第41話 口論

 コーヒースタンド『ピーベリー』の『奥の店員さん』、いつも焙煎作業を見学しているあの人、その名前すら知らずに今まで過ごしてきたショックに、頭を殴られたみたいな感覚を覚えながら帰宅して、私は洗面台の鏡の前で自分を見つめ返します。

「一体今まで何をしてきたの? 名前も知らないなんて、失礼じゃないの!」

 私は私に、ちょっとした怒りにも似た感情を覚えました。名前くらい聞く時間やタイミングはあったはず。それをして来なかったのは、甘えていた証拠だと、強く思っていました。


「よし。今日の焙煎作業では、ちゃんと名前だけでも聞こう。そうしよう。うん」

 私は自分にハッパをかけて、準備をします。

 薄化粧なのは変わらないですが、髪はさすがに引き締めたいので、後ろにまとめてポニーテールの短い感じにしました。ちょっと顔をひきつる感じくらいが、ちょうど気合いが入って良かったです。

 コーヒースタンドに戻る電車に乗り込んで、少し緊張した心持ちで向かいます。窓ガラスに映った自分の顔は、ちょっと怖いくらいに気合いが入っていました。「ああ、自分は緊張してるんだな」と、改めて感じた所でした。

 駅に到着してゆっくりするも間も無く、ピーベリーに向かいます。その足の歩幅は、少しいているのが自分でも分かるくらいに、大股になっていました。


 そしてそろそろコーヒースタンド『ピーベリー』に到着しようという手前でした。お店の方から男の人たちの言い争う大きな声が、聞こえてきたのです。

「だから、店の金で勝手に飲み食いすんなって、あれほど言って来たろうが」

「うるせぇよ! この店は俺のモンだ! 店の金をどう使おうが、俺の勝手じゃねぇか」

「コーヒー豆の買い付けにしたって、最近は足りないからこっちで持ち出してきてるのに。その上で勝手に使われちゃ、店の営業が成り立たんぞ」

「そこをなんとかするのが、お前の腕の見せ所だろ? 無きゃ、借金でもして作りゃいい!」

「それが無理になるくらい使い込んでいるのが、お前だろう。飲み食いするのは勝手だが、自分の懐からだしてくれ。店の金にまで手を出すな」

「だからもう、うるせぇって! こちとらいい気分で飲んでんのによー!」

「あーそーかい。そりゃ悪ぅござんしたねぇ。酒を抜いて、頭を冷やしてからここに来いよ」

「くっそコーヒー馬鹿が! イキってやがれ、クソ野郎!」


 コーヒースタンドの前で言い争っていたのは、イケメン店員の石原さんと、奥の店員さんでした。石原さんの方はお酒が入っていたのでしょう、かなり語気が荒く、最後には悪態をついてフラフラしながら、コーヒースタンドの前から私の立っている場所とは反対側へと歩いて行き、人混みに姿を消しました。


 ここで石原さんと顔を合わせるのはまずいと本能的に思っていましたから、反対側に向かってくれて助かりました。

 と、そう言えば奥の店員さんは大丈夫なのでしょうか、私は心配ながら、ゆっくりとコーヒースタンドに近づいて行きました。

 お店前には奥の店員さんがいて、頭をかきながらため息を付いていました。話しかけづらいとは感じていましたが、それでも何か話さないといけないと思っていたので、その後ろ姿に声をかけました。

「あの、大丈夫ですか?」

 その言葉にびっくりしたのか、奥の店員さんは肩を跳ね上げてから、ゆっくりと私の方に向き直りました。

「あ……、見てましたか? いやはやお恥ずかしい」

 申し訳無さそうな、奥の店員さんの様子。何か理由があったのでしょう。聞ける範囲で聞いてみよう、そう思ったのでした。

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