異なる。通常の回復系魔法なら感染症や癌なんかは治せないかもしれないが、この魔法なら好中球やマクロファージ、補体などの免疫系を活性化することによってそれすらも治しうる。

 その上自分の身体なら更に回復力は高い。常に傷を治しながら戦えば、それなりに無茶もできる。


「ウグァ?」

 止められるとは思っていなかったのか、鬼が不思議そうに目を丸くする。


「オラ!」


 巨大な腕の下から無理矢理逃れ、右足の親指をメイスで思い切り叩く。下に地面があるから衝撃が乗りやすく、また人間と同じならきっと骨も簡単に折れるはず……!


「ウゴアァァ!」

 鬼は悲痛な叫びをあげてつま先を手で押さえる。予想通り、弱点がないわけではなさそうだ。


 続けて地面の砂を手でつかんで、鬼の目をめがけて振りかける。目つぶしだ。使えるものは使う、それで勝てれば文句なし。不本意だが、昔の経験が生きている。


「ガアッ!」

 今度は目を押さえる鬼。チャンスだ。


「吹っ飛べゴラァッ!」

 気合を叫びながら大きく振りかぶって、金属バットを振るように思い切り鬼の顔面に向けてメイスを叩きつける。ゴキャッという嫌な音と共に、鬼の下顎にヒットした。手応えあり、下顎骨折間違いなしだ。力の入れすぎで切れた筋肉は一瞬で修復する。


「ゴアァ!」

 叫び、よろめいた鬼は、数歩後ろに下がって低く唸った。


「『ファイア』!」

 そこに大きな火球を真太郎さんが叩き込む。体勢の崩れていた鬼は、火球の衝撃でドスンと尻もちを着いた。


「一樹、逃げれる!?」

 鬼から目を離さず訊く。逃げられるなら逃げた方がいい。油断をしたら一瞬で殺されかねない。


「う、うん、ごめん、俺……」

「気にしないでいい! ここは私が止めとくから、真太郎さんは一樹連れて先に逃げ――」


「――ゴアァアアアァアアアァアァアァァァアッ!!!!」


 鬼は山を揺らすほどの雄たけびを上げた。その目にはもう愉悦の感情はなく、単に怒りの色が浮かんでいるのみだ。


 その小さな目は私だけを見ていた。大きな下顎は歪んでしまっている。


 良かった。これなら私だけ残れば二人は逃げられそうだ。


「――母さん、危ない!」


 腹部に、鋭い痛みが走る。

「……え?」


 地面から生えた鋭い棘が、私の腹を貫通していた。血液が棘を伝って、地面に流れる。


「――カハッ」

 消化管をやられたのだろう、吐血した。

 魔法を使える魔物がいるとは聞いていたが、まさかこいつがそうだったなんて……。


「一樹! 真太郎さん! はやく、にげて! 今なら……」


 ちくしょう、呼吸が苦しい。喉に血が溜まって空気がうまく吸えない。傷を治そうにも棘が刺さっているせいでうまく治せない。


「嫌だ!」

 一樹は強化された剣で土でできた棘を切断してくれた。鬼は真太郎さんが火球で牽制している。


「俺のせいでこうなったんだ。今度は、俺が守る」

「でも、一樹……!」


 一樹はぎゅっとこぶしを握る。先ほどまで震えていた息子とは様子の違う、男らしい表情に思わずハッとなる。彼はここでまた一つ、大人になったのか。


「さっきまで、怖くて、母さんが戦っている時も震えてた。……でも、今気付いたんだ。俺は、二人が死ぬ方がもっと怖い」


 大丈夫、と一樹は呟く。

「――あんなノロマな攻撃、当たるかよ」

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