玖、天津狐:転

 銀の龍神は洞窟に来ていた。四つ連なる山のうち、南側の山の、北の面にぽっかりと口を開けているのがその洞窟である。ここは元からあったものではなく、彼女がつくった場所だった。点々とつけられた明かりで何とか中の様子が分かる程度だが、歩くにはそれで充分だった。中へと歩いていくと、そこは肌寒く、暖かい季節だというのに羽織るものが必要なくらいである。銀の龍神は、腕に抱えた黒い風呂敷に包まれた何かに目を落とす。歩く度にからからと硬い音を立てるそれを複雑な表情で確認すると、さらに奥へと入っていった。


 奥の突き当りまで来ると、右手に道が折れている。さらに細くなった道を進めば、広い空間に出た。そこはさながら一つの部屋のようであり、丁度入り口の上部分にはしめ縄が張られている。その奥、御帳台に隠れるように座っている人物に銀の龍神が声を掛けた。


「調子はどうだ、菖蒲」


菖蒲、と呼ばれた人物は動きもせず、答えもしない。それに構わず、龍神は御帳台の前に座った。壁の方を向いたままの人物に、変わらない軽快な調子で話を続けていく。最近の集落の様子や、この領域の変わり様など、内容はどれもとりとめのないものだった。一頻り話したところで、話題が尽きたのか龍神が口を閉じたことで沈黙が訪れる。ここまで、御帳台の中の人物は微動だにしていない。その様子に初めて落胆の表情を見せた龍神は、さらに柔らかく、年端もいかない幼子にするように話しかけた。


「のう、菖蒲。確かにお主のやったことは到底許されることではない。だがな、お主がどれほど絶望したか、事の次第を見て多少なり分かっているつもりじゃ。贄に出されたあの娘をどれほど大切にしていたかもよく見ていたつもりじゃ…天涯孤独で構わないと言っていたお主があんなに柔らかく微笑むのをわしは見たことが無かったでなあ、感情が戻ってきたとわしらも嬉しかった。だから、怒りの感情を溢れさせたお主のことを、わしはきつく責められぬ」


はたり、と三角の黒い耳が動いた。僅かに龍神の方を向いた彼女に、銀の龍神はそっと微笑みかけた。


「…しかし、私はもうこの通りです。何にも受け付けられない、触れられない。消滅したほうがいい」


そう言いながら出てきた彼女の姿は、以前に比べて大きく変わっていた。以前の九尾の柔らかかった尾の毛並みは刺々しいほどに逆立ち、両手両足の爪が黒く染まって鋭く尖っている。牙も伸びて口に収まりきらずにはみ出し、白目の部分は黒に染まり瞳が爛々と光を反射して、顔にもとからあった赤の模様が毒々しい紫になっている。それはまさに異形の存在で、意識だけが元の通りだった。その姿になったことで自暴自棄になっているのか、行儀悪く片膝を立てて龍神の前に座りなおした。


「戻りたいとは思っておらんのか」

「そんなの…戻りたいに決まっているでしょう」


あらゆる感情の詰まった絞り出すような言葉を聞いて、龍神は持ってきていた風呂敷をようやく開いて見せた。そこにあったのは、青紫色の珠が九つと同じ素材で出来ているらしい雫型の飾りが一組。それを訝しげに見つめる九尾に、龍神は試すような視線と言葉を投げかけた。


「ならば菖蒲、修行を積むことじゃ。祟り神となった今のお主では確かに触れるものすべてを溶かしてしまう。だが、それを押さえつけるだけの力を身につけられれば、お主は自由じゃ」






 以降、九尾は銀の龍神の言葉通り、一心不乱に修行を積み重ねた。本来狐は長く生きることで神格を得られる、神という存在に近いものである。それが後にどの階級までいけるかは狐次第だが、九尾はとにかく自分を強くするため、何者も傷つけずに触れられるようになるため、必死だった。祟り神という存在に堕ちてしまったところから這い上がるのは、相当な根性が必要となる。祟り神も一種の神ではあるが、その性質が根本的に異なり、清浄な神気と祟り神の負の気が体に混在するのは本来非常に困難なことである。常に不安定で、ともすれば自らがはじけ飛ぶような危険性もある。そんな存在になろうというのだから、九尾は相当な覚悟を持ったのだろう。その惜しまない努力あってか、尾の数は徐々に減り、神としての階級は上がっていった。


 銀の龍神が彼女に持ってきた青紫色の玉飾りは、その修行の上で大いに役立った。細工などが得意な青の龍神が手ずから作ったそれは、祟り神としての性質を体の内部へ封じ込める助けをするものである。尾の先にそれを着けて、耳飾りを着けた時点ですぐに外見だけながらも元の姿に戻したほどの強力な代物。九尾は一時もこれらを外すことはなく、力を封じ込めるための道具というだけでなく、御守りとして心の拠り所とした。これらを着けて心が落ち着いたことで彼女が真っ先にやったのは、中央の山の一角に石を置き、この玉飾りと同じ色をした控えめな見た目の花を、あの娘のために供えることだった。






