第40話 名前?
その日の仕事もなんとか定時で片付けられて、そろそろ帰り支度をしようとしている時でした。
同僚の遠藤さんが、帰り支度が終わった格好で私の所に近づいてきました。
「また今日も、焙煎の仕事を見に行くの?」
「ええ。その予定です」
隠す事でもないですから、私は正直に答えました。
「往復は大変だけど、松本さんの表情、ここ最近は仕事をしてる時でもイキイキしてるもの。いい時間を過ごしてるって事ね」
遠藤さんは全面同意で、私の表情まで見抜いていたようです。ちょっと恥ずかしい……。
「『ピーベリー』の焙煎の仕事、どんな風にしてるのか、教えてちょうだいな」
遠藤さんが催促をしてきますので、やはりここも包み隠さずお話をして行きます。とは言っても、本当に焙煎してる作業風景を見てるだけなんですけどね。たまに味見で、お店に出す前のコーヒーを試飲させてもらっている事は、もちろん重要なポイントなのでお話しますが。
「ふぅん。試飲もさせてくれるんだ。ちょっと早めに味を教えてくれるなんて、ちょっとズルいなぁ」
遠藤さんが羨ましそうに語ります。
「そこは私の語彙力の無さで、どういう味や香りなのか、表現できないのはごめんなさい。でも、とにかく美味しいんです。複雑と言うか奥が深いと言うか」
私が申し訳無さを表現する合掌のポーズをしてくると、その手を包むように重ねて、遠藤さんが語りかけてきます。
「いいのよ。美味しい事が分かるだけでも。それにお店に行けば、ちゃんと買えるんだから。気にしないで」
こういう所、おおらかで遠藤さんらしいです。後で一杯奢った方がいいかも。
そんな事をお話していると、そろそろ他の人たちも帰ろうとしている状況でした。私たちもじゃあそろそろ帰ろうとしていた時に、遠藤さんからこんな発言がポロッとこぼれました。
「そう言えば、ピーベリーの『奥の店員さん』ってあなたが言っている人、名前はなんて言うの?」
「…………え?」
私は一瞬、固まってしまいました。
「焙煎の仕事の見学を何回もしてるくらいだから、名前くらいは聞いたんでしょ? どこに住んでるの? 他の趣味とかは?」
畳み掛けるように、遠藤さんはその『奥の店員さん』の情報を聞き出そうとします。でも、私の中には、その情報がありません。
名前? 住所? 趣味?
全くもって知らない事ばかりでした。『あの人』が休日に何をしてるのか、そもそも名前すら聞いてませんでした。知っている事は、コーヒーに対する知識や経験が凄い事だけ。
私はいったい何をやっていたのだろう。あれだけの時間があったのに、肝心な事を聞いていません。その時私は、頭をハンマーで殴られたみたいな、そんな衝撃を受けてしまったのでした。
かなりの秒数、私がフリーズしているのを見かねた遠藤さんは、取り繕うように言葉を重ねます。
「あー、うん。知らないなら、聞けばいいじゃない。ほら、今日も見学に行くんでしょ? その時に聞けばいいのよ。さ、帰りましょ」
そう言って事務所出口に向かう遠藤さんの背中を見つめながら、私は茫然自失となりながら、やっと「よろり」と一歩を踏み出したのでした。
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