第18話.志田桜「そのりんごのような頬にキスをした」

【志田桜】


 グレニラーチという街で過ごし始めて五日が過ぎた。とても濃い五日間だった。

 魔法の練習はもちろんのこと、苦労したのはここの生活に慣れることだ。子供たちを知らない土地で育てなければならないというのは、相当不安なことだった。


 差し当たっての問題は、水の問題と食事の問題、そして電気の問題だ。


 飲み水や料理だけでなく、洗濯や風呂、皿洗い、歯磨き顔洗いトイレ……日常生活にいかに水が必要なことか。蛇口を捻ったら水が出てくるということに今まで感謝したことはなかったけれども、それがとても素晴らしいことなんだと実感させられた。


 我が家から水が汲める井戸までは歩いて十分ほどかかる。以前までと同じ量の水を使おうとしたら何往復すれば良いかわからない。魔法や戦闘の訓練で疲弊しているのに、水を汲むだけでかなりの重労働になる。家族全員で水汲みを手伝ってもらい、消費量を極力少なくすることでどうにかなっている。

 水に関してはチフスやコレラも怖いから、必ず煮沸しなければならない。早くお金貯めて水の出る魔道具を買いたい。


 食事については、今のところ街で買った食材を常備していた調味料で調理することでどうにかなっているけれど、調味料がなくなったら大変だ。街の商店街には香辛料こそ豊富だが、醤油や味噌、みりんなんてものはない。砂糖も高い。


 これから私自身どんどん料理の腕を磨いていかないと、最近食事量が上がっている我が家の子供たちのお腹を満たすことができない。


 電気に関しては、ここ数日はソーラーパネルである程度は賄えている。しかし曇りの日や雨の日は非常に困る。我が家はオール電化だから照明も付かないし料理もできない。冷蔵庫の中のものだって腐ってしまう。早く電気のない暮らしにも慣れないと……。


 このように、生活をするだけでこれだけの苦労が出るのだ。

 これからのことを考えたら子供の勉強も心配だし真太郎さんの仕事先のことも心配だ。はて、あっちに帰れたとしてあっちで私たちは無事に暮らしていけるのか。



 心配事だらけの毎日だが、でも悪いことばかりでもない。家族でいられる時間が増えたし、息子に可愛いお嫁さん候補ができた。


「セラちゃん、炒めた玉葱が冷めたら、ミンチ肉の方に入れてくれるかしら」

「あ、はい、お義母さん」

「うん、それを混ぜ合わせてね」

「こ、こう……?」

「上手上手! セラちゃんうまいねぇ」

「えへへ……」


 かわいい。お肌も白いし髪も綺麗だし若さって無敵だわ。髪や肌を毎日お手入れすることさえ満足にできなくなってきて、最近肌の調子が気になる私とは別格。

 それに野良猫が懐いてくれた感覚っていうのかしら、とてもセラちゃんが可愛く見える。


 セラちゃん自身、親の愛情に触れてこなかったからだと思うけど、とても私を慕ってくれているように見える。三華の頭を乾かしている時に羨ましそうに見てくる姿なんか、きゅんきゅんする。本当に一人子供が増えたみたい。


「ママ、今日のご飯何?」

 三華がリビングから歩いて来る。お腹が空いてきたのだろう。


「ハンバーグよ」

「わ! やったぁ!」

 かわいい。サラサラの黒髪は、ゴムでサイドアップにしてある。というか私がした。


「セラ姉ちゃんも手伝ってるんだね」

「うん。三華もやってみるかい?」

「うん! やってみる!」


 かわいいが渋滞している。私が交通規制をかけなくちゃ。

 ……何言ってるんだろ、私。


「みんな寝たみたいだね」

 食料や調味料などを書き出して、明日の買い物の予定について居間で考えていると、真太郎さんが横に座った。


 もう夜も遅い。昼間は身体を動かしている分、夜は眠いのだろう。子供たちの寝付きが以前よりいい。寝る子は育つと言うし、いいことだ。


「真太郎さん、今日もお疲れ様でした」

「桜の方こそ疲れてるだろう? 十年以上一緒にいるんだ、流石に分かるよ」

「……はい」

 ずるい人だ。私がピンと張り詰めていた糸を、簡単に緩めてしまう。昔からそうだった。


「……正直、悪いけど元の街に帰れるのがいつになるかは見当もつかない」

「はい」

 それは仕方のないことだ。真太郎さんに責任はない。


「第一王女の『星渡り』で帰れるかについてもそもそも確証はない。異世界、と言うのがそもそも僕にはよく分からないんだ。同じ次元の全く別の場所――つまり、地球とは違う星に来てしまったのか、それとも地球とは位相の異なる場所に来てしまったのか。後者なら、単なる三次元的な移動では元の世界に帰れないからね……」

「そう、なんですか」


「だけど、僕は必ず帰る方法を見つけるよ。見つけて必ず、家族揃って日本に帰ろう。桜、君には苦労をかけると思うけれど……」


 眉間に皺を寄せ申し訳なさそうにする真太郎の肩に、トン、と頭を乗せた。真太郎さんの匂いがする。


「私はどこまでもあなたを信じてますよ。真太郎さん」

「……うん。僕も君を信頼しているよ」

「そこは、愛してる、て言って欲しいです」


 真太郎さんは照れ臭そうに頬を掻いた。こういうことを言うのに慣れていないのだ。そこがまた、いいのだけれど。


「…………愛してる」

「私も愛してます」


 真太郎さんを見上げると、耳が真っ赤に染まっている。

 顔を上げて、そのりんごのような頬にキスをした。


 今日も、静かに夜は更けていく。

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