第25話 コーヒー豆は鮮度が命

 その日の夜。

 いつも通りに会社を定時でキッチリと終わらせて、一度自宅に戻って支度をし直して、とんぼ返りでコーヒースタンド『ピーベリー』に到着しました。今日は焙煎を見学する人は、私だけの様子です。


「お疲れ様です。昼間はアメリカン、ありがとうございました」

 今日の日中に注文した『アメリカン』について、わざわざ手間をかけて下さったそのお礼を言いたくて、今日の夜もこうして見学に来ている訳です。

 奥の店員さんは、ハンドピックをしながら私の挨拶に答えてくれました。

「いえいえ。あのくらいの注文でしたら、いつでもできますから。挽き目や湯温の調整なら、普段は普通にしてる事ですし」

 そんな事を語りながら、奥の店員さんは手を動かしつつ、ちょっとボヤキにも聞こえるような独り言を語りました。

「しかし、もうコーヒーも『サードウェーブ』が主流になって定着してる今でさえ、いまだに『アメリカン』を注文するお客さんはいますね。老若男女問わず。「パスタを『アルデンテ』で」って言うのは、市民権を得て誰も頼まないのに」

 あー。もう「パスタをアルデンテ」なんて聞かないですものね。それが普通のテクニックになっているのですから、それは先人の努力によるもの、なんでしょう。


 しかしそこで、ちょっとした疑問が。

「そんな風に注文が時々あるのでしたら、アメリカンを裏メニューとして定着させたらどうですか?」

 私の疑問に、奥の店員さんは眉間にシワを寄せて、首をかしげて答えます。

「うーん。まず石原のヤツですが、そういうのを勉強してないですから。今だって何のコーヒー豆を出してるか、把握してませんもの」

 ちょっと呆れ気味に答えます。そして続きが。

「それに、アメリカン用に別で焙煎してブレンドしたコーヒーを用意するのも、今の仕事量ではちょっとキツいですね。焙煎の度合いを分けた二種類のコーヒーを出すだけでも、管理が大変なんですから。それに、コーヒー豆は鮮度が命なんです」

「『鮮度が命』、ですか?」

 ふと疑問に思ったワンセンテンスでした。お刺身や野菜などでしたら鮮度は大事ですが、コーヒー豆に鮮度が大事という概念は、私の中にはありませんでした。

「そうなんです。コーヒー豆も適切な管理をしてても、悪くなるのが早いんです。こういうのを『足が早い』って言うんですよね」

 私の返答にさらに返す形で、奥の店員さんが語ります。後ろの棚にしまっておいてあった、焙煎したコーヒー豆の入った袋をテーブルの上に出すと、コーヒー豆を計るメジャースプーンで少量をすくい出し、豆皿の上に出して私のいるカウンターの所にまで持ってきてくれました。

 カウンターの上に豆皿を置くと、一歩下がって豆皿の上のコーヒー豆を指差します。

「そのコーヒー豆、焙煎して少し時間が経っているものなんですが、表面がツヤツヤしてきているのがわかりますか?」

 視線を豆皿に落とすと、その上のコーヒー豆は黒々とした発色をしていて、さらにツヤがあって光を反射して、キラリとしていました。

「確かにツヤがあって綺麗ですね」

 見たままの素人の感想を私が言うと、さらに続けて奥の店員さんが言葉を被せます。

「このツヤがクセモノでして。このツヤの元は、コーヒー豆に含まれている『油脂ゆし』なんです。この油脂が酸化しやすいので、悪くなりやすいんです。酸化をすると、苦味はトゲトゲしくなりますし、酸味もイヤな味になります。最悪、お腹を壊す元になってしまうんですよ」

「へぇー」

 納得でした。

 私が、普段飲んでいる缶コーヒーやコンビニコーヒーがあまり美味しく感じないのは、原因がここにあったようなのです。油の酸化。それは私も思ってもみなかった知識でした。


 奥の店員さんは、コーヒー豆の乗った豆皿を下げて元の袋に戻して、袋の口を縛って棚の中に戻しました。

「あれはもう、焙煎してからかなりの日数が経ってしまってますから、後で廃棄です」

「ええっ! もったいない」

 私の反応に驚いた奥の店員さん。びっくりした顔は一瞬だけで、すぐにいつもの表情に戻ります。

「大丈夫です。他の用途がありますから、そちらで頑張ってもらいますよ」

 他の用途? なんだかわからないのですが、そのまま捨てられてしまう事だけは無いみたいです。

「後でお店にいらして下さい。焙煎したコーヒー豆の他の使い方、お伝えしますよ」

 なぜか奥の店員さんは、自信満々でした。

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