世界の秘密編〜思わぬ来訪者〜
第21話.志田一樹「うちの、シャンプーの匂いだ」
【志田一樹】
グレニラーチで暮らし始めてから、朝には強くなった。毎日疲れるからすぐに眠くなる上に、ネットがないから夜遅くまで起きてやることもない。暇な時間を凌ぐには、家族と会話するか本や漫画を読むしかない。勉強をやれと母さんには言われているけど、正直やる気は全く起きない。
だからいつも六時にはみんな起きだして活動を始めるんだけど、今日はそれ以上に早い時間に目を覚ました。朝の四時。日本ならこの時間に眠ることも多かったなぁ。もう、昔のことのように感じる。
わざわざこんな時間に起きた理由は、こいつだ。
「あれ、カズ君、こんな時間にどうしたの?」
玄関でブーツを履いていた白銀の髪を持つ少女――セラが、眠そうにあくびをした俺を見てそう言った。
「……なあ、何? その呼び方」
「え、何が? どうかしたの? カズ君」
「それだ。その、カズ君っての。やめて」
「え、でもお義母さんと二葉ちゃんが、カズ君は特別な呼び方の方が喜ぶって……」
「喜ばねえよ! てか段々聞きなれてきたけど、お義母さんってのもだいぶおかしいからな」
あの二人、完全に遊んでやがる。セラがコミュニケーションに疎いからって、何でもかんでも吹き込もうとしている。なんて極悪非道なやつらだ。
「じゃあ、他の案かなぁ。カズぴ? カズたん? カズさま? どれがいいの?」
「……カズ君で、お願いします」
「うん、じゃあそうするよ、カズ君」
――くそう。不意打ちのその笑顔は、反則だ。
「それで、こんな朝早くにどうしたの? カズ君、この時間いつもよだれ垂らして寝てるのに」
「何で俺がよだれ垂らして寝てること知ってんの!? いや垂らしてねえけど! …………見送りだよ」
「――え」
昨日の夜遅く、大賢者エイモアの使いが我が家を訪ねてきた。理由はセラへの救援要請だった。グレニラーチからほど近い山岳部に、滅多に出ない龍種の魔物が現れた。既に複数の上級組合員パーティが討伐に向かっているらしいが、まるで歯が立たずどんどんグレニラーチに近づいているらしい。このままでは街が攻撃されてしまう可能性が高いため、街護衛依頼に基づき、セラに討伐を手伝ってもらいたいとのことだ。
ラナールさんに以前聞いた話では、龍種はどの個体も魔物の中でトップクラスに危険な魔物らしい。噂では国を滅ぼした龍種もいたとかいないとか。ラナールさんの話だからただの噂にすぎない可能性も高いけど。
セラは「へへ……」と少し照れくさそうに笑うと、後ろで手を組んで、前かがみになった。
「――ありがと。見送りされるのなんて初めてだけど、嬉しいな」
長い髪が、一部さらりと前に流れた。高低差があるため上目遣いになっている。前かがみになったせいで、二葉からもらった青いワンピースの胸元が緩み、真っ白な鎖骨と――
「――はい反則です。イエローカード」
セラの上体を引き起こし、背筋を真っ直ぐにさせる。セラは不思議そうな顔をしているが関係ない。目に毒だし心臓に悪い。
ふう、と一つ息を吐いた。彼女を相手にすると疲れる。
彼女が自分のことを好いているなどと、勘違いしてはならない。そもそも、彼女は俺の目に興味があっただけなのだ。魔力を見ることが出来る目。彼女がそれを必要とする理由を、俺は数日前に訓練の際に知ったばかりだ。
今まで必死に生きてきて、恋愛なんてしたことないセラは、きっと自分の気持ちに気付いていない。やっとできた家族に無邪気に甘えているだけだ。俺のことだって、恋愛の好きとは明らかに違う。恋人や結婚相手というよりは兄に近い。母さんや二葉が「好きなんでしょ」と言うから、そういうものなんだと思い込んでいるだけ。要するにただの勘違いだ。
だからって俺が彼女の好意を否定することはできない。だってセラは、俺への好意がこの家にいる条件だと思ってしまっているから。それを否定したら、セラはもうこの家にいる理由がなくなってしまう。また一人になってしまう。
それだけはできない。本物の「好き」じゃなくても、ただ無自覚に利用しているだけだったとしても、構わない。俺は彼女に、この家にいて欲しいのだ。
それはきっと、俺が既に彼女に恋をしてしまっているから。
無邪気な笑顔に。絹のような白い髪に。宝石のような紅い瞳に。時々見せる、妖艶な微笑みに。散々稽古をつけてくれた後の、流れる汗に。――俺とセラ以外誰も知らない、あの夜の涙に。
それともこれも、勘違いだろうか。恋愛経験がないのは、俺も同じか。
「いえろーかーど?」
セラが小首を傾げる。大きな瞳がまっすぐに俺を見ていた。潤った唇が、すぼめられて艶っぽい。
「はいイエローカード二枚目。レッドカード。退場です」