 九尾の尾が六本に減った頃、ようやく自由に外を歩くことができるようになった彼女は休憩に龍神たちの屋敷に向かっていた。狐は本来空を飛ぶ手段を持たず、神の階級があれば術で飛ぶものもあらわれるが、彼女は『天津狐』と呼ばれる狐だった。これは天狗を指すとも言われるが、ここでは本当に狐である。毛並みと同じ翼をもつ天津狐は空を自由に駆け、その様から流星とも言われる。彼女はその自らの翼で飛ぶのがお気に入りで、今日も空から一直線で向かっていた。


 あと少しで着くというときに、向かい側から青い体の龍が飛んできた。あわや衝突するところであったのを辛うじて避けると、彼は空を滑りながら軌道修正してきた。大層慌てた様子で、何事かと思えば急いできてほしいとの言葉が飛んできた。速度を上げて彼に促されるままについていく。すぐに屋敷に到着し、上がる挨拶もなしに奥の部屋へと連れていかれた。そこにいたのは銀の龍神だったが、隣に小さな子供が座っている。彼女に子どもでもできたのか…と混乱していると、銀の龍神がこいこいと手招きをした。静かに、という仕草もされてそっと近づく。どうやらその子供は寝ているらしい。丁度外側を向いている子供の顔を覗き込んで、九尾は動きを止め瞠目した。


 その子供の髪の生え際からは大きめの角と小さめの角が一対ずつ伸び、その形と腰もとから出て揺れている鱗に覆われた尾から龍の子供だとわかる。角が生えている分髪がよけられて顔が見やすくなっていたのだが、その顔立ちには見覚えがあった。いや、見覚えどころか、それはかつて共に遊び、姉妹の様だとさえ思っていた大切なあの友人の顔だった。安らかに寝息を立てて眠る子供の瞳は隠されていて見えなかったが、九尾は確信した。それは明らかにあの子だと。銀龍が、この子は急に川の中に現れた、おそらくあの子の生まれ変わりだが、記憶はないだろうと言った。九尾は構わない、と呟いた。これから、この子を幸せにできる機会がもう一度来ただけで十分だと、その小さな頭を撫ぜながら、九尾ははらはらと涙をこぼした。そんな九尾の背を青龍が、頭を銀龍がゆっくりと撫で続けた。






 九尾が龍神たちの屋敷を訪れる回数が増えた。目的は勿論、あの龍の子供となった少女だ。度々屋敷にやってくる九尾に、少女は良く懐いた。表情がやけに乏しく、子供特有の無邪気な笑顔や泣き顔はあまり見られなかったが、それでも順調に成長していった。行く行くは神の一員になることがほとんどである龍の子供は成長速度がまちまちだが、この少女はかなり早い部類だった。あまりにすぐ大きくなってゆくため、龍神たちは慌てて前から交流のあった鬼の姫に衣服を頼んで持ってきた。だがそれもあっという間に用済みとなるものが多かった。それほどに良く伸びた。


 結果、龍の少女の成長が止まったのは、人間の年齢にしておよそ十七の見た目だった。平均よりは小柄であったが、贄として命を落とした頃と全く同じ見た目にまでなった娘に、九尾と二人の龍神はとても喜んだ。九尾は、もう使わないがまだきれいだから、と自分の黒い着物と濃紅の袴を渡した。






 ある時、それは九尾が集落を破壊した日と重なっていた。その日九尾は尾が遂に四本となり、晴れて天狐となった。周囲の誰もが祝いの言葉を投げかけ、天狐は柄にもなく浮かれていたのだ。


 丁度この頃に山の守り主を分配しようという話が持ち上がり、天狐と二人の龍神に加え、鬼神となった鬼の姫と移住してきた鴉天狗で管轄を分けたばかりだった。それというのも、この頃浮世で住み心地が悪くなったといって妖怪たちがこの領域になだれ込み、好き勝手に暴れるものが増えてきていた。その数があまりに多く、頻発し、場所も予測できないために、一人当たりの見張る領域を小さくして効率を上げようとしたのだ。そういった事件が最も多い地域はこの時点で能力が一番高くなっていた天狐に任され、あらゆる場所と通じた玄関口である中央の山を受け持った。


 何やら妖怪たちが騒がしいのを聞きつけて、天狐は現場にやってきた。そこにいた低級妖怪たち曰く、ひたすら森を破壊している新入りの妖怪がいるらしい。植物たちが無くなればこの山は崩壊しやすくなる。すぐにでも止めなければと、天狐は急ぎその妖怪のもとへ向かった。案外すぐ近くにそれはいて、言う通り破壊行動をものの一つ覚えの様に繰り返していた。それに加えて図体が大きく、これでは簡単に山の一角がむき出しになってしまうことを恐れた天狐は周囲の妖怪たちに離れるよう呼びかけた。誰もいなくなったことを確認し、頑丈な檻状の結界を張ることで動きを封じ込めた。鎮めようと試みるも、混乱しているようで全く手の付けられない妖怪にため息をつき、この方向に特化している鴉天狗を呼ぼうと飛び上がった。