スリッパに履き替え、玄関の扉を開ける。空はまだ薄暗く、微かに星も見えていた。
「……いってらっしゃい」
「うん、いってきます!」
そう言ってセラは、無邪気に俺に抱き着くと、そのまま走って朝になっていく街に飛び出していった。ほのかに甘い香りを残して。
うちの、シャンプーの匂いだ。
たっぷり十秒は固まった後、扉を閉めて家に戻る。
――母さんと二葉と三華の三人が、リビングからニヤニヤと顔を覗かせていた。
▽
「おはようございます、リーナさん」
「あら、おはようございます、志田さん。今日は美しい奥様が一緒なんですね。仲が良くて羨ましいです」
組合の受付嬢であるリーナさんが、父さんの後ろに立っていた母さんを見つけて頭を下げた。
「ええ、今日は二葉が休みの日ですから。毎回あの子に頼っていては、疲れてしまうでしょうしね」
父さんのいう通り、今日の依頼は二葉なしで受けることになった。悔しいけど、二葉は現在の志田家パーティ最高戦力である。初級や下級の依頼なら、二葉がいればどうにでもなることがほとんどだ。なんせ二葉が本気で攻撃すれば、ほとんどの魔物は一撃だ。
このままでは、実力が追い付いていないのに階級が上がってしまうことになる。それが悲惨な事故に繋がることは予想できることだった。
「そうなんですね。たしかに二葉さんの実力は、下級レベルじゃないって他の組合員も噂していましたよ」
「どうも、ありがとうございます」
ぺこりと父さんと母さんが頭を下げる。娘が褒められて嬉しいのか、二人ともニコニコとご機嫌だ。
「リーナさん、下級で何かいい依頼あります?」
そんなやりとりが面倒くさく感じて、父さんの横からリーナさんに声をかける。
「下級依頼ですね。本日はこちらの依頼がございます」
彼女が出してきた数枚の紙を受け取る。依頼書だ。依頼書に名前かパーティ名を書いて提出すれば受付完了。
緊急性の高い依頼は「ボード」と呼ばれる掲示板に貼られているが、それは中級以上のものがほとんどだ。下級である志田家パーティは、直接受付に聞かなければならない。
「えーっと、セイガバットの討伐依頼にサマヨイ泉の水質調査に、ヌカビカリ草の採取依頼……って、何だかどれも報酬金渋くない?」
「え? どれどれ……」
父さんが俺の持っている依頼書を受け取って、ペラペラとめくる。
「本当だね。今までの相場からすると安いなぁ。初級と同じくらいじゃないか?」
眼鏡を上げながら呟く父さんに、リーナさんが頷いた。
「そうなんですよね。何故か今日の依頼だけ少し安いものが多くて……。今日はやめときます?」
まあ、別に今日依頼を受けないといけないわけではないしなぁ。
「リーナ!」
少し時間を貰って三人で相談していると、リーナさんが受付の奥から現れた太った女性から呼ばれた。その女性は一枚の紙をリーナさんに手渡すと、また奥にいなくなった。リーナさんが受け取った紙に目を落として嬉しそうにこちらに振り向いた。
「志田さーん」
リーナさんが紙をひらひらと振りながら走ってくるものだから、大きな胸が上下に揺れた。男というものは不思議な生き物で、揺れるものがあったら目線が動く。
「――おい」
ドスの聞いた声が、横から聞こえた。首を動かさずに横を見ると、母さんが父さんの耳元で囁いていた。怖すぎる。
「つい今しがた、下級依頼が一件入りました。条件も悪くないかと」
そう言って渡された依頼書を三人で囲む。
猿型の魔物、レモンキー複数匹の討伐依頼。場所はおたけびの山。報酬金は銀貨六枚。
レモンキーは一度戦ったことがあるし、報酬金は相場より少し高いくらいだ。文句はない。
「これでいいんじゃない?」
俺の言葉に、父さんは一つ頷いた。
「うん、これならちょうどいいね。おたけびの山もここから遠くはないし、うまくいけば暗くなる前に戻れるかもしれない」
そうして父さんが名前を書こうと万年筆を握ろうとしたとき、母さんが父さんの手を止めた。
「なにか、おかしくないかしら……」
母さんは不安げに続けた。
「今日に限って他の依頼金が低いし、私たちが依頼を受けようとした時に急に依頼がくるなんて」
「うーん……考えすぎじゃないかい? 偶然だよ」
父さんの言葉に、僕は頷いた。母さんはかなりの心配性だ。鍵を閉め忘れていないか確認しに帰ることも何度かあった。多分、今回もそれだろう。
「そう、ね。たしかに、たまたまでしょうね。ごめんなさい、時間を取らせて」
そうして、俺たちはその依頼を受けることになったのだった。
――そのやりとりの中にある明らかな違和感に気付けなかったことを、俺は後に後悔することになる。
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