 その瞬間、体が大きな手に掴まれる。驚いて振り向くと、結界の一部が割られ、そこから腕を伸ばしていた。振りほどこうにもすっぽりと手の中に入ってしまっているため、もがくことしかできない。ぶん、と振り下ろされ、地面に叩きつけられる。かなりの衝撃にすぐ動くことは叶わず、飛び出した腕の動向を見据えた。何か掴むものを探すように蠢いた腕はやがてそれ以上出られないと悟ったのか、天狐をもう一度掴み上げた。まずいと思うにも、体がまだいうことを聞かない。そのうち、尾のうちの一本が指の間に挟まり、妖怪はそれを潰したいのか力を籠め始めた。そこにあるのは、青紫のあの珠。それは、それだけはいけないと、天狐はありったけの力をこめた。しかし、間に合わない。


 ばき、と硬質な珠の割れる音がする。それと同時に妖怪の腕は弾かれたように天狐を離した。落ちた天狐はすぐに起き上がり、また飛び上がると結界の真上から一直線に飛び込んだ。ガラスの割れるような音が派手に響き渡り、妖怪の体はあっという間に溶け落ちて黒い煙を上げた。その中に呆然と立つ天狐の顔は、いつかの祟り神と化した時の物だった。歪んだ笑みを浮かべながら動かない彼女に、周囲に隠れて終始を見ていた妖怪たちは一目散に逃げだしていく。


 天狐は唐突に意識を取り戻した。周囲が黒く燻っている中に立っていることに気づき、自分の手を見る。爪が黒く染まり、鋭く尖って伸びているのを見た彼女は、一度どこかに身を潜めなければと翼を出した。その瞬間、背に焼けつくような酷い痛みを覚えてその場にうずくまる。生えているであろう翼を動かすが、飛べそうにもない。歩くしかないと悟った天狐は、それほど遠くないはずである、かつて自身が囚われていた洞窟を目指した。


 たどり着いたのは、なんと真上に昇っていた月が間もなく沈もうとしている頃だった。かつての状態のままで放っておかれていたその部屋に着いた瞬間、天狐はついに崩れ落ちた。背の痛みと祟り神の性質を抑え込むための気力が底を尽きかけ、立つことすらできなくなっていた。しかしこのままここにいてはどうしようもない。朦朧もうろうとする意識のまま、二人の龍神に助けを求めて一筋の髪から作った式神を飛ばし、そのまま意識を失った。






 銀の龍神が駆けつけると、そこは一言で言うならば阿鼻叫喚だった。意識がないまま痛みや苦しみに悶えたのか、床は血が引きずられ、はだけたり破けたりした着物が散乱していた。ほぼ裸になってしまっていた天狐の体にも血が塗りたくられ、これ以上ないほどの苦悶の表情はかつての祟り神と化した時のものだった。そしてその背から生えているものが、最も酷い有様だった。翼が生えていたのだろうが、根元以外はほぼなくなり、無残にも骨がむき出しとなっている。先の無くなった断面はまだ血がにじみ出ていて明らかに治りが遅い。黒い羽根は少しだけ残っていたが、すべて血濡れとなってべったり張り付き、あとは焼け落ちていた。いまは気を失っているようで動きはしないが、目が覚めたら再び痛みにもがくだろう。あんまりな状況に龍神は眉をひそめた。


 先に体を拭いてやり、神気を分けた後に御帳台へ寝かせる。翼は自然と仕舞われたため、仰向けにして上から龍神の着ていた羽織を掛けてやった。後の始末は指一本ですぐに片付き、目が覚めるだろうかと枕元に座って寝顔を見守った。目覚めは思っていたよりも早く、枯れた声が龍神の名を呼んだ。安静にしているよう諭し、また寝息を立て始める。ここまで修行を積んできた天狐がなぜまたこのように、と考えて、四本の尾を見ると、そのうち一本にかつて渡してからずっと着けていた珠が無くなっていることに気が付いた。合点がいった龍神は、青の龍神にもう一つ持ってくるように報せを飛ばした。






 天狐の復活には三日を要した。あの後珠を着け直したところ、祟り神の相は消えて、本来の治癒力が戻ったのだ。しかし焼け落ちた翼はどうしてか戻ることはなかった。天狐となりながらも、そのうちに封じ込められた祟り神としての性質は強力なものだった。


 そして、毎年この事件があった頃になると天狐の体調が崩れるようになった。特に翼の痛みが激しく、事情を知っていた龍神二人が心配したのだが、天狐は一人で抱え込んでいた。娘を一度失ったのを悔やんで天狐が自ら遺骨もない墓を作り、毎年欠かさず娘の好きだった紫苑の花を供えていたが、それすらもひどい痛みの中忘れることは一度もなかった。押さえつけられない祟り神の性質が表へ出てくるのもこの時期であり、およそ一月ほどは不安定な冷たい風を呼び込み、暗雲をもたらす。


 毎年この時期に雨が降るのは、そんな天狐をどうにか癒すことができないものだろうかと思っている二人の龍神によるものだった。天狐を癒したいがために降らせる慈悲の雨は、浮世では梅雨と呼ぶらしい。

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